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広告デザイナーの虚無感。

午前0時過ぎ、いつものように自宅でパソコンに向かいEver noteに日記を付ける。
約12年前、ゼロから独学でデザインの勉強を始め、幸運にも夢だったグラフィックデザイナーの仕事に就き今までやって来れた。

でも、なぜだろう。
正直たまに自分の仕事の存在価値を見失いそうになる事がある。

私の仕事は、主に企業の商品の販促物のプロモーションのプランを考え
たり、デザインしたりする仕事。

担当者から「作ってもらったデザインすごく評判いいですよ!」、「お陰様で売り上げ上がりました!」と評価してもらえる事が単純に嬉しいし、その声が聞きたくて、期待を超えたくて徹夜してでもクオリティを上がられるよう頑張っていた。また自分の作ったものが社会に出てみんなの目に触れることにもやはり嬉しい。


しかし、ふと一人の消費者に返った時に思う。
「広告なんて本当は誰も見たくない」。

そう言えば小さい頃、父親は広告が嫌という理由で「俺はNHKしか見ない!」とよく言っていたっけ。(ただし、野球中継は覗く 笑)

今や広告活動は表面的なデザインにとどまらず、企業や商品と生活者の橋渡しをするコミュニケーション全般を差す。嫌われ者だからこそ、見てもらえるよう、楽しんでもらえるよう精一杯の努力をする。

ただ、そこに熱意がないとみんなに好かれようとするあまり、みんなに嫌われる「イタいヤツ」に成り下がる。


また、
「世の中にこんなにモノやサービスはいるのだろか。
人はもっとシンプルに豊かに生活できる気がする」。
と思っている自分もいる。

広告により知ることのできる有益な情報や体験というのもある。
一方、消費を煽ってものを買わせる側面も確実にある。

あたかも豊かな生活になくてはならないもののように。声高らかに「これが必要なんです!」と言う。例えそれが私たちにとって本当は「必要」とは言えないものだとしても。
何となく自分が世の中にウソをついている感覚。そういう後ろめたさやジレンマが襲う時がある。

発信することに対する責任感にもっと敏感でありたいと思う。
発信する当事者としての意識だ。

そんなことを思いながら僕はまた明日もデザインを作る。
そんな葛藤を抱えながら。

どう自分の仕事の影響範囲に責任を感じ、折り合いをつけるか、
今の時代みんなそのはけ口を無意識に探してるような気がする。

自分のスキルをいかにソーシャルグッドに結びつけられるか。
それがこれからの時代、働く者を惹きつける”やりがい”となっていく事だろう。


気取らずに、素直にまっすぐに、愚直に伝えられるクリエーターでありたい。本物やリアルをまっすぐ伝えられるクリエーターでありたい。


デザイナー(グラフィックがメイン)。埼玉の自宅にて在宅ワーク中。釣りとスケートが好き。 デザインのことや、自分が大切にしたいことなどをまとめてます。 子供が出来てから、日々の時間の使い方や働きかたを日々模索中。