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わすれたくないから

4月28日、ねこの15歳の誕生日、肺の近くに腫瘍が見つかった。

何時間も病院にいて、あらゆる検査をした。採血もレントゲンも超音波検査もした。こんなときでも、されるがままに大人しくしてるねこが可愛いなあとか思って、獣医さんが「これだけ静かにしてくれる猫も珍しいですよ」と言ってくれたのでえらいね、と話しかけて笑った。

白い部屋で先生と並んでレントゲン写真を見た。「ここに見えるのが腫瘍です」そのあとに続く説明はぜんぜん分からなくて、あーこういう家族の病気の宣告ってドラマで見たことある、とか関係ないことを考えた。話を聞いて、うん、それで、治るんですよね?ってぽかんとしてしまったけど、先生がつらそうな顔をしてたからそっか、と思った。"余命"という言葉が頭に浮かんで、そんな怖いこと聞けねー、と思って口を噤んだ。それを聞いたら現実がたしかなものになってしまう、なにを聞いても現実の裏付けにしかならない。その症状は、いいということですか、悪いということですか。もしかしたら先生は何も聞かない飼い主だなと思ったかもしれない。「人間でいうところの、癌ですか」「そうです」これで会話が終わった。

わたしはもう子どもじゃない。ねこを飼ってる家の子どもじゃない。そっか、これが一人と一匹で暮らすということなんだ。これからの通院でひとつひとつ先生が説明してくれること、それら全部をわたしはひとりで抱えていかなきゃいけない。わたしたちは一人と一匹だから。やせ細るからだを、登れなくなった椅子を、小さくなった「ナァ」という声を、ごはん食べてよと言って落ちたわたしの涙を、そういう階段を一段一段のぼるかのような絶望の連続を、わたしはひとりで見て、受け止めて、生きなきゃいけない。

1週間でねこは急激に弱った。半月前までは、はやくごはんくれって朝起こしにきてたじゃん、と思うけど、そのときにもすでにねこの中には腫瘍があったんだろうな。もっとはやく気づけてたら、とか、今考えても仕方ないことばかり考える。くたびれたわたしを見て「あなたが倒れたら元も子もないよ」と心配してくれる人もいる。うん、そうだよなあ。

コーヒーをいれる。まだこんな状況になる前の、のんきなわたしが買ったコーヒー豆を、毎日少しずつ飲みながら暮らしてる。これを使い切って、わたしはまたコーヒー豆を買うんだろうか。

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