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自然が壊されていく様をただ黙って見ているわけにはいかない

野鳥への餌やりはすべきでない

私は大学を卒業してから一貫して、自然に携わる仕事をしてきた。
子供のころは、自然を守ることそのものが目的で、
若いころは、自然観察の楽しさ、奥深さ、新しいことを知る喜びをみんなとシェアし同志を増やすことが目的だったけれど、
今はそれが手段になった。
なぜか。私は自然観察を通した体験、遊び、または何もせず自然の中に身を置くことが大好きだ。
でも、未来の人たちが私と同じように、自然を利用することはできなくなってしまった。貧弱でも残っているだけまだ良い。そもそもの場は、減った。
昔は良かったなんて、他人事のように自分より若い人に言いたくない、そのために動く、たぶんその辺りが目的だ。

分野問わず、自然に携わる仕事に就く人の中には「昔は〇〇がいっぱいあったけど今ではすっかりなくなってね、残念だよ。」と言う人がいる。その実、具体的に何か策を講じているのかと言ったら、何もしていない場合がある。私はその度に虚無感に包まれる。原因はわかっている、改善する手段もある程度頭の中にある、なのに残念だと言うだけなのか?と。

「これは問題だ。」「見られなくなって悲しい。」その場とは関わりの薄い人やSNSでつぶやくのは簡単だ。だが、それで行動したとは言えない。
ブツブツ言うからには何かしなければと思ってしまうから、問題だと思うことに直面したとき、その時の自分の気持ちが見事なブーメランとなって返ってくる。

自然に携わる仕事をしている以上、啓蒙という形で人に伝えることはできるし、教育という形で子供たちに伝えることは絶対やったほうが良いと思うけれど、目の前でそれがなくなっていく最中で、そんな悠長なことは言っていられない。どちらも同時進行で進めなければ。

密集することで感染症が発生する可能性が高まる

だから可能な限り、私は私にできることをしていく。
表立ってする度胸はないので、世間から疎まれない程度に細々と、でも正確に。

特定外来生物であるアライグマは水辺に生息する貴重な生き物を捕食する

正しい知識を持って正しく伝えるのは、非常に労力のいる行動だ。
相手にされずみじめな思いをすることもある。
その正しい知識とやらも、自身の研鑽を怠ればとたんに怪しく不確かなものに変質する。

ネコの口にはネズミの死骸があった。
アメリカではネコによる野鳥の捕殺は年間14億~37億羽、
哺乳類は69億~207億匹にも及ぶとされている。
下の羽は、ネコに捕殺されたとみられるシロハラとキジバト。

声を上げることで疎まれたり、反発されたり、口撃されたりすることを恐れ、失っていく様をただ眺め、未来の人たちに残せる自然が減っていく、そんなことは避けたい。でも、自分が標的になるのは怖い。それでも、もう一人の自分は何かしら直接的な行動を、と言ってくる。
ジレンマの嵐だ。
問題に直面するたびに、私は関係する団体や機関、当事者に問い合わせて建設的なやりとりを心がける。看板の修正や捕獲罠の設置など動きは多少あるものの、大々的な変化はもたらしてはいない。それでも、なくなって悲しいです、とただ言うだけよりマシなんだろう。
20年、30年先の人が、この程度の行動力で納得してくれるかどうかは別の話だけど。

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