見出し画像

個々人の肉体は自我or聖霊の指示に忠実に作動している操り人形「想念はその源を離れない」個人のものではない「真の目覚め」「真の悟り」を理解する

『奇跡講座』は、純粋一元論、純粋非二元論というジャンルの霊性の道、霊性の教えのうちのひとつ、つまり、「目覚め」や「悟り」を目的とした教えのひとつなのだが、そうではないものとして理解されて、そうではないものとして、実践されることがよくある。

ただ、それは、ある意味では、自我で作った(ように信じているこの夢の中の)この混沌の世界において、分離の象徴として起こるべくして起こっていることで、しようがないことであり、

私(Sakie)自身、通ってきた過程であるから、とてもよくわかる。

それぞれの霊性の道の過程の中で、個々人としてこの実践をしていくならば、目的を見失ってしまうことや、わかったつもりになってしまうこと、何の為にそれをやっていたのか?ゴール設定や、真に欲しいものは何なのか?を忘れてしまって本末転倒になること、等は、恐れ、罪悪感を保持し続けていたいという自我の目的から考えれば、また、その自我の力動の凄まじさを学んでいく中で自我の抵抗の激しさから考えれば、当然のことで、自我は、巧妙に、実は自作自演であるにも関わらず、自分で自分を欺くということは、正当化は出来ないとはいえ、何ら不思議なことではない。

真理は、真の自己は、ただ唯一、永遠の今ここに実在するものであるということ、唯一、脅かされることなどないものであるということ、また、それを認識すること、知ること、思い出すことは、どんな形態、言葉の表現を使っても、厳密にそれを表現する、言い表わす、ということは不可能だということがわかる。

ただ、唯一、その内容を知り、それに至る為には、それ自体(真理に到達する為の、何かしらの霊性の教え)を生きている人、その教えをただただ実践している人の生き様、在り様から、真に学びとりながら、試行錯誤しながら真似て、実践していることが重要だ。

教えることとは、実践すること。

Teaching is demonstration.

本来、それは、口で説明する必要は無く、ただ、身をもってそれを生きていけばいいもので、

ゴールを明確にして心から求めるものには、それは全て、何の代償もなく、今すぐにここで与えられるものである、と確信している。

無意識のうちに「自我との同一化」をしている心の決断の結果として

「今、この瞬間、正に、動揺している、イラッとしている、不安になっているetc...全き平安ではない」もしくは「何かがおかしい、狂ってる」と自覚することが出来たならば、

今もずっと本来居るはずの場所である、全き平安しかないはずの永遠なる今には居ない(と思い込んで、信じているので、それ(全き平安でないもの)を体験している)

「今、(心の選択を)間違っている」

行動レベルのこと、形態レベルのこと、つまり、この世界で起こっているように(個人の)肉眼の目を通して見えている、肉体の耳で聞いている、肉体の鼻で臭っているetc...肉体の脳で考えたり、思ったりするetc...肉体の知覚で感じている結果レベル、幻想レベルのイメージ、表現のことは、一切、関係ない。

真の自己、神、いちなるものetc...は、この世界について、全く関与していないし、全く何も知らない。もちろん、全く、興味などない。(関与する、知る、興味がある、など、一人称として擬人化した表現は、もちろん、比喩であり、内容を伝える為の方便であることはとても重要である)

ただ、私たちは、それ(真理、真の自己)を完全に忘れてしまっていて、全く認識出来なくなって二元性の分離の夢の中で、苦しみ続けて、うなされ続けているのだ。

私たちは、未だかつて一度も、「包括的な目覚めを体験していない」とは、そのことである。

真の幸せ、至福があるその場所に還る為には、原因である心に奇跡を起こす方法を学び、練習し、奇跡を起こしていくことで、今もずっとその完璧な神の平安のある場所にいたのに、忘れていただけだった、そこに居ないという夢を見ていただけだった、今、幸せだったと、あるがままに心眼で見ているのが自分だったのだと思い出すことになる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?