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『奇跡講座』の内容を理解していく際に起こると云われる「退化に見える進化」とは?その物足りない感覚を癒やす

私の赦しの実践の為の備忘録

『奇跡講座』の言うところの「赦し」の実践者ならば、この世界を「教室」として使います。

今、目の前のこの世界の現状を見て、今、目の前に見えているものに対して、大なり小なり、怒りや、不快感、憤りや、冷淡な思考、イラっとした感覚など、好ましくない、いわゆる、ネガティヴな感覚を覚えるならば、それは、赦しの実践の貴重な機会だ、赦しのレッスン、トレーニングの為の教材だ、と捉えます。

執着している人、物、考えなどに対して、ネガティヴは、もちろん、無理矢理のポジティヴ(ネガティヴを感じたくなくて、直ぐに[抑圧][否認][投影]をし続けることで、ネガティヴな感情や、その先にある考えを見ないように自分で自分を上手にまやかす)にも、感情は一喜(pleasure)一憂(pain)し、動き易いです。

上記の無理やりのポジティヴの感覚は、聖霊の知覚で感じる「真の喜び」とは、全く、無縁のものです。それは、例えば、興奮(excitement)快楽(pleasure)欲しかったものを獲得して「やったー!」と、束の間、浮かれるような感覚です。

ただ、その時は、まさに「自我の力動」が既にはたらいているわけですから、自動的に自我を選び続けるサイクルで、クルクル周り続けることにあまりにも慣れ親しんでいる私たちは、それを[否定]したり[裁いたり][咎めたり]することで、更に自我の思考にはまり込み、この世界での「やり方」「処世術」で、このネガティヴな感情を、何とかしようとします。

自分を褒めてもらったり、自分の作品を褒めてもらったり、外側からの承認を渇望し、それが得られている間は、束の間の[神の平安の代替の喜び][快楽](pleasure)にかまけて、心に戻ろうとも、真の平安を望もうとも、思っていません。もちろん、それが悪いわけではないのですが、それでは、束の間の(pleasure)しかなく、その後のまたそれを失った際の苦痛(pain)と、一喜一憂の波の大きさも必ずセットであることを知ることと、その間に失っている「心の平安」という余りにも大きな代償に気づくことで、その外側からの承認への中毒から抜けるきっかけ、赦すことを選ぶためのターニングポイントとなります(実践において、それをダメだと「否定」していくのではなく、「自我とはどういうことをするものなのか?」を知り、それ(これは、自我に違いないということ)に気づいたならば、そこから「咎めず」に見ることからが、実践のスタートなので、いわゆる、「自分は足りていない」という感覚を外側からの賞賛で満たそうという、自己承認欲求に気づけたら、それを、正当化せず、開き直らず、その「自分は足りていない」という考えをしている時のネガティヴに思える感覚から、気をそらさずに、じっと感じ尽くしながら、その考えを疑問視していくと同時に、自ら、望んでその知覚を感じていること、嫌なものではなかったことを自覚していき、自我の(精神)力動を緩ませていきます)

ですから、『奇跡講座』の「赦し」の実践者たちならば、出来る限り、自我の「投影」に気づいたら、すぐに行動する前に、すぐに「赦し」を行うことを選択します。

そして、簡単ではないことなのですが、「私が何よりも欲しいもの」「私が何よりも(何にも増して)望むもの」としての「心の平安」の為に、原因レベルでの「赦し」を実践していき、原因レベルでの選択のし直しをすることで、「心の平安」を取り戻していきます。

レッスン24
私は自分の最善の利益を知覚していない。

レッスン25
私は何が何のためにあるのかを知らない。

レッスン122
赦しは、私が望む全てを与えてくれる。

『奇跡講座』ワークブック編 
中央アート出版社

そうすれば、結果的に、もちろん、この世界レベルでの最善の行動も、最善だという確信を持った状態で、行動出来ます。

じゃあ、逆に、「赦しの実践」をしない選択をして「自我との同一化」をし続けていくとどうなってしまうのか?その代償の大きさと無惨さ、むごさというものに気づいていくこと、事前に、結末はこうなる他ない、全てを破壊する行動を取ることになる、と、見破っていくことで、「聖霊」の目的を望む意欲を自らかき立て、聖霊の指示を受け入れていき自分の[目的]の純粋度を上げていっている作業、だとも思います。

くどいようですが、聖霊の指示を受け入れたくない、聖霊の言う通りにしたら、とんでもないことになる、自分で決めないなんて、恐ろし過ぎる、と思っているのが、「自我との同一化」をしている私たちにとってのデフォルトの思考です。

その自我の[抵抗]に気づいていくことで、その自我の[抵抗]を、聖霊という、私たちには到底知り得ない、絶対的な天国そのものの記憶を持っている内なる神聖な存在に支えられていることに信を置き(聖霊とは、自分の心の正しい思考をしている側面であり、それは「真の自己のアイデンティティ」を覚えている部分なので)、「聖霊と同一化した」私からは、しっかりと[咎めず][裁かず]直視すると、自分で掛けた闇のベールで隠していた、愛の現存が、はっきりと、今すぐにここで即時的に、視えるようになり、眠ったままの、盲たもの、盲目ではなくなります。

これが、「聖霊の心眼(visionヴィジョン)」と言われているものです。

その時は、肉眼の目を閉じている状態ですが、心眼で視ているので、安心感、安堵感の中で、絶対的な愛に触れています。それは、瞬間であっても、触れたか、触れなかったか、わからないというようなものでは決してなく、必ず、[私が真に望んでいた、それ]だ!とわかるくらいの「心の平安」の状態を知覚して、慈愛の目、慈悲の目で、この世界を微笑みを浮かべ、眺めています。

「この世界の外側にいる本当の自分、心の自覚を取り戻している心のわたし」が、「この世界は幻想であり、もともと、一度たりとも、分離は起こっていなかった」と知っている状態、一瞬、悟っている状態、真理を思い出している状態なので、無意識レベルでの癒やしが起こります。

徹底して、内的な作業と内的な知覚のシフトです。

ですから、それを、他者に見せる方法は、ひとつもありませんし、見せる必要がありません。

【質問8】コース』を学んで「悟りに達した人」はいるのでしょうか? (#32)

(中略)

【回答】
(中略)報告がないということには何の意味もありません。真に悟りに達した人は、自分が自我を完全に超越したことをわざわざ他の人々に知らせる必要など感じないはずです。実際のところ、むしろこの点が、自分は悟りに達したという宣言が本当かどうかを見分ける助けとなるとも言えます。もし人がそのことを公表して回るとしたら、それはほとんど確実に、まだそこには自我が残っているしるしだと言えます。

ワプニック博士のQ&A選集
JACIM事務局

仮に「自我との同一化」をして、存在論的な罪悪感を持っている人が、「聖霊との同一化」をして「聖霊として生きる」人を、肉眼の目で見ると、自分の中の罪悪感を必ず相手に「投影」するので、その行動は、悪いことであると判断して咎めて、疑わず、不誠実、強欲、理不尽にさえ感じ、怒りとなることでしょう。

「自我との同一化」をしている民衆が、「聖霊との同一化」をしているイエスを十字架にかけた理由は、罪悪感がある人からは、罪悪感の無い人は、罪人にしか見えず、罪悪感を手放していくまでは、罪悪感を正当化して攻撃するのが[自我]の常套手段だから、当然の帰結なのです。

この世界は、自我的な[目的]を持った幻想だ、とするところが、『奇跡講座』は一元論の教えの一つであるが、他の一元論の真理の教えとは違っているところだ、とケネスワプニック博士は云います。

その自我の[目的]は、「分離は実際に起こった!」と、証明し続けることで、私たちが、聖霊を再選択できるような心の状態に戻らないようにすることです。

[自我]を教師にして、それ(自我の思考体系)を受け入れている時、真理なんか知ったら、つまらなくなるよ、刺激的じゃなくなるよ、人生が色褪せるよ、一喜一憂の方が、楽しいでしょ?と自分で自分をそそのかします。

ですが、そもそも、自我はどういうことを思い、どういう風に隠れた意図を持って魔術を使い、何をどのようにするものなのか?ということを知り尽くしてその巧妙さを、事前に知り尽くし、攻略し尽くすならば、同時に、その真逆の思考体系を持つ聖霊の[目的]と、[聖霊]のしていることを知り尽くしていき、聖霊への信(faith)が深まっていくことになり、どちらが真には魅力的か?どちらが圧倒的に魅力的か?明確にわかるようになり、私の選択は、「聖霊一択」となっていきます。

聖霊は、圧倒的な魅力を持って、こう、私たちの心へダイレクトに語りかけます。

「分離は一度も起こっていなかった」と。

聞く耳のあるものは聞きなさい、とは、その声を聞くのには、肉体的な耳では全くその声は聞こえず、真に聞きたい、真の幸せを受け入れたい、というわずかな意欲が必要という意味ですが、それもまた、あなたの宝が、「心の平安」であるならば、ということでもあります。

ですので、私の宝は何なのか?私の望むものは、何なのか?ひとつひとつの具体的な赦しの実践の積み重ねで、自分自身の[目的]の純粋度が上がってくると、少しずつですが、実践は、習慣となり、その習慣が、いずれは、私自身、私の生きる上でのルールが、「自我との同一化」をしないこと、つまり、「聖霊と同一化」して、聖霊として生きることとなっていく、霊性の道すじ、階梯の上の方が垣間見えてきます。

今後の道のりが見えてくれば、少しずつ、1番苦しかった、弁別の時が終わっていくことを感じます。

柔和なレッスン、トレーニングとはいえ、レッスン、トレーニングはずっと続いていきますが、ネガティヴな感情への免疫力が上がって、聖霊と共に神の国を守るためだけに警戒をする心の筋力(心の力)がついてくるので、そのレッスン、トレーニングによって、霊の活性化をしていくことがWelcomeな心の状態となってきます。相変わらず、外側の世界では、失敗やトラブルは、続いていきますが、また、時たま、ラッキーな出来事に思うことも起きますが、それと、私の「心の平安」とは、全く無関係であることがわかってきます。

私の「心の平安」は、私の心の選択によるもの、私の自由自在であると悟るようになっていき、意図的に、自ら望んで「奇跡」「知覚の訂正」「罪悪感の取り消し」を起こしていくようになります。(奇跡志向、undoing,unlearling志向の心となっていきます)

この世界への執着を手放していくことになると、そこに重きを置かない(自我に力を与えない)のですが、聖霊の視点(心眼/ヴィジョン)からは、逆説的なのですが、この世界に対して全てにそのままでOK!と、愛してる、ありがとう、を言い続けていくような、愛の表現の延長が止めどなく流れ、この世界をもっと大切に丁寧に、普通に、生きるようになります。逆に、それは、同時に、『奇跡講座』で学んでいることの内容への理解の、明度と精度と純粋度が上がるイメージです。

いずれは『奇跡講座』さえ、習得したならば、赦して手放していきます。

それは、自我との同一化をしている他者から見れば、退化のように見えるということも、多々、あります。

聖霊の心眼を持ってして見ているのでない限り、他者が、自我なのか?聖霊なのか?行動レベルの結果だけを見て、どうして見分けられるでしょう?とケネスワプニク博士がいっていたことの真意が、やっと受け入れられるようになりました。

『奇跡講座』を学んできて、完全に目覚めました!という報告は、まだ、ない。だけど、完全に目覚めた人が、もはや、それを吹聴するだろうか?ということも先に引用したQ&Aでは、仰っています。

他者の中に、愛を求める呼びかけではなく、自我を見るのならば、私が自我を選んでいる証拠にすることは、私は、肝に銘じていこうと思います。


参考

JACIM ホームページ
奇跡講座の学び方 より抜粋

◆ 「啓示」について
「啓示」については、『奇跡講座』はあまり語っていません。「テキスト」の最初の方と、「ワークブック」の中でほんの少し言及されているだけです。

このコースで「啓示」があまり重視されていない理由は、それが心を変化させるものではないからです。「啓示」とは、喩えて言えば、標識のようなもので、高速道路をドライブしていて、道を間違えたかと不安になっているとき、目的地までの距離を示す標識を見つければ安心する、というのと同じです。
(中略)
神からの啓示や無我の境地だと感じられる体験から時として生じる問題は、そうした体験は非常に強烈なものなので、それに魅了されてしまって、自分の心に注意を払うのをやめてしまうことがある、ということです。そうした体験自体は確かなものだったとしても、その体験を理由にして、あなたは心に覆いをかけてしまい、罪悪感を取り消すための赦しの実践をやめてしまうということがあり得るのです。だから、このコースは、「啓示」については、ほんの少ししか語っていないのです。


このnoteの文章は、私が見返した時に、私自身の赦しの実践の一助となること、私が赦したくない思いにかられた時に、初心を思い出す、誰に言われたからやっているわけでもない、自分のためにやっていると思い出すための、自分の実践のためのメモとして書いていますが、それが、誰かの心の整理の役にたったなら、それは、とても嬉しく思います。

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