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【エッセイ】圧倒的な感情のうねりを前にしたとき、人は

今日、これから書くことは、ここ2、3ヶ月の間、ずっと書こうとしてなかなか書けずにいた話である。5月に、ドイツのとある街の大学で、ウクライナの法学者たちの講演を聴講する機会があった。そこで起きたこと、特に、感情の波が伝播して会場を埋め尽くし、理論の力に対して少なからざる疑問を持つにいたった経緯について書き記しておきたかったのである。

本や、ネット上の記事・動画などを通じて、容易に情報や知識を獲得することができるようになった。それでも、肌身で体験したことは、いつだって想像の範疇を簡単に超えていく。ここでは、そうした想像の範疇を超えた「生」の経験であって、しかしその一端にしか触れることができなかった「何か」についてお話ししたい。

通常の講演会や研究会において、登壇者のすべてが女性研究者であるということは比較的珍しい。それだけに、当日の講演会の報告者がすべて女性であったことは、すでにことの異様さを表していた。いまウクライナでは、18歳以上で戦闘可能な男性は全員が徴兵対象となっている。60歳未満の成人男性のほとんどは出国を認められていない。

講演会では、4人の女性研究者らによって、次の4つのテーマについて報告が行われた。➀徴兵制、②戦時中のデータセキュリティ、③戦時中のプロパガンダ、そして④戦争犯罪についてである。中でも、特に記憶に残るやりとりがなされたのが、徴兵制とプロパガンダに関する報告においてであった。

徴兵制に関する報告では、ウクライナにおいて、徴兵制を廃し、職業軍人のみを認めるべきかどうかが議論された。ウクライナでは、2013年に一度徴兵制が廃止され、2014年に「募兵制」に転換されることになっていた。しかし、結局、ロシアによるクリミア半島の占拠とその後の内戦を理由に、徴兵制は再び復活することになった。そして、2022年のウクライナ危機により、総動員令が発令されるに至っている。前述の通り、18歳から60歳までの男性市民は、ウクライナからの出国が禁止された(最近、ゼレンスキー大統領が、徴兵を望まない(特に富裕層に属する)男性らから賄賂を受け取っていた担当者らをすべて解任したことがニュースにもなったところである)。

その日の講演では、報告者自身は、「私は、職業軍人に限るべきだと考えている」として報告を締めくくった。その後、質疑応答の時間になり、フロアからは次のような問いが投げかけられた。

国民は、国を守るために戦う義務があるのではないか

私は、この問いかけを聞き、日本人である私が答えるとすれば、どのように答えるだろうかと考えをめぐらせていた。

「日本の憲法では、徴兵制について明文規定はないが、軍を持つこと自体が禁止されており、国民が国を守る義務を負うことは解釈上導き出せない。だから、国民が国を守る義務を負うという考え方は絶対的な考え方ではない。私自身、国のために国民に死ねというような考え方を支持することはできない。これ以上の人権侵害はないと考える」ということだろうか。

こうした意見を考えているうちに、質問者と報告者とのやりとりが複数回往復し、最後に報告者から次のような回答がなされるのが聞こえてきた。

「私には、息子がいる。研究者として回答しなければならないことは分かっ 
 ているが、母親としてどうしても賛同できない」と。

議論は、この回答の段階でストップしてしまった。机上でのやりとりではなく、生の当事者が発するその言葉には、理論的な説明はなかった。しかし、それに対して、それ以上、誰も言葉を発することができなくなってしまったのである。

その発言を聞いた途端に、私は、このような特異な憲法を持つ日本の議論が、どこかユートピアの話をしているようにも思えてきた。私たちは日本国憲法で守られている。国のために命を落とせなどと言われない。しかし、もし日本という国が一方的に理由なく攻められたとき、国を守るために戦う義務を負わないとすれば、そのとき何が起こるのだろうか。仮に戦わずに国土が失われたとしたとき、私たちの人権は侵略国によって果たして本当に守られるのだろうか。祖国が失われたときに、日本人として生きる意味とはなんなのだろうか。多くの人はきっと日本を守ろうとするに違いない。だけど、日本を守らずに逃げるという選択肢は用意されるのだろうか。平和が当たり前であることを前提とした日本の議論が絵空事のように響くような気がして、私は発言を控えることにした。

ちなみに、ドイツでは、2011年に徴兵制は廃止されている。そのためか、「国民は国を守る義務があるか」という問いに対して、年配の男性と、若者とでは、受け止め方が違ったように感じられる。その表情からすると、若者たちの反応は、日本人である私が受けた衝撃に近いもののように感じられた。

このやりとりを通じて、会場は、重々しい雰囲気を帯び始めたが、その後、サイバーセキュリティのテーマに写り、フェイク動画や電波妨害の問題などが紹介され、張りつめていた会場の空気は一度収まったかにみえた。しかし、次のプロパガンダに関する議論に入り、重々しい空気は一気に加速することとなった。

当初、私は、ロシアによるプロパガンダについての報告がなされるのだろうと考えていた。しかし、実際には、報告では、ウクライナで「誰も傷つけたくない。人を殺したくない」と主張したウクライナ人男性のブロガーが罪に問われたケースが紹介された。そして、このような主張をしだすと、みんなが戦わなくなり、戦争に負けて、国土を失うことになってしまうという理由から、結果として、表現の自由が制限される判断が裁判所によって下されたという。

この報告を受けて、フロアからは、「戦時下では表現の自由の意味は変わってしまうのか。変わってはいけないだろう」との質問が投げかけられた。

これに対し、報告者は、次のように答えた。
それは平和な国に暮らしている人だから言えることだ。ウクライナは他国に攻めにいったわけではない。理由もなく攻め込まれたのであり、しかも戦わなければ、国土を失うのだ。表現の自由の意味も変わり得る」と。

これも、先ほどの回答と同様に理屈のない回答であったが、その言葉は、平和な国で暮らしている私たちの言葉を封じ込めるには十分な重みがあった。しかし、前回の感情的なやりとりがあったからか、フロアからはさらに次のような主張が展開された。

学問的議論は、感情と分けて議論されければならない

それに対し、報告者はこう答えた。

研究者としては、身が引き裂かれる思いだ。科学的で、客観的でありたい   
 が、そこにはいつも感情がある
」と。

会場は緊迫感で一杯になった。ウクライナの研究者たちの悲痛な思いが、質問をしたドイツ人研究者を含め、会場にいたすべての聴衆に痛いほど伝わっていたからだ。なかには、目に涙を浮かべる者もいた。

私たちは、そのとき、圧倒的な感情の前に、理論を持ち出す勇気があるのかを試されていたように思う。理屈が、これほど冷たく響くことを経験したことはなかった。

日本では、歴史の授業のなかで、戦争の原因の1つとなったのは、言論統制であると教え込まれる。セオリーとして正しいことを言うのであれば、「戦時下であっても、表現の自由の意味は変わってはいけない」といわなければならないはずである。直観的にも「人を殺したくない」という当然誰しもが抱く(正しい)感情を表現しただけで罪に問われることなどあってはならない、と多くの人が感じるだろう。

この2つの報告では、たくさんの矛盾がとびかった。表現の自由を制限してはいけない。息子たちを戦争に行かせたくない。国家による国民の人権侵害があってはならない。だけど戦わなければ国を失う。非常事態の下では、人権侵害の範囲は変わり得るのかもしれない。そうだとすれば、それはどこまで認められるのか。いやそれを認めたはいけないことは、第二次大戦で学んだことではないのか。平時には正しいはずの理屈は、うすら寂しく響いた。

私がこの講演会で肌身で感じた最も恐ろしい体験は、強い感情の渦が、理論立てた議論を打ち消さんとする、その力の大きさだった。大切な人がたくさん死んでいく。そんな状況に置かれたときの人々の感情は、理屈などでは動かせないほどに禍々しいものになり得ることを知った。その場にいた感情の種は、たった4人の女性だった。だけれど、会場にいた聴衆はその感情の波に流されそうになった。そこには研究者もいた。しかし、会場の研究者が発言をはばかられる程度に、聴衆の悲痛さの共有は、会場の空気を支配するのに十分であった。もちろん、それは聴衆が戦地から離れた平和な場所にいるからこそ、言葉を紡ぐことができなくなっただけなのかもしれない。自らが当事者になったときには、捨て身で、正しいと思う理論を展開するのかもしれない。しかし、私は、回顧ドキュメントなどでみたヒトラーの演説に聴衆が熱狂したあの力の一端をそこに垣間見たような気がしてしまったのだ。

戦時中、日本が、到底立ち打ちできないアメリカに戦争を仕掛けてしまった原因はなんだったのかを考えてみると、様々な理由が重なった複雑なものだとは思う。しかし、その原因の大きな1つは、国民がそれを望んだからだと思うのだ。もちろん言論統制のせいで、誤った方向に国民感情が煽られたのは事実なのだろう。しかし、仮に言論統制がなく、正しい情報が提供されていたとしても、石油の輸出が制限され、経済的に追い込まれた国民は、その正しい情報に耳を貸したのだろうか。大多数が湧き上がるなかで、少数派は、自らの意見を唱えることができたのだろうか。

例えば、ウクライナ危機が起きた直後、橋下徹弁護士がテレビで「ウクライナの総動員令は深刻な国家による人権侵害だ」というような主張をしていたことがある。それに対して、他のコメンテーターたちは、「ウクライナは理由もなく攻められているのだから、その主張はウクライナの人の気持ちを分かっていない」というような返しをしていた。こうしたやり取り思い出すと、人権侵害を食い止めようとする主張は、大きな感情のうねりの前ではいとも簡単にねじ伏せられてしまうのではないか、そんな疑問を頭から拭い去ることができなくなってしまった。

「国民は、国を守る義務—国のために死ぬ義務—を負うのか」
「戦時下では、表現の自由の意味は異なり得るのか」

平時にこのような質問をぶつけられれば、多くの人は、「NO」だと答えるだろう。しかし、戦時下におかれたとき、これに対して、どれだけの人が「Yes」と答えてしまうことになるのだろうか。そして、その「Yes」が理屈もなく感情だけに支えられて、社会を動かしていってしまう様を想像すると恐ろしくてたまらない。

正しければ、あるいは合理的あれば、それだけで人々を納得させることができるわけではない。深い悲しみや恨みを抱えた、たくさんの人の感情を無視した理屈が、あれほどうすら寂しく響くというのなら、ペンを剣とする者は、冷静さと人の感情を理解できる老獪さをもって、感情に寄り添いながら、その剣を振るわなければならないのだろう。しかし売り上げを気にしなければならないマスコミに本当にそのような役割が果たせるのかは甚だ疑問である。だからこそ、理屈をきく側こそが、自らが感情の波にのまれてはいないか、耳に心地のいい主張に理論的根拠が存在しているのかを確認する努力を怠ってはならないように思う。あの感情の海に溺れてしまう危険性は常に私たちの隣に存在しているのだから。


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