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他人の幸せを見て傷つきたくない。他人の不幸を願いたくない。

「他人の不幸は蜜の味」という言葉を時々聞く。
僕はこの言葉が嫌いだ。
他人の不幸を悲しみ、他人の幸せを共に喜ぶことのできる人間になりたいと思っているだ。


私はよくヨルシカの楽曲を聴くのだが、
ヨルシカの『だから僕は音楽を辞めた』という歌の中に

幸せな顔した人が憎いのは
どう割り切ったらいいんだ
満たされない頭の奥の、化け物みたいな劣等感
ヨルシカ『だから僕は音楽を辞めた』

という歌詞がある。

この歌詞を聞いた時、私は共感してしまった。
他人の不幸に安心や愉悦を覚えたり、他人の幸せに嫉妬したりする自分がいることを認めざるを得なかった。

生存競争のためにプログラムされた自然な感情だと片付けることができるのだろうが、それでも、他人の幸せを一緒に願って喜ぶことのできる人間になりたいと思ってしまう。


確かに、他人の幸せを下げて自分の幸せを上げるような感情を持った方が、昔みたいに厳しい環境で生き抜くためには適切だったのかもしれない。

けれど、これからは「皆で幸せになる」という認識を持った方がより豊かな世の中になるのではと思ったりする。

(あ、これは社会主義を目指すとかそういう難しい話ではないので誤解しないでください。)

「皆で不幸でいよう」
「誰かが抜け駆けして幸せになるのは許されない」

そんな風に足の引っ張り合いをしていても、社会は成長しないし、幸せに生きることが出来る人を減らすことになってしまう。


足を引っ張り合うよりも、手を取り合って、より多くの幸せがもたらされる世界になってほしい

競争は必要なものであるが、そういう結果につながるようなものであってほしい。



良い世の中になってほしい。幸せな人が増えてほしい。
実現が難しい願いだが、仮にそんな世界に近づいたとして、
その時に他人の幸せのせいで不幸を感じてしまう人が多かったら意味がない。

他人の幸せを願い、喜べる人が増えたらきっと良い世の中になる気がする。
私自身、そういう人にまだなれていないけれど。


近いうちに、「他人の幸せに傷つかない人になるために」と「他人の幸せを願う人になるために」という内容の記事を書きたい。
書いたらここにも貼っておこう。



色々難しいこととか回りくどいことをかいたけれど、
僕が言いたいのは結局、
他人の幸せを願い喜べる人になれたら、世の中はもっと素敵になるし、自分自身も幸せな人生を送ることが出来る気がする
ということだ。

ちょっとずつ、前に進んで行きたい。



今日の記事はここまでです。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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それではまた別の記事でお会いしましょう!





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