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“友達”について考える、24歳春


友達って、人によって基準が違うと思っているんだけれど、どう定義されますか?
辞書的な意味だと、以下、一例。

互いに心を許し合って、対等に交わっている人。一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人。

goo辞典

互いに、とか対等に、とか、どうやって双方の認識を擦り合わせるんだ??


わたしの友達の定義は、
“自分(わたし)にマイナスをもたらさない、悪い影響を与えない”

何とも都合の良い、薄情な女だと思われるんだろうなあ。
仕方ない、事実だから。何とでも言ってください。泣


まあ、お前の言い分を聞いてやらんこともないぞ、という優しい人だけ、読み進めていってくだされば、本望です。


まず、わたしは境界線をたくさん持っていて、
友達、先輩、後輩、同期、同僚、知り合い、など。
家族以外の人間を細かい区分に分けることが得意である。



そのヒエラルキーの1番上にいるのが『友達』というわけだ。
また、唯一選択権があるのもそう。
友達は、義務的な意味を持たないから。取捨選択して良いし、現に誰もが1度はしたことがあると思う。



結論から言ってしまうと、
わたしは一般的な人よりは多く取捨選択を、躊躇いなくする。
だから、友達がとっっっても少ない。


次。じゃあ何故、取捨選択をしてしまうのか。
前述した通り、関わっていてわたし自身に対してマイナスな感情を抱く時、〝あ、この人はわたしの人生に必須ではないんだ、総合的にマイナスになるな〟という思考が生まれてその人はわたしにとって友達ゾーンからは外れる。


わたしの特性として、自己肯定感が欠落している。
一緒にいて、ありもしない自己肯定感が下がるような気持ちになる人は、どうしても友達にしたくない。

もちろん、友達はわたしよりも優れたところをいくつも持っているから好きだし、尊敬しているのだけれど。
身近にいる友達としょっちゅう比較してしまっては、疲れて仕方ない。





ここまで言っておいて変かもしれないが、自分に少しでもメリットがあると思えば、友達じゃなくても手段として一緒に遊んだりしゃべったり、ご飯を食べに行ったりできる。



周囲から見れば、仲が良いから友達としてご飯に行っていると思われるが、わたしは目的のために時間を使って知り合いとご飯を食べている、と認識している。友達以外とは、目的も無く会うことは絶対にない。絶対に。




書けば書くほど、自分の薄情さに絶望する。
どうして、いつからこうなってしまったのか、と思えば、きっと、理由はあった。

大学生の時、それはそれは無駄な関係が多かった。どうしても最終的にマイナスな気持ちにしかならないのに、自分の社交性は仇となって、顔が広いことはいずれ役に立つし、人とのつながりは大事だと思っていた。
結果得られたのは、依存と執着、嫉妬、比較した末の自己否定が大半。


社会人になってから、不意にLINEのアカウントを消してみた。
半年経っても、わたしの毎日は消す前と何ら変わっていない。

普段わたしの友達をしてくれている人たちは、どうやってわたしの自己肯定感を下げずに付き合ってくれているのだろうか、、と考えてみた。共通するのは、わたしの長所を理解して、少しばかり尊敬してくれている。おかげでわたしは、死んだって良いのに、自分を否定せずに生きられている。とっても抽象的だけれど、お互いに、人間として尊重できているのだろうな、と思う。

友達とはいえ、嫌なところの1つや2つ、必ずある。
返信が遅いところとか、計画性がないところとか、あんまり寄り添って話できないところとか。
そりゃあ人間だから、それこそ完璧であっては困るし、あれもこれも受け入れて結論好きなのだ。

数少なく限られているからこそ、友達にはとっても良くしたいと思うし、心身ともに健康に生きていってほしいと思う。わたしにできることなら何でもしてあげたいと心の底から本当に思う。



このnoteをここまで書いてきて、
もしかしたら、そう思わせてくれる人が、わたしにとって友達と定義されるのかもしれない、と、また1つレベルアップした気分。


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