微睡みの中で揺蕩う

突然だが、あなたは何か嫌な事があった時、「あぁ、これが夢なら良かったのに……」と考えたことはないだろうか。

目の前に横たわった「出来事」を「虚構」のものと思い込み、その「虚構」に対して「夢である」という理由付けをする。

そうすればいざ夢から覚めた時、その「虚構」が現実となり、自己は救われる―――というシーケンスだ。

「虚構」が「現実」になるという、矛盾じみた現象が起こるのだ。


しかし、実際は虚構が"虚構らしく"あることの方が多い。

反実仮想によって、人は某歌の詞にもある通り「夢ならばどれほど良かっただろう……」と考えるのだ。


そこで、私はこう考える。

「今、我々が認識している「現実」さえも「夢」だとしたら」


本当の自分は病気か事故で長い眠りにおちている、はたまた昼寝をしているだけかもしれないが、"長い夢を見続けている"としたら……面白くは無いだろうか。

そうなると、私は23年分もの夢を見ていることになる。


しかし、夢はいつか終わる。この夢の終わり……すなわち、私たちの「人生の終わり」を夢の終わりと定義するならば、それはこの世界においての「死」を意味する。

ただでさえ23年分という夢を見ているのだ。しかもリアリティに溢れ、痛感すらも存在する現実のような夢………。

リアリティに溢れ過ぎていて、「やはりそんな状況は存在し得ない、ここが現実世界だ。」と言う人も、もちろん居るだろう。

真偽が分かるのも、夢が終わる時。夢かどうかは、夢が終わってみないと分からないのだ。



下層意識に呼び掛け、「夢の終わり」という邂逅の砌(みぎり)で、私たちは「終わり」という現実を思い知るのか、それとも「始まり」という、本当の自分としての生活を再び歩み始めるのだろうか。





2019.06.19

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