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アウシュビッツを見学するということ

留学先がイギリスであるという地の利を活かして、ポーランドにあるアウシュビッツ・ビルケナウ博物館の見学をしに行った。
歴史の研究をしている友人から「イギリスに留学しているのなら、一度はアウシュビッツを訪れるべき」と背中を押されたことから、今回の訪問が実現したものだ。

実際に訪れた感想としては、留学や駐在でヨーロッパに在住されている方には特に、ぜひ足を運んでほしいと思った。
「そうはいってもアウシュビッツって恐ろしい場所なのでは?」「そもそも歴史をあんまり知らないからなぁ」といった方も安心してほしい。私も同じような状況だった。それでも間違いなく学びの多い場所といえるので、以下の感想を参考に、早速訪問の予定を立ててほしい。

事前のインプットはした方がいい

恥を忍んで言うと、私の歴史知識は高校生の段階で止まっており、「アウシュビッツというのは第二次大戦中にドイツ軍がユダヤ人を根絶するためにヒトラーによって建設された強制収容所で、毒ガスによって多くの人命が失われた場所である。その他にも非道なことがたくさん行われた恐ろしい場所である。」という程度のふんわりとした知識しか持ち合わせていなかった。もっと言えば、アウシュビッツの所在地を問われれば「ドイツのどこか」と答えていたと思う。
さすがにこの程度の知識で現地訪問をすることは憚られたため、少ないながら、以下の書籍で予習をしてからポーランドへ向かった。

①『ホロコースト ナチスによるユダヤ人大量虐殺の全貌』- 芝健介
②『アウシュヴィッツの地獄に生きて』- ジュディス・S・ニューマン
③『夜と霧』- ヴィクトール・フランクル
④『ホロコーストを次世代に伝える』- 中谷剛

『ホロコーストを次世代に伝える』は今回ガイドをしてくださった中谷さんの書籍。
『アウシュヴィッツの地獄に生きて』以外はKindleでも購入可能。

結論から言うと、これらの書籍で最低限の知識をインプットしてから現地を訪問したことはとても良かった。
アウシュビッツに行き着いた時代背景というマクロの文脈(①)と収容所内の出来事というミクロの情報(②③)を仕入れておくことで、アウシュビッツ見学時の理解の深度が異なるように感じた。また、博物館の展示はいわば強制収容所「跡地」の展示となっているため、そこで起きた「中身の出来事」は(当然ながら)想像によって補うしかなく、その意味でも事前のインプットは有益だった。

ガイドツアーへの参加がおすすめ

博物館を見て回るにあたって、唯一の日本人公認ガイドである中谷剛さん(中谷さん)による日本語のガイドツアーに参加させていただいた。
とても人気のガイドツアーなので、可能な限り早い段階から予約のご連絡をすることが良いと思う。予約方法等についてはこちらのブログがわかりやすい。

英語に自信のある方は英語ガイドでも良いとは思うものの、中谷さんのガイドはアウシュビッツやその背景に関する日本人の理解度を踏まえて行われるため、日本で教育を受けたのであれば、中谷さんにガイドをお願いした方が充実した博物館見学となるだろう。

もし中谷さんのガイドに参加できなかったとしても、英語等の他のガイドツアーに参加することをお勧めする。博物館の展示は当時の建物や遺留品をそのまま展示するスタイルとなっており、展示品に関する解説文はほとんどないため、第三者による説明がなければ理解が難しい場面が多い。その意味で、せっかく現地まで赴くのであればガイドツアーへの参加はほぼマストと言って良い。

ガイドツアーで学んだこと

中谷さんのガイドがとても分かりやすかったこともあり、博物館の見学は非常に充実した時間となった。ガイドツアー自体は休憩時間を含めて3時間の行程だが、集中して説明を聞いていたこともあってか、あっという間に感じた。
なお、当時はアウシュビッツが第一収容所として、ビルケナウが第二収容所として利用されており、ガイドツアーでは両方の収容所を見学することができる。2つの収容所は3kmほど離れているが、10分おきに出ている無料バスがあるので移動はスムーズだ。

中谷さんが強調されていたことも含め、アウシュビッツ・ビルケナウに実際に来たからこそ学ぶことができた点についていくつか書いてみたい。

1. 現地で学ぶということ

アウシュビッツではユダヤ人が収容された煉瓦造りの建物に入ったり、ビルケナウではユダヤ人が運ばれてきた駅から「選別」後にガス室に向かって歩いた道を辿ることができる。約80年前に彼らが見た景色と同じような景色を私たちも追体験することになる。その景色を見て何を思うかが博物館での学びとなる。

博物館の展示として特徴的なのは、アウシュビッツにおける残虐性を過度に際立たせるような展示手法をとっていないことだろう。おどろおどろしい演出はほとんどない。もちろんショッキングな展示品はあるものの、意図的な誇張はなく、ありのままとして見せるに留めている。残された建物や遺留品と向き合って、ガイドの説明を踏まえて来場者が何を考えるのかという点に重きが置かれているように感じた。来場者自身に考えさせることを目的とした設計で、特定の答えを持つことを求める仕組みにはなっていない。

関連して、本や資料を読めば分かることについての説明はガイドツアーでは省略された。現地に来たからこそ見聞き感じることができる内容及びその背景に集中して説明がなされる。例えば、「B」の文字が裏返っている有名なゲートについては、「働けば自由になる」という標語の意味について解説はあったものの、「B」についての言及は特になかった(みんな知っているから)。一方で、日本人にとってややイメージがしにくい、西欧社会におけるユダヤ人の立ち位置については丁寧な説明があった。

また、少し異なる角度からではあるが、見学者がかなりの数に登ることも指摘できる。厳寒期にもかかわらず、多くの人が博物館に足を運んでいた。クラクフとアウシュビッツをつなぐバスは満員で、座れない客が出るほどだった。学校がある期間であれば欧州からの学生の見学者が多いとのことだった。
この博物館が、単なる遺産としてあるだけではなく、欧州で起こった歴史的事実を顧みるという教育機関としての役割を担っていること、そして欧州の人にとってこの地が避けては通れない地として認識されていることがよく分かった。

2. アウシュビッツに至った社会的条件を学ぶということ

訪問前は「アウシュビッツの悲劇が起きたのはヒトラー(率いるナチ党)の責任である」という理解をしていたが、それは正確ではなかった。

中谷さんによれば、ナチ党によるユダヤ人排除政策を傍観した国家・個人の責任こそ問題視されるべきであるというのが現代的な歴史認識であるということだった。当時、文化的に洗練されていると評価されていたドイツがなぜこのような政策を採ったのか、採ることができたのか。その条件を見定めることが重要という考え方だ。
アウシュビッツに至るまでの社会的条件を歴史から学ぶことで、未来の危機を防ぐということに博物館側のメッセージが込められている。

例えば、ガイド中にこういう話があった。
アウシュビッツに至る道のりを解きほぐしていくと、政治犯を炙り出す自警団の活動があったことが指摘されている。その後、警察やSSといった権力組織が政治犯の逮捕・拘束を担うこととなるが、あくまで始まりは民間の自警団であった。
ここで日本に目を向けてみると、コロナ期において営業中の店舗を自発的に取り締まったり、他都道府県ナンバーを晒し上げる「自警団」が各地で登場していた。このような現象は社会の分断が始まりかけていたとも言える。幸いにもコロナ禍は終息し、自警団が国家権力に取って代わられることもなかったが、自警団の登場が社会にとって危険信号であることは歴史からも学べる。そういうメッセージがあった。

問題やトラブルといった火種を完全に予防することはできないが、発火した火種の拡散を抑えることはできるという発想に基づいて、アウシュビッツでは歴史からの学びが伝えられている。

3. グルーピングが社会を分断するということ

ある集団を定義してグルーピングすることは、同時にその定義に属さない何かを排除するということを意識する必要がある。

第一次大戦で国家的なダメージを負って追い詰められたドイツ人が、自らの正当性を示すために「優秀なゲルマン民族」の条件を設定したことが、結果としてユダヤ人の排除に繋がった。特定の集団をグルーピングすることは、その集団に属する者にとっては安心材料となるが、属さない者にとっては差別の発端となる。ここに社会の分断の萌芽がある、というのが博物館からのメッセージだ。

ガイドの中で、同性愛という言葉は男女という定義があるから生まれる言葉だという話があった。男女という定義がなければ同性愛という言葉は観念されないということだ。歴史を顧みることで現代的な課題の解決策が示唆されることの例といえる。

4. 負の遺産を修復・維持するということ

何の根拠もなく「負の遺産は時の流れに身を任せて風化していくもの」というイメージを抱いていたのだが、アウシュビッツ・ビルケナウの遺産は、後世に負の記憶を引き継ぐという意識の下にきちんと管理・修復されていた。来場者の入場料の一部は修復・維持費用に充てられているらしい。

もっとも、ユダヤ人の要請により一部の展示品は犠牲者のための「墓標」として位置付けられていることから、意図的に手をつけていない=風化するに任せるというものもあった。

「テセウスの船」ではないが、歴史的遺産をどの程度修復するか、という問題は簡単な問題ではないと思う。それでも、残す目的がはっきりとしていればその目的に沿った修復・維持が行いやすいだろう。
私自身が文化を後世に繋ぐということに関心があるため、本題とはズレるものの、この点は心に残った。

現地の様子

博物館の雰囲気は以下のような感じだった。凄惨な出来事が起こった現場というと雨とか曇りの暗いイメージが付きまとうが、当日はたまたま天気が良く、抜けるような青空がとても清々しかった。自然と人の営みとの間にはなんの関係性もないという当たり前のことが強く印象に残った。

(★2枚目と3枚目に遺留品の写真があるので、苦手な方はサッとスクロールしてください)

煉瓦造りの収容所は、白樺の木立と相俟って大学のキャンパスのようにも見えた。
各レンガ棟の中は改装されて展示室となっている。
義足を没収されて歩けなくなった障害者は、即刻ガス室送りとされた。
ハイヒールを履いてアウシュビッツに来ることで「私たちは虫ケラではない」という抵抗の意思を示したユダヤ人女性もいた。しかし、その行動によって彼女たちの待遇が変わることはなかった。
敷地内には電流が走る有刺鉄線が張り巡らされており、脱走は極めて困難であった。
第二収容所として利用されたビルケナウにある、ユダヤ人を乗せた貨物列車が到着した駅。
到着後、医師の目視によって選別作業が行われ、8割近いユダヤ人がそのままガス室に送られた。
囚人を収容した木造バラックは解体され、暖炉の煙突だけが残っている。
野原に広がる煙突は300基を超え、犠牲者のための墓標のようにも見えた。
煉瓦造りのバラックに残された就寝スペースには、一段に数名が押し込まれた。
就寝位置は囚人間のパワーバランスによって決定され、暖かい暖炉横のスペースは権力者が陣取った。
自然が綺麗な場所で人類の暗い歴史が紡がれたことに残酷さとやるせなさを感じた。

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