見出し画像

「死」は「無」を意味するか。


「ニヒリズム」という言葉があるらしい。
定義を調べたわけではないし、人から聞いただけなので、今から行う私の解釈が正しいかどうかはわからない。が、とりあえず書いてみようと思う。
 
 
日々を生きていく中で、または非日常の中で、
何かが私のなかで、蠢いて、私を徐々に蝕んで、離れないことがある。

「死」である。

何をしていても、「結局私って死ぬんじゃん」といつも思う。
 
もちろん、生きていて楽しいことや幸せを感じることはたくさんある。そういうとき、私の心は最大限にそれを楽しんでいて、満たされた気分になる。
 
しかし同時に、いつかその幸せは終わるであろうこと、私は動かなくなるであろうこと、結局何もかもが無くなってしまうんだという事実が、心の片隅で、体育座りでもしながら、「生」を楽しむ私をじっと見つめているのだ。
 
その視線に気がついたとき、私のつま先の小さな黒ずみが、頭のてっぺんまで広がって、私の体は黒く深く、染みていく。

 
進路を決めなければならない時期になった。
私は結局何がしたいんだっけ、とぼんやり考える。
大学を卒業しても、誰かと一緒に問いをぐるぐる考えて、対話をしていたい、とは思うのだけれど、それがお金になるか、ご飯になるかと言われたら、私は自信がない。
だから、お金になってご飯が食べられて、それでいて自分も納得できる将来を考える。その将来の先も考える。
「将来の将来」を考えていたら、あれ、私って結局死ぬんじゃん。
ってほら、また私の部屋の隅で飼っている生き物が躍り出る。
 
 
そんなことを考えるけれど、今すぐに息を絶ちたいか、とかそういうわけでは全くない。
そんなことを考える一方で、同時に、生きることに喜びも見出す。ああ今日も生きていてよかった、と思える瞬間がある。
だからこそ、なのだ。その体育座りをした得体の知れないヤツが際立ってくるのは。
 
 
「死」というものを意識したとき、「生」への態度を変えてしまう、この黒い深い何かは、なんなのだろうか。
 
 
もちろん、みんなこう考えるわけではない。むしろ、終わりを意識したときに、今がもっと輝き始める、そういう時もあるし、そうする人もたくさんいる。
 
ただ、私の場合は、輝き始めた「今」でさえも、死が来れば終わってしまうのだ、というその事実に、ずっと囚われてしまうのだ。

 
そういうものを「ニヒリズム」というと今日知った。(定義違かったらすいません)
 
 
 
「死」が、怖いのだろうか。この、黒い深い何か、は、恐怖なのだろうか。
 
いや。死が怖い、と断言できるほど、私は死について何も知らず、想像もできていない。だから、計り知れない死の恐怖で埋め尽くされている、というわけではない。
 
どちらかというと、虚無感なのだ。死があることで、今までやって来たこと全て、私がこれからやること全てが、意味のないものになってしまうということが、嫌なのだ。嫌というのは、怖いからなのではなくて、虚無感に襲われるから嫌なのだ。
こう考えると、生きているうちに起きる物事全てに意味を見出しているようにも思えるけれど、そんなことはない。むしろ、意味というその概念から、解放されたいと思っている。意味があってもなくても、私の「生」を私の「生」として、私は抱き締めたいのだ。でも、虚無感がそうさせないし、そうするという考えも思いつかせないし、仮にできたとしてもそうさせ続けない。
 
 
 
そんなことを一通り考えた後で、人に言われて、少しだけ、救われた言葉がある。
 
「死って優しい」そう言った人がいた。
 
???
 
困惑しつつ、よくよく聞いてみると、水面に静かで穏やかな波が立つように感じた。
 
私が死んだ後、どうなるのだろうか。それは、全て無かったことになるのだろうか。「死」は全てを無にするのだろうか。
 
そんなことはない。
 私の死の後も、私の愛する家族、大好きな友達、尊敬する人々、考えたかった問い、登りたかった山々、見たかった景色、聞きたかった音楽、食べたかった美味しいご飯、そんなものは存在するわけで、私に関わる全てのものは、ずっとずっと、続いていく。存在し続ける。
 
私が死んだ後のことを想像してみる。
隣には、私の死を悲しむ人々がいる。お葬式とかが一通り終われば、しばらくは私のことを忘れてしまうかも知れないけれど、年に一回くらいは、あるいはある料理を食べたときとか、山に登ったときとか、哲学対話なんかをしたときに、ああ、前はあの子も一緒だったな、と思い出してくれるかも知れない。この味付け、あの子、好きでよく食べたよな、って。
 
それはまるで、別れた恋人がしばらくの間は相手のことを考えてしまうように。そして時々、もう吹っ切れた、忘れた、と思っていたのに、日々の生活をおくる中で、ふと思い出すように。
 
それは確かに、優しい、穏やかな、静かであたたかく、少しさみしい、そんな気持ちだ。
 
そう考えたら、後に死を迎える私が今を生きることも、意味があるのかも知れない、と思う。
 
 
 
しかし、問いはまたやってくる。
 
人類滅亡とかってなって、私も私が関わる全ても破壊されて、それこそ「無」になったら?
そこまでは行かなくても、私との記憶を共有する人が1人ずつ次第にいなくなっていって、最後の最後におばあちゃんになって死ぬのが私だったら?
 

 
色々考える。
 
だけどとりあえず今は、死は無ではない、という考えの中に優しく包まれていたいと思う。



ちなみにちなみに写真はチャイティーです。シナモンやスパイスの効いた飲み物が好きでよく飲むので。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?