寺山ダリ

才能に惚れたい

寺山ダリ

才能に惚れたい

最近の記事

  • 固定された記事

愛を語らない人類

「好きだ」「愛している」と毎日のように言わない人類がいることに、私は心底驚いた。 私自身、言わずにいられない人間であるし、恋人同士であることの特権は、一番近くで熱に浮かされたような言葉を吐けることだとさえ思っている。 それを行使せずにはいられない質なのだ。 彼をみていると、言葉を伴わず、行動のみで好意を伝えられる能力に感嘆してしまう。 それは私に欠けた能力かもしれない。 私は何かを言わずにはいられないから。 いつか、私がそのことを問うと「言葉にするのは恥ずかしい」と言われ

    • なんでもない日の感傷

      友人と話していて、ふと、私の過去の恋人の話になった。 彼は料理のとても上手い人だった。 「友達の彼氏にフルコースを振る舞われたのは初めてだったよ」と彼女は笑った。 そうだった、私と彼が同棲していた部屋に、私の友人たちを招いたときのこと。 彼は数日前から仕込んで、前菜からデザートまで振る舞ってくれた。 すっごく美味しかったな。また食べたいなと別れた今でもよく思う。 彼とはあまり良くない別れ方をしたのだけれど(そのせいで一時期はなにも食べられず、とても痩せてしまった)

      • 愛というものについて

        ふと、私は今まで人を愛したことがあっただろうか?と考えた。 少なくとも、私の思う“愛”に則した感情は抱いてきたように思う。 私が思う“愛”は相手を想うと身体の内側からぎゅっと湧き上がる感情だ。心がほぐれるような、じわっと暖まるような。それを感じる時、私は相手を愛している、と思う。 でも、私の愛は、相手にとっても愛と認識できる“それ”であっただろうか? 双方向の愛情を、私達は伝え合っていたのだろうか? 私はそれを確認できたことがない。 愛の真っ只中において、そんなことを確

        • 愛ゆえか、それとも罪滅ぼしか。

          たまに、あなたがいたことを思い出して「楽しかったな」とふと思うことがある。その瞬間、そう思った自分に対してぞっとする。 これまでの人生、どの時点でも、私はそれなりに幸せだ。でも、いつも今、この時が一番幸せでありたいと願っている。 昔を思い出して、あの頃に戻りたいなんて思いたくない。 でも、私の人生の約五分の一の時間を一緒に過ごしたあなたの存在は色濃く残ってる。 想像以上に。 私はふと気付く。 私はあなたにしてもらって嬉しかったことを、他の人にもしている。 私はあな

        • 固定された記事

        愛を語らない人類

          この世に一人、かつて家族だった人がいるということ

          私には、かつて法的に「家族」だった人がいる。 今はどこでなにをしているかわからない。二人で過ごしたあの部屋からは、とっくに出ているだろう。 もしかしたら死んでしまっているのかも。でも、本当にそうであっても知る術がないのだ。 かつて、であったとしても家族であったというのに。 彼に対する好意とか、そんな類いのものはもう持ち合わせていないけれど、かつて家族だった、という事実は私を不思議な気分にさせる。 そしてもう、二度と会わないと思う。 そして、いつの日か死んでしまってもそ

          この世に一人、かつて家族だった人がいるということ

          結婚するとかしないとか

          20代も後半に差し掛かり、30歳が目前にもなると「ご結婚は?」などと聞かれることも増えてくるらしい。 更に結婚をしていると「お子さんは?」などと聞かれるらしい。 らしい、というのは私は幸運にもこんな不躾なことを聞かれたことがないから。 まさに「余計なお世話だ」としか言いようがない質問! 結婚するもしないも自由なのだ、と心の底から思う。 でも、結婚を経験した上で「今後結婚はしない」と決断するのと、結婚の経験がないままに「結婚はしない」と決断するのは全く違う。 結婚は

          結婚するとかしないとか

          3分間の贈り物

          私は音楽が好きだ。 同年代の中でも割りと聞いている方だと思うし、音楽のことを考えたり意識している時間は長いと思う。また、そんな時間が楽しい。 (街中で鳴っている音やテレビ番組のBGM等々、生活の中に「音楽」は溢れている!) なにより悔しいのが、一生のうちにこの世のすべての音楽を聴くことができないこと。 恐らくすべての「ジャンル」も聴き尽くすことができないだろう。 日本に限らず、世界中で絶えず音楽は生まれ続け、ヒットチャートに乗るものも、ひっそりとコアなファンに聴き継がれる

          3分間の贈り物

          生きてることが辛いなら

          1日8時間の労働をし、充分とは言えない賃金をもらって、ごく平凡に、特に大きな困難や苦労もなく、時には酒に酔って思考を停止させるだけの人生でも、「ああ、辛いな」と心底感じることがある。 そんな時に森山直太朗の『生きてることが辛いなら』を聴くことが多い。 “生きてることが辛いなら いっそ小さく死ねばいい” センセーショナルなタイトルとこんな歌い出しから、発表された当時は話題になったと記憶している。 自死を助長する内容ではと一瞬思うのだが最後には “生きてることが辛いなら

          生きてることが辛いなら

          スーパー、スーパーサッド

          “歌にはふたつあって それは ぼくも知らない歌と ただただきみとの日々を 思い出すためだけの歌” 私の敬愛する、志磨遼平氏の書いた中で一番好きな歌詞が『スーパー、スーパーサッド』のこの一節。 この、“愛”という言葉を用いずに“愛”を表現したこの感じ!!ぐっとくる! 別れの理由はなんであれ、愛の後には、誰しも心の片隅に思い出の欠片が残るのではないでしょうか。時間が経つほど美化され、美しいままで残り続ける…。時々、そっと取り出して眺める、思い出の欠片。 “さよなら ぼくの

          スーパー、スーパーサッド

          美代子阿佐ヶ谷気分

          好きな映画のひとつに『美代子阿佐ヶ谷気分』がある。 これは、かつて存在した漫画雑誌「ガロ」で発表された安倍慎一の作品を原作とした映画で、安倍と後に妻となる恋人・美代子を描いた作品である。 “阿佐ヶ谷の彼の部屋であたし、平和よ” 愛ゆえの狂気、それを受け入れる美代子の果てのない愛に溺れる様が描かれており、実体のないはずの“愛”のかたちを見せつけられたような気がした。 狂っている、と思いながらもなんだか心の奥の一番柔らかいところを掴まれるような、そんな映画だった。 かくいう私

          美代子阿佐ヶ谷気分

          中華街の夜に乾杯

          谷賢一氏演出の舞台『人類史』を観た。 劇中の音楽を担当したのが志磨遼平氏。彼はかつて毛皮のマリーズというバンドをやっていて、私は青春時代をそのバンドに捧げた(常に最前列でライブを観ていたし、彼の思想・センス等々にすっかり魅了されている、今もずっと。) 閑話休題。 志磨氏と谷氏は2018年もタッグを組んでいるのだが、その時は見に行けず。再びタッグを組むとのことで今回はチケットの発売を待ち構えていた。 人類の歩みを辿る本作は、壮大なスケールの物語で有りながらも、どこか身近に

          中華街の夜に乾杯