禁酒日記23日目

朝パスタ。ササミを3本焼いたうちの一本を朝食う。残り2本は昼飯のおかずにした。昼はそのほかにコンビニ白米と納豆とカット野菜。夜はカラオケ屋のメシ。

いつ死んでもいいようなことを普段言っておきながら、いざ自分の肉体に不安の種が芽生えると途端に狼狽える。これが自分の限界であり、それは人間の限界を反映してもいるだろう。明日死んでもいいように無駄なものを捨てなければと改めて思うが、そんな風に考えてしまうのも実に不思議な話で、自分がこの世から消えるのだから後のことなど考える意味はない。後始末など生きている人間にやらせればいい。どうせ自分は死んでいなくなっているのだ。それにもかかわらず、後始末をしなければと考えてしまう。

多分、人間には自分の死を本当の意味で理解することができないのだと思う。自分が死んだ後の世界というものを、人間は簡単に想像してしまう。その想像の世界においても、仮定された主観が必要だ。主観のない世界など存在しない。そうすると、その想像された世界における主観はこれから死ぬ本人に他ならない。自分が死んだ後の世界というものを想像してしまったが最後、自分がこれから先も生きている場合と変わらない感覚で未来を考えてしまうのだ。

人間は想像の世界に生きすぎている。現代は情報が支配する社会だ。目に映るものや手に触れるものは、それに先行する情報に致命的に左右されている。1km進んだ場所に何があるか、動物ならば行って確かめるしかない。しかし人間はあらかじめそれについて知った上で行くかどうか判断する。手のひらの中のコンピューターで簡単に世界のことを知ることができる。しかし、そこから得られる情報は所詮情報に過ぎないのだ。ある意味では架空の世界だ。スマホに映るリンゴは食うことができないのだ。

動物にとってはリンゴは触った時の重さや硬さ、食った時の酸っぱさや甘さこそがリンゴである。その直接的な体験こそがリンゴだ。一方人間にとっては「リンゴ」という言葉やリンゴを描いた絵こそがリンゴの体験になっている。リンゴは食うものというよりもスマホの画面に映る赤いものだ。それをインフルエンサーが食えば彼とそれを食いたくなり、スーパーに行けば買えるということを知る。最後にようやくリンゴを食うことができる。

このような象徴と情報の世界において、死は存在しない。画面に映るリンゴは腐らない。だから本人の主観も滅びることはないと錯覚してしまう。人間が情報を操る動物だからこその悲しい欠陥だ。人間が情報に惑溺しなければ死の定めを自然に受け入れただろう。つまり、「なぜ自分が死なねばならないのか」というような不可解な問いは起こらなかっただろう。食い物が腐るように、集団内の仲間が死んでいくように、自分もいつか死ぬということが経験的に理解されただろう。それは自分が死ぬという予測ですらなく、世界の変化の一部という捉え方だったであろう。無論それは恐るべき変化であったには違いない。だが現代では事情は根本的に異なる。少なくとも自分が死んだ後の世界において自分が他人にかける迷惑を最小限にしようという発想があるうちは、自分の死を理解しているとは言えない。

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