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美へのフェティッシュ

フェティシズムとは、ものそれ自体に価値があるとみなすことである(細かいところに突っ込むと、本当は色々あるんだけど……)。
そしておそらく、フェティッシュの対象として最もメジャーなものは「金」と「美」だと思う。

金は、価値の交換媒体としての役割を果たすからこそ価値があるはずなのに、いつの間にかそれ自体に価値があると思われるようになっている。
金勘定が楽しいのはそのせいだろう。万札数えるの、楽しいよね??

多分、美もそうなのだと思う。
美はいつしか「自分のために美しくなる」という言葉に典型的に見られるようなフェティッシュの対象となった。

しかし、美の役割(と思われるもの)とは何だったのだろう?

「理性の向こう側にある享楽をほのめかす」みたいなことが役割として挙げられそうだが──というかバタイユがそんなことを言っていた気がするが──これはいささか男性中心主義的な気もする。だって、美をきっかけに侵犯へと乗り出す「主体」として、明らかに「男性」が想定されているからね。
女性の美をきっかけとして享楽(=浪費、贅沢、祝祭…)の痕跡を見出した男性が、性行為などによって実際に侵犯を行っていく、というわけだ。そこで「現に美しい」女性は、受動的な役割を演じることになる。

それを思えば「自分のために美しくなる」すなわち「美しくあることそれ自体に価値を見出す」という美へのフェティッシュは、ある意味で女性が主体性を獲得したことを意味しているのかもしれない。
とはいえ、それは「理性と秩序の世界をかき乱すための手がかり」というかつての美の意味からは変質しているのだろう。

なぜならここでは、かつて美が供されていた「知の世界の超越」という目的が、もはや必要なくなっているからだ。
興味深いことに「非理性の世界への手かがりとして価値を持っていた」美は「理性によって獲得される」。しかし今や、「手がかり」としての価値とは関係なしに、美はどこまでも理性的に追求されるのである。

痩せるためには日々・・食事に気を遣い、運動をする必要がある。
ルーベンスの絵画のように、太っていることが美しいとされる社会にあっても本質は変わらない。太るということも、それはそれで日々のオーバーカロリーという逆の努力・・・・を要するのだ。

美を追求する行為は、明らかに理性(=労働、義務、日常、習慣…)の範疇に属している。
そして、この追求行為を喚起し促進するのが、ジム・ダイエットフード・コスメ・ヘアサロン・エステ……等々の「商品」や「サービス」なのである。

かくして、目的なき美への欲望は商業の中に吸収されていく。
消費者資本主義は「美しくなければならない」「美しくあり続けなければならない」という極度の強迫観念でもって、人々を規律的・習慣的(=理性的)な美の追求へと差し向ける。
毎日見るメディアやSNS、毎日乗る電車の広告、毎日の暮らしの中に「美しくあるべきだ」というメッセージが差し込まれる。そして「美しくあるべき」を叶える手段として、様々な商品やサービスが売り込まれる。

こうして形づくられていくものが「商品化された、理性的に・・・・追求される美」「美へのフェティッシュ」なのである。しらんけど。
そして、これは「他者から欲望されるために美しくなる」から「自分のために美しくなる」への変容を伴う。

「いや、そうは言ってもモテたくておしゃれするヤツとかいるじゃん」という気もするが、ともあれメディアの中の「モテコーデ」みたいな文言はスローガン化・形骸化・陳腐化している。
女性誌に載っている「モテコーデ」は、女性読者が・・・・・「こりゃモテるだろ」と納得するような「モテコーデ」なのだ。結局のところ、実際に男性にモテるかどうかなど、商業的にはどうでもいいのである。

究極的には「自分がそれを美しいと思うか」だけが問題だ。
こうした姿勢はどこまでも、美それ自体のうちに価値を見出している。「モテるから」価値があるのではない。「美しいから」価値があるのだ。

ルッキズムもまた、美へのフェティッシュによって美それ自体が価値を持つようになり、有用な・・・能力とみなされたことの結果なのだろうと思う。

人は強烈に美を欲望する。しかも今や、「美しくなる主体」と「美しいものを欲望する主体」とが一致している。
「美しいものへの欲望」は「美しくなりたいという願望」となめらかに接続され、「現に美しい」ということは、すなわち「美しくなりたいという願望を叶える能力を持つ」ことの証明となる。
かくて、美はそれ自体が一種の価値、一種の能力となる。だから、ルッキズムが一層力を持つ。美しいことが有能さの証明になってしまうからだ。

そして「美しくなる主体」と「美しいものを欲望する主体」との一致は、ある種のナルシシズムでもある。
美しくなることを望み、美しい自分を望むのだ。それは閉じていて、他者の評価を必要としない。自分が美しいと感じるがゆえに美しい。

それに、たとえ他者から「美しいと思われたい」にせよ、今は「自分のことを美しいと感じるような他者」を選ぶことができる。
「センス悪ww」などと言ってくるようなヤツと、好き好んで関わる必要はない。「めっちゃセンスいい!」と言ってくれる人たちにだけ、欲望されればいいじゃないか。「自分と同質な他者」にだけ好かれれば、それで十分じゃないか。
「センス悪ww」とか言ってくる人間は、自分とは異質で分かり合えないものとして視界の外にやってしまえばいい──

それは確かにナルシシズムかもしれないし、あと少し敷衍すればナショナリズムの問題にもなりえるかもしれない。
排外的に閉じていて、どこか幼稚で、エコーチェンバーに陥りがちで……それはなんだか、耽美のテーマと一致するような気もする(三島由紀夫みたいな感じの)。

(しかし、この「幼稚さ」を破棄すべきものとみなすことは私にはできない)
(だって、他人の欲望に受動的に身を捧げるだけの「美しい存在」になんて、誰だって戻りたくないでしょう?)
(幼稚で閉じた幸福は「善」とは呼べないかもしれないが、なお「幸福」なのだから、それでいいじゃないか、という気もする)
(問題はそれが外部への敵意として表出したときである──話が脱線しすぎたから、もうやめようか)

さて、風呂敷を広げすぎて訳が分からなくなってきたが──とにかくだ、美へのフェティッシュは、商業やらメディアやらによって制度化されながら、今この瞬間も私たちの社会に息づいている。

いや、それは力を増しつつあるのかもしれない。

これから先、プラスサイズの服やメンズメイクといった新たな美の基準が市民権を得ていったとしても、「美は追求すべきものである」という前提が覆るわけではないのだから。
それはむしろ「今は昔と違って、多様な美があるよ!」「だから貴方も、自分の気に入る美を追求すればいいじゃん!」というメッセージとなり、逆説的に「美の追求」を当然視する方向へと向かう。

美の崇拝は、やっぱりずっとそこにある。

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