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現代社会への悪口

元は↓の続きとして書いていた文章なんですが、めっちゃ脱線したから分けました!


規則正しい生活を送り、よく食べ、よく運動し、よく眠り、いい感じに働く──現代社会の理想である。

さて、食べることはそんなに好きじゃない。なんで一日三食も食べなきゃいけないんだよ。食いすぎだよ。
毎度毎度「今日何食べた?」とか聞いてくるのをやめろ。「何も食べてない」とか「ちんすこう」とか返事したときにドン引きするのもやめろ。

ってか、みんななんでそんなに「食べること」を神聖視しているの?
「食べ物を粗末にするな」とか「害獣を駆除したならせめて食べなきゃ」とかよく聞くけど、「食べればなんか許された感じがする」という共通認識が多くの人の中にあるのはなぜ?

食べることを特別視しているくせして、多くの人がダイエットをしたがるのも不思議だ。後で痩せたがるくらいなら最初から食うなよ。
それに、食べることを神聖視する割に食料品の廃棄率が高いのも不思議だ。

結局のところ、我々は食べ物を作りすぎだし、食べすぎだし、捨てすぎである。
要するに、食事とは常にちょっとした祝祭であり、浪費であり、蕩尽なのだ。しかも日常的に行われているから、みんながそうと気づかない祝祭である。
「よく食べる=よく消費する」ことが是とされるのも、生産の場とは論理が逆転しているからだろう。

(大人に可愛がられるのは「あまり食べない子」よりも「よく食べる子」だ)
(私も、胃袋の大きさとアルコール許容量の多さで「得をしている」と感じる)

まあ、これほどのナンセンスもそうはあるまい。「日常的に行われている」ということが、過剰な食事の持つ祝祭性を静かにくびり殺してしまうのだ。
贅沢をしているということに気づかない贅沢ほど虚しいものはない。

そうして、食事が祝祭であることに気づかないまま「食費っていうのは、なぜこんなにも家計を圧迫するんだ!」とか「料理を作るのってなんて面倒くさいんだ!」とか言って苦しむんだろ?

「だったらもうやめちゃえよ」──そう言うと「いや、生きていくためには食べなきゃいけないんだ」などと言い訳をするのだろうが。
動物である以上まったく食べずに生きていくことはできないにせよ、現代における食事なんて半分くらいは「胃の中に食べ物を捨てて、摂りたくもないカロリーを摂っている」ようなものじゃないか。
贅沢はたまにするから贅沢なのだ。だから日常的にする必要はない。

…ふう、現代の食文化への罵倒を並べだすと、どうしても早口になってしまうね。
けどこれで終わりじゃない。現代への悪口はまだある。

そもそも、私は運動──正確にいえばスポーツもそんなに好きじゃないのだ。
スポーツとはいわば「理想的な人体」の「表象」である。

「日々の鍛錬によって培われた、理想的で調和のとれた人体」は往々にして、「国民の日々の勤勉によって繁栄する、理想的で調和のとれた国家」のような他の概念を類比的に背負わされる。
国家を人体になぞらえるのは、中世以来鉄板の比喩だ。

あるいは「こんなにも素晴らしいスポーツ選手を育成できる我が国」ということだろうか。
まあ、「素晴らしいスポーツ選手=国家」のイメージと「素晴らしいスポーツ選手を育成する母体=国家」のイメージ、どちらもあるような気がするね。

そもそも「『民主的な都市国家』のイメージを一身に背負うギリシャ」というオリンピックの起源からして、国家とスポーツとの密接な関わりを示しているといえるだろう。

しかも「スポーツをする肉体」は目に見えるイメージだから、プロパガンダにもうってつけだろう。1936年のベルリン・オリンピックはあまりにも有名だ。
分かりやすく目に見えることは、権威づけをする上でとても重要なのである。だから権力者というのは、クソでけぇ建物なんかを建てたがるわけだね。

とかくこういうわけで、オリンピックとかワールドカップみたいな一大スポーツイベントが開催される時期には、ナショナリズムが高まるのである。
このように、スポーツは近代国民国家が権威づけを行うための、一種の舞台装置となっている。

だからこそ「大勢に見られる」ことが重要なのだ。
スポーツは心身の健康のための「エクササイズ」である以前に、競い合いによって見るものを楽しませる「エンターテインメント」なのである。

そして私は、スポーツの持つこうした「エンターテインメント性」が好きではない。

人は「見られる」ことによって制約され、往々にして歪んだ型にはめられてしまう。
怪我・故障の問題、ドーピングの問題、性別の問題、引退後の経済的問題──これらは「衆人環視のもとで素晴らしいパフォーマンスをし、目に見えて分かりやすい結果を出すことで観客を楽しませて大金を得る」ことに由来する。

芸能人なんかと同じで、スポーツ選手は「見られている」から大金を稼げる。表象としての役割があるからだ。
この役割から退けばかつてほどの大金は得られなくなるだろうが、人は一度上げた生活レベルを下げることが中々できない。
真偽のほどがよく分からないとはいえ「引退したメジャーリーガーは、5年以内に8割が自己破産する」なんて話も有名だろう。

それに、見られているから「素晴らしいパフォーマンス」をしなければならないのだ。そしてそのためにこそ、人体に過大な負担をかけるほどの練習をしなければならないのだ。
だから怪我をする。肉体が女性の場合、生理が止まることもある。ドーピングという問題もあるかもしれない。いずれにせよ、明らかに心身の健康を害している。

更に、見られているからこそ「第三者から見て納得できるような公平な基準」とやらを定めなければならなくなる。
最近話題になっているトランス女性とスポーツの問題も、結局はスポーツが「見られるもの」であることに由来しているといえる。

部外者に見られないのであれば、「女性とは何か」みたいな細かい基準に煩わされずに各々が「自分との戦い」や「ライバルのあいつとの戦い」に専念できるだろうに。
そこでは「相手は女性か、男性か」みたいなことを気にする必要はない。自分や相手が何者であれ、競いたい相手と好きに競い、そうでない相手とは競わなければいいのだ。

つまるところ「誰に出場資格があるのか」という問いは、第三者──決められた枠内での「勝者」に注目して、金をもたらす存在──を納得させるためのものでしかない。
しかし、見るもの=第三者が金の配分を決めるから、「スポーツ」はこの煩わしい問いを無視するわけにはいかないのであろう。

とにかくこういった「歪さ」や「煩わしさ」のゆえに、私はスポーツのエンターテインメント性が嫌いなのである。

ついでにいえば、スポーツイベントが喚起するナショナリズムも嫌いだ。
例えば「日本に勝ってほしい」と思っていたら、他国の選手の素晴らしいパフォーマンスを素直な気持ちで見られなくなると思わないか?
イベントに際し、明らかに自国中心主義的になるよう報道・誘導しておいて「平和の祭典」とは片腹痛いね。

それに、こういう「歪さ」は食事やスポーツに限らず、現代の生活の全体を覆っているように思われるのだ。
過剰に食べることを是とする歪さ。(健康的な運動の範囲を超えて)過剰に肉体を酷使する歪さ。過剰に働き、稼いだ金を過剰に使って遊ぶ。
しかも、こうした消費生活はメディアに取り上げられて見られてきた。SNSが発達した現代においてはなおさらだ。見る、見せる、見られる。全世界が役者を演じている。
当然、そんなことをしていては疲れてしまうだろう。だからこそ、人は泥のように過剰に眠りたがるものとみなされてしまうのだ。オフトゥン!

おまけに、その「過剰さ」が過剰であることにそもそも気づいていないという「習慣」の歪さもある。なぜなら、よく食べよく働きよく眠ることは「健康的」とされているからだ。
まさか健康の中に歪さがあるなんて考えまい。けれど、過度な「健康」はそれ自体病理なのだ。

さて、時はイギリス帝国が世界の流通を握っていた頃──かつては高級品だった「紅茶」と「砂糖」の値段は下がり、本国の底辺を支える労働者の生活にまで浸透していった。
砂糖は即効のエネルギー源になるし、紅茶にはカフェインが含まれているから、「砂糖入りの紅茶」は労働者の目覚めの一杯に最適なのだ。

かくてイギリスにおける労働者を象徴する飲み物は「酩酊させるジン」から「目覚めさせる紅茶」に変わっていったのである。
労働者のイメージは「健康的なものになった」といえよう。

しかしその背景には、「より健康的な」労働者をこき使いたいという支配者側の思惑があり、支配階級から労働者階級への喫茶文化の「下賜」という構造(これは支配階級の文化を権威づけ、「よいもの」として固定化することにつながる)があり、安価な砂糖と紅茶を実現するための植民地からの搾取があったのだ。

そう考えると、グロテスクな文化だと思わないか?
過度な健康的文化の背景には、まぎれもなく支配者──現代においては「国家」や「市場」といってもいいかもしれない──の都合があり、既存の構造を固定化させようとする力があり、搾取があり、これらを見えなくするための仕掛けがあるのだ。

そんなわけで、私は現代の物質文明がそこまで好きじゃない。
今日もウォッカを飲んで寝ようと思う。

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