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腰痛すらカミングアウトできない私に、LGBTを語る資格はあるか

他者の生き方を通して、自分の姿勢や価値観が見えてくることがある。

わたし探求メディア「Molecule(マレキュール)」にて、取材記事を書かせていただいている。

働く子育て世代の生き方・働き方のヒントとなるような、「わたし」主語のワクワクを大切にした記事をお届けするのがコンセプトである。

今回は、にじいろかぞく共同代表である小野春さん(以下、小野さん)に取材させていただいた。

「にじいろかぞく」は、子育てをしている/子育てをしたいLGBTを中心に、その周辺をゆるやかにつなぐ団体だ。

小野さんは同性のパートナーと、お互いの子どもを含めたステップファミリーをつくり、長年共に暮らしてきた。

私が小野さんにお話を聞きたいと思ったきっかけは、一冊の本だった。

小野さんがパートナーとの「母ふたり」の家庭をつくるにいたった経緯、これまでのこと、そして裁判「結婚の自由をすべての人に」の原告になるまでのストーリーなどが描かれている。

小野さんの文章はとても読みやすく面白くて、猛烈に引き込まれた。
どうしても途中で止められず、キッチンで夕飯の支度をしながら読み続けたほどだ。

物書きのはしくれとして、この文章力がうらやましくてたまらない。
どうやったらこんな素敵な文が書けるようになるのだろうか。

(……おっと、話がそれました)

ともかく、「どうしてもこの著者にお話を聞きたい」という願いが叶ったのが今回のインタビューだった。

腰痛によってマイノリティになった私

小野さんのお話は文章同様本当にすばらしく、学びがあった。

小野さんは、同性パートナーと暮らすにあたり、自分自身と向き合いながら周囲へ理解を広げていった
しかしそんな小野さんでも、裁判をきっかけにさらに広くカミングアウトするにはためらいがあったという。

そのあたりの葛藤は当事者でなければ分からないものがあるだろう。

自分だったらどうするだろうか……。

そんなことを考えていて、ふと私の心は己のふがいなさで少し痛んだ。

というのも、その頃私はある問題を抱えていたからだ。

腰痛である。

はぁ?腰痛?何いってんの?と思われるかもしれませんが、もう少しお付き合いください)

取材の10日ほど前にぎっくり腰をやってしまい、動けないほどではないものの、生活する上で「まあまあきつい」レベルの症状があった。

小野さんの取材時点では急性期の痛みはだいぶ和らいでいたが、腰痛ベルトをして活動する状態は続いていた。

痛みがつらい時、私は職場でそのことを言えなかった。

無理すればなんとか仕事ができる状態だったし、腰痛なんて誰もが抱えるものであり(特別支援教育の現場では“職業病”だ)、ことさらに自分だけが大変さをアピールするなんてことはしづらかった。

そして何より、「使えないヤツ」と思われるのが怖かったのだ。
「若いフリしても、もう年」
「みんな大変なのに自分だけツラそうな顔するなよ

そんな言葉を自分で自分に投げかけてもいた。

腰の痛みを抱え、体が思うように動かない時、私は世の中のいろんな設備がこんなにも使いづらいものかと痛感した。
周りと同じペースで行動するのも大変だった。

体の自由度において私はマイノリティーになっていたのだ。

「実は、腰が痛いんです」と一言いえば、周りはいろいろ手伝ってくれただろう。
明らかにもっさりした動きやTシャツの裾から見え隠れする腰痛ベルトによって、うすうす気づいてくれていた人もいたかもしれない。

なのに、私はその一言がいえなかった。いろんなことを恐れていた。
認めたくないことだが、本当の意味で同僚を信頼していなかった、と言われても否定できない。

そんな自分が、わかったような顔で「マイノリティーを受け入れてます、LGBTを応援してます」だなんて笑止千万だ。

自分は腰痛ですら人に言えず「元気な多数派」を演じているくせに、性的指向という「人間の根っこ」に関わる部分で戦っている人に、一体どんな応援を伝えられるというのだろう。

たかが腰痛で考え過ぎと言われるかもしれない。
性の多様性とぎっくり腰を同列に論じるな、と叱られるかもしれない。
しかし、私の中ではすべてとつながっている。
腰痛「ごとき」を人に言えない私にとっては、自分の生き方の根幹を誰かに伝えることはもっと難しいのだ。

「結婚の自由をすべての人に」を本当に応援するなら

初稿が出来上がった頃、小野さんがお誘いくださり、「結婚の自由をすべての人に」原告の方が語るイベントに参加した。

そこで出会った方々は皆、小野さん同様とても穏やかな雰囲気で、淡々とこれまでのことやご自分の思いを話してくださった。

だけれど、その穏やかな語り口の背後にはひたむきな思いが伝わってきた

「結婚の自由をすべての人に」という訴訟は、単に「異性同士がしている『結婚』、別に同性同士がしたっていいじゃん」というものではない。

法的な結婚が認められないことで、同性カップルは非常に多くの不利益を被っているのであり、人間として当然認められるべき権利を奪われているのと同じことなのである。

愛する人と共に暮らすかどうか。
その関係性に法的なつながりを介在させるかどうか。
それは全く個人的で、自由なことであるべきではないだろうか。
異性同士で結婚を選択しない自由があるように、同性同士で結婚を選択する自由もあるはずなのだ。

一人の人間として、私はこの訴訟を応援している。

もちろん、「今はまだカミングアウトの時ではない」と感じている人も尊重されるべきだ。

あなたも何かしらマイノリティー

私はこれからも、結婚の自由を求めている人を応援する。
だから、自分自身もマイノリティーである側面を受け入れ、必要に応じて表現できる人間でありたい。

世の中に「すべての面においてマジョリティ」な人なんていない。
性的指向に限らず、あらゆる好みは人の数だけあるし、人生の途中でマイノリティになることも当然あるのだから。

私はごく平凡な人間だが、自分の中にたくさんのマイノリティーとしての側面を見出すことができる。
そのひとつひとつを愛しながら、必要な時に周囲に伝えられる人になりたい。
そういう自分になった時に、本当の意味で他のマイノリティーに寄り添い、応援できると思うからだ。

「結婚の自由をすべての人に」訴訟について詳しく知りたい方は、ぜひこちらを読んでほしい。まさに現在進行中の訴訟なのだ。

小野春さんのインタビュー記事はこちらから。同性婚に限らず、より良いパートナーシップづくりのヒントが詰まったお話だった。




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