見出し画像

あれは誰の山だ*誰の山でもありません


あれは誰の山だ
どっしりとした
あの山は

井伏鱒二『厄除け詩集』より『あの山』

2023年7月16日の『どこからか言葉が』という朝日新聞の記事で、
詩人の谷川俊太郎さんがこう続けているとのこと。

 いきなり井伏鱒二が問うから慌てた
 答える義理はないが
 答えないと落ち着かない

 あれはただの山です
 誰の山でもありません
 と答えたが本当にそうかと疑う

 どっしりとしたというからには
 名のある山ではないか
 もしかすると富士山かもしれない

 だが知っていて誰の山かと問うような
 小賢しい詩的レトリックは
 井伏さんらしくない

 気づかずに負った
 詩歌の厄を
 この三行は払ってくれる

谷川俊太郎『山』(「朝日新聞」2023年7月13日)より

友人が以前、谷川さんの詩を教えてくれたことがある。

どのような言葉で紡がれていた、なんという題名なのか忘れてしまった。
なんとなくいいなぁと、いつも思う。

谷川さんの詩にのめり込んで読み込むようなこともないけれど、
何故かというと、谷川さんの詩はいつも空中を漂うイメージで、
言葉の質量を感じたことはないので、面白い考察だな、と思った。

例えば、井伏鱒二が「あの家は誰の家だ」と
見たことのない建築様式の家に見とれる。

対して谷川さんが「あの街は誰のものでもありません」と答える。

そのようなすれ違いの妙がある。

それぞれの視点だけではなく、生い立ち、年代、生活環境が、
面白いすれ違いを生み、すれ違いと思う人と、
会話として機能してすんなり読んでしまう人が、確かにいるはずだ。

世に出た作品は、受け取る側の裁量にゆだねられるのだと実感する。

気づかずに負った
詩歌の厄を
この三行は払ってくれる

この詩歌の厄の意味は、私には理解しかねるが、
「誰の」という言葉が鍵になっていることは確かだ。

山は誰のものでもない、言葉は誰のものでもない、詩は誰のものでもない、
自分の詩作が意味を持たされることを嫌ったのではないかと考えてみた。

都市に住む哲学者の息子、
軽妙で遊びごころのある言葉の使い手だからこそ、
万人に「なんとなく」の日常の世界の大切さを感じさせる。

この「なんとなく」の意味合いが、軽やかで想像を掻き立てるのだと思う。

実体を感じないからだ。

生活者の視点ではなく、どっしりとしたという言葉も、
富士山のような裾広がりの山の輪郭と理解している様子は、
自然はただ見て楽しむ美しいもの、というような小綺麗な印象だ。

そして、そのような自然は誰のものでもなく、
空気や水や宇宙までも誰のものでもないのだから、と、
スラスラと言葉が続いていくような気がする。

それは地球に住むものとしての理念というような、
壮大な解釈につながるので、異論をはさむ余地がなく、
しかも清浄な思いすら呼び起こす。

そうだ、この山は宇宙の塵芥とともに、
地球の有機物の堆積が生み出したもので、誰のものでもないのだ。

しかし現実には、所有する山林という地目の土地に対して、
固定資産税が、誰かに課されている。

どこもかしこも一部を除いては、法律の上で誰かの山なのだ。


春は山菜取りの季節。

大好物のシドケを今年は取りに行きたいし、
親戚から苗を貰って、シドケ畑を作りたい野望もある。

山は基本苦手だ。

どんな未知の生物が潜んでいるか分からない。

何かが突然変異して恐怖の生物になっているかも知れないではないか。

小さい頃留守番をしていると
「玄関からライオンが入ってきたらどうしよう」と、
おびえていた子供の頃を思い出す。

父が亡くなる前年「キノコや山菜の場所を教える」と言うので、
車に乗せて山道を車で走っては止め、走っては止め、私に講義した。

ここの沢沿いのあの辺に何が生えているとか、
ここは道路が出来てから、いつも山菜を取られてしまうとか、
この茂みをくぐった先に珍しいものがあるとか、
秘密を開示してはくれるが、
私の頭の中には「抗議」の二文字がひしめいていた。

父でさえ、食べられるものかどうかを確認に出向いたような、
近所のおばあちゃんみたいな人はもういないし、
それに終活の意味なのだと思ってうなずいていたものの、
蝶よ花よと過保護すぎるほどに、私を育てた過去を忘れている。

ある場所で、車を止めて急斜面の杉林を下りて、
上から、そこの右だの、左だの、下だの指示されるが、
歩きなれない道(ないけども)を踏み外して、
ゴロゴロと転げ落ちたことがある。

五階程の高さを一気に転げ落ちた気分だ。

だが、見ている方は勝手知ったるところの慣れ親しんだ場所なので、
高いところから、また叱咤激励が、神の啓示のように降りてくる。

人間の欲というものは、生きる支えなのだと身につまされる。

そのような里山に暮らす人間が「山」と言葉に出した時、
たいてい一区画のような、部分的な意味だ。

森林組合に出向けば、どこらへんの区画が誰の所有というのは
分かるだろうし、そもそも境目は、植えた木を見れば分かるという。

いろんな意味で植えた木の年輪や種類が、
自然と境界線をかたどっている(らしい)からだ。

「山」とは、あの三角の稜線の内側すべてではなく、その一部分、
例えば田んぼの一枚、土地の何坪、と同じといえば理解しやすい。

ここに立って見える山全部〇〇家のもの、と
昔、直接聞いて驚いた経験はあるが、そのような財産家は稀有だ。

この所有とか土地に関する法律は、誰が頭を悩ませたのだろうか。

震災後、よく拾われたひとつがお金らしいが、
海の上でお金を拾った場合、海上保安庁の管轄で、
海の底から拾った場合は、自治体の管轄だ。

つまり、魚と共にバッグに詰め込まれた大金が底引き網に引っかかれば、
持ち主が現れるまで、或いは一定期間市役所で保管されることになる。

法律というのは不思議な学問だと思った。

樹木と親しんで暮らす人々からは、
新築披露の場に出かけると、どんなにお寺のような立派な家だとしても、
「たいした材料は使っていない」などと、低評価が出る。

小さな家でも「柱が全部ヒノキを使っている」などと、高評価がでる。

3.11後に建てた近所の家は材料を乾かす期間が足りなかったようで、
棟梁が「柱がひび割れを起こすから、この冬、暖房は使わないで」と
大事な作品の確認に来て語り、人間様より家が大事か、と笑い話にされた。

井伏鱒二が、こういった空気に親しんだ人物であるならば、
そして谷川俊太郎氏がインテリ家庭の都会育ちであるならば、
その背景を思い描いた時、この詩は、
私にパラレルワールドのような面白い物語を見せてくれる。

猛ふぶきさんを真似て長い前振りになってしまった。

1948年太宰治は、師と仰ぐ井伏鱒二を、散々世話になった恩人を、
「井伏さんは悪人です」と書き込んで、この世を去った。

悪人の意味を、太宰の立場から想像することは苦しい。

井伏鱒二の立場から、想像することはもっと苦しいかも知れない。

そこへ谷川俊太郎さんが軽やかに登場した。

そんな妄想。


1931年4月 井伏鱒三(33歳)と林由美子(28歳)は共に作家で、
快活な2人は妙に気も合い、年下の由美子は面倒見も良く、
話も面白く、お互いに楽しい尾道での講演の道中となりそうだった。

鱒三はこれを機会にどうしても因島に寄りたい、と由美子に事前に告げると
「それなら私もお供するわ」と時間の調整役もかってでてくれた。

かつて世話になった、土井医院の跡取り息子の墓参を果たしたかったのだ。

日本医科大学在学中に病没した、その若さを思うと、
気が滅入ってくるので、由美子の申し出は願ってもないことだった。

「もう少し早かったら桜のお花見もできたのに」

4月の過ごしやすい気候はありがたかったが、
鱒三も故郷、広島の桜を楽しむことが出来れば、と残念に思っていた。

「あれは山桜かしら?」

里山の桜に遅れて咲き始める山の桜が、由美子の視界に見えた。

向島への船の出発には時間があり、
なんとはなしに眺めていた由美子が、ワクワクと問うてきたのだ。

「そのようだね。あの山桜の隣は、誰の山だろう。
周りと比べても随分どっしりとして立派だ。
来年あたりは、あの杉林全部売りに出してもいいんじゃないかな。
手入れがされた立派な山だ」

「あれで何年位のものなのかしら?」

「おそらく先々代位に植林したところだな。
ざっと見て80年位かも知れない。
私の生家でも良い木挽こびきに恵まれてね。
その息子も父親に似て真面目な仕事をするんだ。
あのような立派な山を見ると思い出すよ」

そう言えば鱒三は資産家の息子だったと思い出した由美子は、
もう一人の資産家の息子のことを尋ねた。

「そう言えば、あの津島くんは、この頃どうなんですか?」

鱒三は、家出してきた青森の芸者と、
世話をしている津島青年のことを思い出し、ため息をついた。

「彼はまだ22歳だからね・・・どういったものか」

鱒三が言いよどんだのには理由がある。

津島が弘前高校に在学中から縁があった。

縁があったというべきか、津島が一方的に鱒三を慕い、何かあると
「そうしてくれないと自分は死んでしまう」と、鱒三を脅すのだった。

津島は大学入学のために上京したものの、小説ばかり書いている。

その熱中度は異常とも言えるほどで、
小説を書きながらのトラブルは何も女のことだけでなく、
どうやら麻薬にものめり込んでいるようだった。

津島の実家から送られてくる仕送りは、鱒三の手を通して、
津島に渡すのだが、ある時は失踪して困り果て、
捜索のために新聞広告も出したことがある。

共産主義にかぶれ、地主階級の出である自分を悲観してか、
期末試験の前に自殺をはかったが未遂に終わる。

昨年でさえ銀座のカフェーに勤める女と、
鎌倉の海岸で薬物心中を図ってみたのだった。

ふと視線をはずした瞬間に後ろの方から声が聞こえてきた。

「あれはただの山です。誰の山でもありません。
名前はなんというのですか?」

振り向いた由美子は、遠くを指さす初老の男性に向かって、
「あれは確か、白滝山と聞きました」と地元で聞いた話を答える。

「どっしりしているので、富士山かと思いました」

指さした手を下ろして、初老の男性が思わぬことを言う。

「残念ながら違うようですね・・・」

(いったい何なのだ)と不審に思った鱒三が、
男の気分を害さないように、話に割って入った。

近年政局は不安定で浜口内閣は総辞職したばかりだ。

右翼や軍部のクーデターなど、巷では軍歌も流行り、
戦争の足音がひたひたと近づいてくるようだった。

講談社の少年倶楽部では「のらくろ二等卒」という漫画が、
子供達に人気だった。

この初老の男は、こざっぱりはしているが、白い肌着を重ね着した上に
帆布のようなズボンを履き、眼光鋭くこちらを凝視している。

おかしな風体をして、このご時世、油断できない輩だと思った。


「えっ 鱒三さん、見て。どういうこと」

その時、鱒三は言葉すら失った。

初老の男が目の前で、みるみるうちに泡のように姿を消していったのだ。

「消えたのか?」

「信じられない・・・」

沈黙を最初にやぶったのは、由美子だった。


「鱒三さん、この世の中、何が起こっても不思議ではないわ。
米国では102階建てのエンパイヤステートビルとかいうのを
建設しているんだもの。102階なんて想像もつかないわ」

「それはそうだ。今では女性ですらパラシュート降下もするし、
870円もするオート三輪『ツバサ号』とやらも出てきた」

由美子が気持ちを現実に押し戻すかのように続ける。

「そうよ。10銭の森永キャラメルがいくつ買えるかしら。
それに松竹の女優が5,000円の容姿保険に加入したというのも
なんのことかと思ったけど、日劇のダンサーにも、
足に2万だか3万だかの保険が人気というじゃないの」

「ハンガーストライキというのも、あれだね。
腹をすかせて何がしたいんだと巷の噂だな」

(あの初老の男はなんだったのだ・・・)

同じ思いで会話が途切れる。

「そう言えば奥さん、節代さんはお元気にしてらっしゃるの?
しばらくご無沙汰でしたから気になってました」

ふいにもうひとつの現実に戻そうと、由美子が試みた。

「去年生まれた圭介の子育てに奮闘しているよ。
由美子さん、さあ船に乗ろう」

ちょうど、向島に戻る船がやってきたところで、2人は黙って乗船した。

春の心地よい風に吹かれながら眺めた瀬戸内の風景は穏やかだった。

「鱒三さん、見たでしょ?」

由美子が口火を切った。

やはり忘れることはできないようだった。

「あの人、津島くんじゃないかしら?」

「何を言ってるんだ。津島くんは22歳で、あんな白髪頭ではないぞ」

「ちがうの。不思議なことってあると思うのよ。
2人であの時、津島くんのこと話して、心配していたでしょ?
神様が津島くんの未来の姿を見せて安心させてくれたんじゃないかしら」

「・・・確かに顔の輪郭や大きな鼻は彼に似ているような気もする」

「でしょう?年を重ねるときっと、ああいう感じになるのよ」

鱒三は自分の内面の奥底に向く、
異常とも言える津島青年の顔を思い描いていた。

あの初老の男は、遠くを指さして
「あの山は誰のものでもない」とはっきり言ったのを覚えている。

津島が、あの自ら望んで魔界に入り込もうとする若者が、
いったいどこからどうやって、どの時代から抜け出したのか。

年齢か、経験か、ただ突き抜けるとあんな風に変わるのか。

あの初老の男はにこやかに静かな笑みさえ、たたえていたではないか。

そして自分ではなく、遠く大きな山を指さし、欲を捨てたかのように
「誰の山でもない」と心の変わりようを見せつけた。

「鱒三さん、おりましょう。もう着いたわ」

由美子と2人で、今度はまた因島に引き返す船を見送った。

「人生は左様ならだけね。あの初老の津島くん、もう一度会いたいわ」

由美子の気持ちは手に取るように分かった。

あの破滅的を好んで選び取るような津島が、
あのようなどっしりとした山のような落ち着きまとう人間になるのなら、
苦労してでも力になってやらなければと心に誓った。

これも何かの不思議な縁なのだと思い直した。

「一期一会の積み重ねが左様ならだと思えば、
一つ一つの出逢いが素晴らしいものじゃないか。
左様ならだってそういうことさ」

人情味あふれる由美子はにこりとして「そうね」と笑った。

「きみは手塚君の妻なんだから、もう初老の津島くんは忘れるべきだね」

鱒三は、清々しい気持ちすら感じていた。

あの、魔界を好んでのぞき込む男が、
世界を真っ直ぐに見つめるような仏のような風貌に変わっていくのか。

いったい何故だ。


この記事が参加している募集

404美術館

花の種じゃなくて、苗を買ってもいいですか?あなたのサポートで世界を美しくすることに頑張ります♡どうぞお楽しみに♡