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対等に話せなくなる「思いやり」のフィルター*優しい拒絶

優しさにはいろんな種類がある。

3月11日は誰かの誕生日であったり、
誰かの命日であったり、何かの特別な日であったり、
いつものなんでもない一日だったりする。

どんな日もみんなそうだ。

1月17日は阪神淡路大震災の発生した日で、
朝起きて時計代わりのテレビをつけたら、
(戦争が起こった!)と思って、呆然とした。

人生で初めての呆然自失だ。
でもどこか見慣れたような、どこか似たような街であることに
外国の景色でないことに気付く。

何が起こったか分からなくなった。

じょじょにテレビが人の心を殺すように、
きっと「報道とは何か」に迷いながら、
この世の地獄を映し出していたのだ。

自分に出来ることは何かと、郵便局に募金の振り込みに出かけたら、
隣の列に並んだ、いかにも仕事上がりの水商売の年配女性が、
同じように募金を振り込んだのを覚えている。

その疲れた姿に不似合いな10万円だった。

年を重ねた人達はいろんな人生を抱えていて、
突飛な行動や、個性的な生き方にもその過去が隠れている。

可愛いホームレスのようなTちゃんと呼ばれるおばあちゃんがいた。

「昔、関東大震災のあとにたくさんの人が駆り出されたの。
頭がおかしくなって帰ってきた人も大勢いてね。
Tちゃんもそうだったのよ」と語る人がいて、
「Tちゃんは若かったけど、看護師さんのような仕事だったはず」
と語る人もいた。

3.11の震災後も同じようにいろんな人がやって来た。

道に倒れたひどい酔っ払いを「大丈夫ですか?」と警官が声を掛ける。

「ああ、こいつはKだからそのままで大丈夫だ」と地元の警官が教える。

道のど真ん中をふらふらと歩いて渋滞を作ってみたり、
買い物中に脱糞したことすらある。

昼間から酔っぱらってその辺で寝ている。

白髪のザンギリ頭のおばあさんは、
なぜこんなところに、と思うような山道にも出没する。

雨の日も風の日も、太陽の照り付ける日も、
求道者のような厳しい表情で、ただひたすら道を歩いている。

生きている証がただ歩くことだ。

そこで疲れが出たに違いないと思うしかないところで、
子供の遠足のような風体で、足を投げ出して休んでいる。

それがトンネルの中なら、皆がギョッとすることになる。

街には片手を上げた出前持ちのような格好をして、
お蕎麦ではなく、キャラクターを抱え自転車で走る人がいる。

病院では、名前をつけた人形を抱いて日々共にする男性がいる。

いろんな人がいるのに、社会にはそれを否定するローカルルールがある。

重度の自閉症児を持つ人が、学校のルールに合わせられない
自分たち家族への陰口に、「法を犯してるわけではないのに、
なぜ許されないのか」と泣かれたことがある。

目に見えない一番大きなルールが、
「他人に迷惑をかけてはいけない」ということだからだ。

ルールから外れるのはいけない、と思ってしまうから、
誰しもルールから外れた行動や人間は受け入れられなくなるし、
次第に、自分もルールよりも人の眼を気にするようになる。

「自分がどう見えているか」という自意識過剰に日常がつぶれる。

それは紛れもなく、人や物事に対する上から目線にほかならない。

そういう人の正義は自分の中にだけあり、
それは大事なマニュアルのように守らなければいけないものになる。

自分の感情を押し殺して、マニュアルのページを開く。

社会での行動にも人とのコミュニケーションにも、
「臨機応変」の言葉はあったとしても、許されないことが多い。

そもそも自分で考えることに蓋をしている。

たとえば、
「鬱の人に頑張れと言ってはいけない」という認識の、共通ルールがある。

誰も「私は鬱です」のステッカーを貼り付けているわけではないから、
優しい正義感の人はコミュニケーションに慎重になり、
指摘される怖さも覚えて、他人にすら強要する。

正義だと思うことは声高らかに唱えて、それ以外を受け入れない。

なぜならそれが人間関係に必要不可欠な「思いやり」だから。

ただ視点が欠けているだけだと、本人は気が付かない。

「迷惑をかける」のと「お世話になる」ことは決定的にちがう。

世の中は優しい拒絶にあふれている。





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