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天井にいる小さな黒猫さん


たまに、自分の事を「価値がない人間だ」と思う。

人間の価値なんて測れるものではないし、もっといえば「人間」と「価値」という言葉を結びつける事自体とても馬鹿馬鹿しいと思う。
「自分は価値がない」なんてものすごく悲観的な感情に思えるけど、心はそれほど病んだり荒んだりしていない。
ただ、冷静沈着に、事実としてそう思うような。
そんな時がある。


私が毎日見ている推したちは世界を駆け回るスーパースターだし、最近こそ7人それぞれが1人1人素敵なアーティストだと証明している。

仕事で関わっているあの人は、とても美人で綺麗で、いい人で技術もあってとってもかっこいい。

昔の友達は有名人になっていて、たくさんの人に愛されている。

昔から仲良いあの子は、1人の人にとてもとても愛されてすごく幸せそうだ


きっと私も愛されている。
今まで色んな事があったし、意味がある行動をとったと思う事だって沢山ある。
分かってる。分かってるんだけど、自分の事になると感覚が鈍くなるのは人間の性質の様なものなのだろうか

客観的に考える事ができる方だという自負はあるものの、心がついていかない時は、「自分の価値」みたいなものを、そんなくだらない事を考えてしまったりする。



話はまるっと変わるけど、
昔、私は兄と同じ部屋で過ごしていた。
一つの部屋をぴったり二等分して、見えない線が引かれてるみたいに、左側はスッキリきれいで、右側は足の踏み場もないくらいぐっちゃぐちゃのとてもトンチキでアンバランスな面白い部屋だったのを鮮明に覚えている。
もちろん右側が私のエリア。

スッキリと整頓されていて机の中まできれいな兄のエリアの天井には小さな黒い猫のシールが貼ってあった。
いつどのタイミングで誰が貼ったのかは全然覚えていないけど、綺麗なエリアなのも相まって小さな黒猫さんはけっこう目立っていた。

私は、小学校5年生ぐらいから別の部屋に移動して、それから22歳になるまで、その部屋には足を踏み入れなかった。


そして2年前、私のホームワーク生活が始まってから、とっくに実家から出た兄の部屋を仕事部屋として使わせてもらっているのだけど、
たまに目の端に映る天井の黒い模様が大嫌いなあの虫に見えてビクッとなる事がある。
でも、目をやるとそこにいるのは小さな黒猫さんのシールで、ホッと息を吐くこともあれば、虫の居所の悪い時はちょっとムカついてしまう。

先日、流石にそろそろ剥がそう
と思い、椅子に登って手を伸ばしたところで
何でか、剥がす事ができなかった。
物理的にできなかったのではなく、気持ち的にできなかった。

10年以上前からそこにいた黒猫さんを私の気持ち1つで剥がしてしまうのは、何故だか勿体無い気がしたし、別にわざわざ剥がさなくてもいいか?なんて気分になった。
やっぱり1週間に1回ぐらいはビクッとして天井を見上げてしまう。

特にあの黒猫さんに愛着が湧くわけではない。
本当にただの小さな黒い猫模様のシールなんだけど、、
年月が立つとどんなものでも価値が変わるなんて、人間の気持ちって面白いなぁなんて思う。


25歳の誕生日を迎えた。
25年もこの世界に存在していると思うとなんだか不思議な気分だけど
25年しか生きていないこともなんだか不思議で、
早く大人になりたいと願っていた10歳の頃の自分を思い出して、すっかり大人になってしまったと思うのに、その時のその気持ちだけはずっと残っている
大人になりたいと願いながら年月だけが過ぎて
子供で1人じゃ何もできない「自分に価値なんかないんじゃないか」って、15年前と同じ事を思ってる。

ちなみに、剥がせない天井の黒猫さんは実のところ価値はない
何年も前にどこにでも売っていたであろうどこかしらで買ってたまたま天井に貼られた黒猫の小さなシールでしかない。
だけど、私はきっとなんだか勿体無くて、ずっとこの黒猫さんと過ごすんだろうなぁ。と思う。
それだけで、きっと価値がある。

そんな馬鹿げた尊い考えと共に、人生100年時代の4分の1が過ぎた。

さぁ、明日もちっぽけな世界の1片で、コツコツと仕事をして、些細な事に大笑いして、冴えない1日を過ごそう。

幸あれよ。私。


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