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影の中に陽だまりが落ちる


争うことも、悲しむことも、したくない
世界のどこかで戦争が起こってるなんて未だに信じたくない。
妬み嫉みの感情を自分の中に感じた瞬間に最悪の気分になる
自分の中にいちばんいらない感情だとすら思う。


幼い頃は、自分のものさしで"悪"を定義してそれを否定するのは簡単だった。
いじめてる人は悪だし、ずるい人は悪だった
ではいじめられていた私に、彼らへの"悪"はなかっただろうか?
ずるい人だと思っていた人のそのずるさの中に、人の知恵が、"賢さ"があったのではないか?
今でも、いじめる人や陥れる人は嫌いだしやっぱり悪だけど、某漫画の「真実は人の数だけあるんですよ、...」と言う言葉はガツンと響いた。


大人になるにつれ、純粋さが人を傷つけかねないと知り、自分の正義を守る行為は誰かの反対側に立つ行為だったのだと知り、反対側が誰かの正義かもしれないことを知った。
悪がないと善に気付けないかもしれないと、思うようになった。

自分の中でいちばんいらない感情だと言った妬み嫉みの感情を抱き、辛い思いをした時、それをバネに高みを目指せた事は何回もあったはずだ。
この矛盾は、とても痛くてとてももどかしい。


大好きな推しのことを好きな理由のひとつは、人がどんな言葉を言われれば励まされるのかをよく知ってる人だと思ったからだ。
でもそれは、彼が今までの人生の中で不当な扱いを受けたり、彼に心無い言葉を放つ人がいて、痛みを感じもがき苦しんだからこそ、人に優しい言葉をかけれる人なのだろうと、よく思う。

悲しい思いをして欲しくない。
辛くもどかしい時間が最大限少なければいい。
出来ることなら幸せな時間だけを過ごしてほしいと強く思うのに
今までの人生の中で、幸せな時間を今より遥かに多く過ごした彼がいたとして、果たして私はそんな彼のことをここまで愛しただろうか。
自分の中の大切な感情を問われた時に、「少しの劣等感」と答えるそんな彼だから、強く惹かれたのではないだろうか。


グリンデルバルドが「より大きな善のために」というスローガンを掲げ、犠牲は仕方ないと思っていそうなその姿勢は悪役にふさわしく、絶妙に嫌な気分になる。
クラスが団結するためには悪役が必要で、私はそれになっていたと言う昔の担任の先生の、その話を聞いた時に同じような不快感を感じた。
「そうなんだ、あなたはいい人なのね」とは当然思えず、私にとっては不快な先生だった。
それでもその先生のクラスは、皮肉なことに一致団結した良いクラスだったと思う。
(先生のおかげなのかは分からないけれど)


コンピュータの起源が戦争であるように、最悪の状況から便利な物やより良い思考が生まれる事は現実にある。
しかし、それらは最悪の状況から抗う姿勢で生まれるはずだ。


争うことも、悲しむことも、したくない
辛い思いはしたくないし、大好きな人には目一杯に幸せでいてほしい

叶うと思うから願うのではなく、ただ生きていくために幸せと平和を願う。
抗って願って、いっときのちっぽけな幸せを手に入れて、それを大切にして、ただ生きていくために



人の感情は面白い。
光に照らされ、影はできる
そんな当たり前は、人の感情には無い。

私たちはこれからも、様々な問題に揉まれ、様々な状況に苦しみ、悲しみ、悩みながら生きていくのだろう

それでも、幸せを求めて生きていこう

影の中に落ちた陽だまりに寝そべって生きていこう

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