毒親を解読するとき感情的になりすぎる危険性

毒親の話を語るとなれば、とかく感傷的なトーンで語られやすい。
SNSとかで毒親について語ろうとすると、気を抜くと毒親育ちがどれだけ辛いかのアピール合戦になってしまう。

毒親問題は当人にとって当然、辛いことである。
それにそもそも毒親問題を解決したい出発点は、辛さから逃れたいという動機であるはずだ。

だけども、その辛さがいかに辛いかばかり目を向けて、他人に慰めを求めるように悲観的な言葉でそれを飾ることは、それを増幅させることになりうる。

自分の内面の辛さに素直に目を向けることは、確かに毒親の苦しみから逃れるために必要な一歩である。何をされたかそれでどれだけ傷ついたのかをハッキリと知るのも現状の解読のために必要である。

過去の経験、その思い出し作業において、苛立ち、悲しみに浸り、ときに絶望的な思いに暮れることもあるだろう。
悲観的になることは必然的なことでもある。

けれども、それに固執しすぎ、感傷的になりすぎることに解決の道はないと思う。

自分の辛さに目を向けて、素直にそれを心が壊れない程度にちゃんと感じながら、一方で冷徹な目線でその辛さの原因は何なのか。なぜ自分はその辛さを抱えているのかという客観的な目線も必要である。

毒親の処方箋は傷の舐め合いじゃなく理解
そして、毒親を克服する処方箋も、自分の心の辛さをどう鎮めるかというテクニック論みたいな話になるときがある。

もちろんそれで救われる人がいるなら有意義なことだけども、僕にはテクニック的に、トラウマからの心の平穏を取り戻すのに懐疑的である。

たまに聞かれるアンガーマネジメントの6秒ルールみたいなもので、たしかに怒りは抑制できるのかもしれないけれども、それは臭いものに蓋をするような解決法である。

好ましくない結果だけを抑制しようとしても原因が依然としてなくならない限り、それをいつまでも抑えておけるはずがないのだ。

毒親の克服には、その経験を自分なりに解読して、理解することが大切であると思う。

お化けが怖いのは理解できないから怖いのであり、頭で理解できてしまえる物事や事象に人は耐性が得られるのだと感じる。

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