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【小説】タイトルが思いつかなかった小説~第一章~

こちらの小説は、恋愛小説を書こうと思って書いた小説です。
ぜひ、読んでいただけると嬉しいです。


第一章

先にベッドに腰掛けた阿久津の左横に俺が座ると、ベッドのスプリングが軋む音がした。一人暮らしを始める時に買ったこのシングルベッドは、トランポリンほどではないけれど、阿久津より体重が重い俺がベッドに腰掛けると、隣にいる阿久津を微かに弾ませた。弾んだ揺れを待ってから、阿久津の顔がこちらを向く。阿久津は俺と目を合わせず、静かに自分の顔を俺に近づけた。
顔を近づいてきた阿久津に俺は枕とは反対側に倒され、ベッドの足元の方に頭が付いた。いつもは頭の上にあるエアコンの温風が直接顔にかかる。ベッドに横になった俺に覆いかぶさって、阿久津は自分の唇を俺の唇に重ねる。阿久津と唇を絡ませ合いながら、俺は天井に視線を向けると、天井は、いつも寝ている時とは違う顔を見せた。
ベッドの足元の方に頭があるのがなんだか気持ち悪くて、俺は阿久津の背中を抱きかかえるように起き上がると、阿久津の頭を枕の上に移動させる。頭の位置が変わると、今度は俺が阿久津に覆いかぶさるようになって、俺は阿久津の舌に自分の舌を絡ませた。
さっき一緒に食べたしょうゆラーメンの塩気が鼻につく。阿久津のしょうゆラーメンか、俺のしょうゆラーメンかはわからない。互いの漏れる吐息から醤油と油の匂いが混ざり合いながら、俺は阿久津の薄手のニットの上から阿久津の左胸を揉む。阿久津のニットはきっと安物で、さっきラーメン屋で向かい合った時に首の周りや袖辺りに小さな毛玉が目立っていた。
俺が阿久津のニットの下に手を入れようとすると、忍び込んでくる手の気配を感じたのか、阿久津は顎を引くように首を上げた。
「自分でやる」
首に連動するように上半身を起き上がらせると、阿久津は自分で自分の薄手のニットを脱ぎ捨てた。顔からニットが脱げる時、阿久津の長い髪に小さな静電気が走る。ニットを脱ぎ捨てた阿久津が自分の細身のジーンズに手を掛けると、俺も慌てて阿久津を追いかけるように、急いで自分で自分の服を脱いだ。効率だけを求めるなら、自分の下着だってまとめて自分で脱いでしまえばいいのに。けれど、なぜか阿久津も俺も下着だけは自分では脱がない。
下着姿の阿久津の太ももが、あぐらをかいている俺の上に乗る。俺は荷物を抱きかかえるように阿久津のお尻を支え、お尻から背中を撫でまわし、ブラジャーのホックを外す。胸の形に対して乳輪がやや大きい、阿久津の乳首が俺の前に現れる。両手で阿久津の両胸を揉みながら、右から左へ交互に乳首を舐めた。勃起した自分のペニスが下着越しに阿久津の陰部に当たっているのがわかった。
動かしづらい阿久津の小さいパンツに手を差し込むと、阿久津の陰部にすぐに中指が当たった。そのまま中指を奥まで滑らせると、阿久津のそこはびっくりするほど温かった。中指を動かす度、阿久津の乱れた息が俺の顔にかかる。
パンツから指を抜き、俺が阿久津のパンツを脱がすと、お返しのように阿久津も俺のボクサーパンツの中に手を入れた。パンツの中に入り込んできた阿久津の指先は、陰部とは反対にびっくりするほど冷たかった。
阿久津に下着を脱がされた俺は、またあぐらの上に阿久津を乗せた。阿久津の腕が俺の肩の上で組まれ、俺たちは抱き合いながら俺のペニスに阿久津の陰部が覆いかぶさる。
「きもちい」
 阿久津の長い髪が俺の横顔に絡まる。ぴったりと体をくっ付けて、互いに互いが入ったことを確認すると、阿久津が小さく腰を動かし始める。阿久津の腰が動く度、俺のお尻に阿久津の冷たい踵が当たる。
 俺の肩から阿久津の腕が離れ、阿久津は斜め後ろに両手を付くと、和式トイレをする時のように両足を立てた。上半身が離れても、下半身は繋がったまま、阿久津はゆっくり俺の鎖骨を押し、俺はまた枕とは反対側に押し倒された。寝転んだ俺に阿久津がまた覆いかぶさった。阿久津の長い髪が垂れ、垂れた髪がカーテンの様に俺の左右の視界も遮断した。カーテンを開けるように俺が右手で阿久津の左側の髪を掻き上げると、阿久津は唇を俺の左耳にスライドさせた。
 下にいる俺は阿久津を突くように腰を動かし始める。阿久津は揺れる唇で喘ぎながら、俺の耳の裏をじっとりと舐め続けた。阿久津の乱れた呼吸を耳元で感じながら、俺は視線の先の天井と目が合った。
結局、枕と反対側に頭を向けてセックスしてしまったな、と、エアコンの埃臭い温風が顔に当たりながら、見慣れない天井の表情を見て俺は思った。

「……タバコとお酒かぁ。確かに、タバコもお酒も大人にならないとダメだもんね」
 阿久津は、少し考えるように視線を真上の天井に向けてから、壁側にいる俺に顔を向けた。阿久津の言い回しは、肯定はしているけれど納得はしていないのがよくわかって、納得もいかないし、面白味もないと言われているような言い方だった。
阿久津の顔がまた正面に戻ると、俺は枕に顎を付いたうつ伏せの体勢から仰向けに体の向きを変えた。狭いシングルベッドの上で体勢を変えると、思いのほかベッドが弾む。
「逆に、大人なイメージの物でタバコとか酒以外に何がある?」
 さっき阿久津に聞かれて俺が答えた、【大人なイメージ】のタバコや酒が早々に阿久津の中で却下されてしまいそうだったので、俺は阿久津に質問し返した。
「ウイスキーロックとかマルボロメンソールとか、確かに、大人って感じするよね」
 悪くないよ、と阿久津は言わんばかりにもう一度肯定したが、「でも」が続きそうな余韻を残す。
「でもさ、大人なイメージのものは何ですか、って聞かれて、タバコやお酒を連想するのは、ちょっと想像力が乏しい気がする。大人なイメージって人それぞれ違うからこそ、その人の【大人】のものを聞きたいじゃない?」
 阿久津は、また少し考えるように顎を上げ、真上の天井を見つめた。
「……私は、ベーグルかな。ベーグルってさ、なんか大人なイメージがしない? おしゃれな食べ物、代表って感じが」
 阿久津は話しながら、テレビの前のローテーブルに置かれたタバコを吸うため、一旦ベッドから降りてベッドにいる俺に背を向けた。タバコに火をつけると、阿久津は深く吸って、細く長い息を吐いた。阿久津は深呼吸のようにタバコを吸う。
「なんで、ベーグルなの? 硬いから?」
俺が後ろから聞くと、阿久津は顔を見せずに背中で笑ってから、なんでベーグルって、あんな硬いんだろうね、と俺も疑問に思っていたことを阿久津は口にした。
「子どもの頃、ベーグルを食べてる女の人がね、すごく大人っぽく見えたんだよね。あたしが小学生の時ね、年の離れたいとこのお姉ちゃんと一緒に、カフェでお昼ごはんを食べたの。当時、いとこのお姉ちゃんは美大の大学生で、カフェでベーグルのサンドイッチを頼んでてね。小学生の私は、ベーグルなんて物、見たことも食べたこともなかった。だから、ベーグルをお昼ごはんに頼む、いとこのお姉ちゃんが私にはすごく大人に見えて、私も大学生になったらランチにベーグルを食べるような人になりたいと思った」
 阿久津は、また深呼吸をするようにタバコを吸い、煙を吐き切ると、過去の自分を思い出すように、フッと小さく鼻から空気を出して笑った。
「でも、いざ大学生になっても、私はラーメンばっかり食べてるんだけどね」
 サイズの大きい、俺が貸したパーカーで膝やふくらはぎを隠すように、阿久津はパーカ―の中で体育座りをしながらタバコを吸い続けた。パーカーの裾から阿久津のスラリと長い、足の指が見える。
俺が小学生の頃、今の阿久津の様に、トレーナーの中に足を入れてテレビを観ていたら、服が伸びると母親に怒られたことを思い出す。
「俺も小三の頃、コーヒーゼリーを食べてる同級生のお兄ちゃんがすごく大人に見えた」
 阿久津のパーカー姿を見ていたら、俺はコーヒーゼリーのことを思い出した。ここ最近、コーヒーゼリーなんて食べていなくて、小三の時は大人に思えたコーヒーゼリーも、大人になった今はコーヒーゼリーにかかっているクリームが甘くて食べられない。
「小三にとってのコーヒーゼリーは確かに大人だね。私も小三の頃、コーヒーゼリーなんて食べたことなかったかも」
タバコを吸い終わった阿久津は、またベッドに戻ってきて、長い髪をしまうようにパーカーのフードを被り、せっかく温めた掛け布団の中に足を忍ばせた。俺の足首に阿久津の踵が当たる。阿久津の足は指先だけでなく、踵も冷たい。
「小三の時、【ちーちゃんのかげおくり】って話、国語の授業でやらなかった? ちーちゃんって女の子が、お父さんと一緒にかげおくりをする、戦争の話」
 俺が阿久津のパーカーでコーヒーゼリーを思い出したように、俺の小三のコーヒーゼリーで、阿久津は、ちーちゃんのかげおくりを思い出したのか、話し出す。
「学校の宿題でね、音読の宿題があってね、ちーちゃんのかげおくりを家で音読しなくちゃいけなかったの。でもね、私の音読を聞いているお母さんが、いつもちーちゃんのかげおくりを聞きながら泣くの。音読の途中、泣いてるお母さんに気付いて「ねぇ、泣いてるの?」って私が聞くと、お母さんは「悲しいね」って答えるだけだった。最後、音読カードを渡すと、お母さんは鼻を啜って「音読聞きました」のサインをした」
 横にいる阿久津からタバコの匂いがした。俺はただ黙って阿久津の話を聞く。
「国語の授業で、ちーちゃんのかげおくりが終わると、私、ほっとしたんだ。もう泣いてる母親の姿を見なくて済むんだな、って。それで、また新しい単元が始まるとね、考えるの。次の国語のお話はお母さんが泣くかな、泣かないかな。だから、私、国語のお話は明るい話が好きだった。【つり橋渡れ】とか、【モチモチの木】とか」
「懐かしいな」
 久しぶりに聞いた童話のタイトルに俺は思わず呟いた。
「でも、モチモチの木は絵が怖かった。あの切り絵の絵には、昔話特有の怖さがあったから。おじいさんの顔のシワとか、子どもの目が、なんか怖かったな」
阿久津の言う、モチモチの木の切り絵が思い出せなくて俺は首を傾げた。そんな俺を一目見ると、阿久津は【モチモチの木】を検索しようと床に置いたスマホを手に取った。
「え、もう9時? 外、暗」
阿久津はスマホを握ると、検索する前に待ち受け画面の時間が目に止まって、スマホの電源ボタンを押す。待ち受け画面は黒くなって、黒い画面に阿久津の顔が映る。
「ラーメン屋、行く?」
 今日の昼にも食べたラーメン屋を俺が提案すると、阿久津は笑って首を振る。
「私、西友のグリーンカレー食べたい」
「……グリーンカレーか。俺んち、多分、バターチキンしかないと思う」
 ベッドから降りて、俺がキッチンに向かうと阿久津も俺の後に続いた。流し台の下の戸棚を開けると、しゃがんだ俺の後ろから阿久津が俺の手元を覗く。西友のプライベートブランドのカレーや親子丼などのレトルト食品がいくつか見つかったが、肝心のグリーンカレーは入っていなかった。
「私、西友行って来るね。何か他に欲しい物ある?」
「いや、俺も一緒に行く」
 了解、と阿久津は言った。阿久津は自分のニットに着替えるため、部屋に戻ると床に落ちたニットを拾った。阿久津が俺のパーカーを脱ぐ時、阿久津の髪からまた小さく静電気が走った。
 駅前の西友にみなさまのお墨付きグリーンカレーとパックの白米を買って家に戻ると、阿久津は夕飯にグリーンカレーを食べた。俺は家にあった西友のバターチキンカレーを食べた。阿久津はグリーンカレーのルーだけを温めて、白米を食べなかった。
カレーを食べ終えて、阿久津が先に風呂に入った。阿久津が風呂から出た後、俺も風呂に入った。俺が風呂から上がると、髪を乾かし終わった阿久津はベッドの上に座っていた。風呂上りの俺がパジャマのスウェットに着替えていると、着替えている俺の様子を阿久津はぼんやりと見つめていた。阿久津の視線に気がついて、「ん?」と声を出さずに顔で聞くと、「ううん」と阿久津は声を出して、無表情で首を振った。
「大介、こっちきて」
 足首がすぼんでいるスウェットのズボンから足が出ると、後ろから阿久津が俺を呼んだ。阿久津はベッドの上で、お姉さん座りで待っている。
「何」
 阿久津に呼ばれた俺は、阿久津に背を向けるようにベッドの縁に腰掛けた。俺が阿久津に振り向く前に、阿久津は後ろから俺に乗るように体を密着させ抱きついた。俺は風呂敷を担ぐように阿久津の腕に手を置いて、阿久津の顔の方に顔を向けると、阿久津の髪の毛が俺の口に触れる。阿久津の髪は、今日は俺と同じ匂いがする。
 俺が阿久津に振り返るように体を動かすと、阿久津はそれを制するように後ろから俺のスウェットのズボンに手を入れた。まだ硬くなっていない俺のペニスをボクサーパンツの上から触って確認すると、すぐにパンツの中に手を入れた。柔らかいペニスは、阿久津の手の平から血の気を帯びて、すぐに硬くなる。
「硬くなっちゃだめ」
 阿久津は俺のペニスを上下に擦りながら言う。
「無理だよ」
「柔らかい方が好きなのに」
 阿久津はズボンから手を抜くと、ベッドから降りて、ベッドに座る俺の足の間に入り込んだ。阿久津は俺のズボンに手を掛け、さっき履いたばかりのスウェットのズボンとパンツを一緒に膝まで下した。阿久津に膝まで下されたズボンとパンツは、後を引き継ぐように最後は俺が自分で脱ぐ。俺が脱ぎ終わるのを待って、阿久津はまた俺の足の間に入り込む。阿久津が俺のペニスを咥える。阿久津の口の中は温かい。
 阿久津の顔が上下に動く。上下に動く阿久津の頭に、俺は手を置いた。しばらくすると咥えるのに疲れたのか、阿久津は口からペニスを外す。今度は休憩するように俺の太ももに頭を寄りかかりながらペニスを舌でなぞった。風呂から上がったばかりの俺の太ももはまだ熱がこもっていて湿り気があった。
休憩が終わり、また上下に動き始めた阿久津の顔を、俺は上から眺め、俺を見上げた阿久津と目が合った。俺はまた阿久津の頭を撫でる。
「出しちゃだめだよ」
 ペニスを咥えながら、笑って阿久津は言う。咥えるのも、笑うのも、喋るのも、全部、口じゃないとできない。
「出しちゃだめ」
 だめと言いながら、阿久津の動きは早くなる。
「無理だって……」
 無理と言っている側から、俺は射精した。
「だめだって言ってるのに」
俺の精子を口で受け止めながら、阿久津はいじわるそうに笑って言った。咥えるのも、飲むのも、笑うのも、喋るのも、やっぱり全部、口じゃないとできなくて、つくづく、阿久津は器用な奴だな、と俺は思った。

 うち、両親が共働きだったから、小1から小3まで、学童クラブに入ってたんだ。学校が終わってから、放課後、夕方の5時まで学童クラブで過ごすの。私が住んでたマンションの近くの団地の下に、学童クラブはあって、学童の目の前には広い公園もあった。放課後は、学童の友達と前の公園で遊んだ。学童で学校の宿題を済ませてくることも多かった。
学童は、おやつも出るんだよ。3時頃かな。公園で遊んでるとね、学童の先生が「おやつだよー」って、呼びかけるの。普段、学校で先生の言うことなんて聞かない、やんちゃな男の子たちも、おやつだよーの呼びかけには一番に反応して、遊んでたボールもおもちゃもすぐに片付けた。おやつの時だけ、めちゃくちゃフッ軽なのね。笑えるよね。
その学童の手洗い場がね、蛇口が2個しかなかったの。手を洗わないとおやつが用意されているテーブルに着けないから、私が1年生の時、手洗い場に並んでいると、よく3年生の男の子たちに押されたり、ズル込みされて、いつも手を洗うのは最後の方だった。小学生の頃って、おやつに命かけてたよね。だってさ、自分が先に手を洗えたからって、全員が着席しないとおやつは食べられないんだよ? なのに、なんであんなに早く手を洗って早く着席することに必死だったんだろうね。
うちの学童は、夏の時期になると、時々、おやつにチューベットが出ることがあったの。冷凍庫でキンキンに冷やしたチューベットを太ももの上でパキッと半分に割って、その半分を一人ずつもらえるの。
リンゴやミカン味は人気がなくて、なぜかブドウ味が断トツで人気だった。私、本当はリンゴ味が好きだったんだけど、ズル込みをする3年生の男の子たちが「ブドウ、ブドウ」って欲しがるから、私もブドウが欲しいって手を挙げた。じゃんけんで私が勝つとね、悔しそうにするんだよね。ちゃんと並べばよかったのにね。
私が行ってた学童はね、独特の雰囲気があってね、1年生から3年生までの男女がいるから、よくわかんないけど同じ学年同士で連帯感みたいなものが生まれるんだよね。普段、学校ではあんまり喋らないし、仲良くないんだけど、学童にいる時は心の距離が近くなる感じ。特に異性の子に対してはそうだったかな。学校にいる時よりも、学童の時の方が男の子たちと仲良くできた。
同じ学童に通う男の子でね、私と同じ学年に、満って男の子がいたの。満っていう字、満席とか満足とか、音読みだと、『まん』って読むでしょ? だから、田辺満で、【田辺マン】って、学校ではみんなに呼ばれてた。
満ってね、毎日お風呂に入ってなくて、小汚かったんだよ。小三の時、同じクラスで隣の席になったことがあるけど、いつも埃っぽい匂いというか、唾が乾いたような匂いというか、おばあちゃん家の台所の匂いというか。人ん家の匂いってあるよね。満は、いつも満ん家の匂いがした。
ある日ね、満がどうやら毎日お風呂に入ってないっていうのを勘づいた、クラスで中心的な男の子が、満のことを【マン菌】って呼び始めたの。満の音読みのマンに、ばい菌の菌でマン菌。満が、ねぇねぇって肩を触ると、「うわー、マン菌が付いたー」って、そいつ騒いで、他の子に「タッチー」って菌を移すようにタッチするの。みんな、キャーって笑いながら逃げたり、タッチされた子は必死に違う子にタッチ仕返したり。
ある日の休み時間にね、クラスのみんなが、マン菌マン菌って騒いでたら、騒いでいるクラスメイトにうんざりしたのか、さゆりちゃんって女の子がね、ハキハキしてる、ショートカットの女の子なんだけど、さゆりちゃんがね、「はいはい」って言って、「私の手にタッチして」って自分の手を差し出したの。それで、さゆりちゃんは「マン菌、タッチー」ってされた自分の右手を、教室の後ろの掲示板に貼られた学級通信に、バンって叩くように手を付けて、パンパンって両手を払ってから自分の席に戻ったの。多分、正義感とか、そういうのではなかったと思う。さゆりちゃんは、ただ静かに本を読みたかっただけ、みたいな、そんな気がした。でも、そんなことができちゃうさゆりちゃんをすごいと思ったのは、きっと私だけではなかったと思うんだ。
そもそも、なんでね、満が毎日お風呂に入らなかったのか私は知ってたんだ。満の家は、弟とおばあちゃんの三人暮らしだったの。お母さんはわからない。なんでいないかはわからないけど、満ん家にお母さんはいなかった。いつだったかな。私、一回だけ満のお父さんを見たことがあったの。多分、小二だったと思う。季節は冬だった。学童が終わって、外に出ると、自転車に跨った大柄の男の人がいて、「みつるー」って大きい声で満のことを呼んだの。
満のお父さんは、工事現場の人が着ているような、首元にフワフワのファーみたいなのが付いてる、黒と小豆色を混ぜたようなブルゾンを着てた。寒そうに左手だけをブルゾンのポケットにつっ込んで、右手で自転車のハンドルを持って、バランスを取って立ってるのが満のお父さんだった。
「阿久津、今日、父ちゃん帰って来たんだよ」って、お父さんに名前を呼ばれた満が嬉しそうに私に言ったの。満のお父さん、顔が赤くてね、冬で乾燥してるからか、顔に粉が吹いてた。髪の毛は空気を含んだみたいにボリュームがあって、髪の毛からも乾燥してるのがわかった。ニッと、笑った顔がね、満にそっくりだったんだ。
 学童の先生が満のお父さんに気が付いて、外に出てきたの。先生も満のお父さんも交互にお辞儀をし合って、挨拶をしてた。「満、よかったねぇ、お父さん帰って来て」って、学童の先生は優しく満の頭を撫でた。子どもの頃はよく理解できなかったんだけど、満のお父さんは普段、どこか遠くの地方で働いてるらしかった。出稼ぎ労働者って言うのかな。だから、満と父親の話になると、「父ちゃんはいるけど、一緒に暮らしてない」って言われた意味が、その時に何となくわかった。
 その日の夕方、学童から帰ってきた私は、お父さんと一緒に近所のスーパーに買い物に行ったの。二階から一階に降りるエスカレーターに乗ってると、「おーい。阿久津―」って、向こうから手を振ってる子がいて、満だった。満は、5千円札をひらひらさせながら、私の所に駆け寄ってきて、「今日、父ちゃん帰ってきたからさ」って言って、5千円札と反対側の手で抱えた、5袋入りのインスタントラーメンを見せてきたの。
お父さんがね、私のお父さんが、「満くん、お金そのまま持ってると危ないよ」って言って、ズボンのポケットに五千円札をしまうよう、満に言ったの。「わかった!」って、全然分かってない顔で満は頷いて、「じゃあな、阿久津」って言って、満はレジに走っていった。「走ったら危ないよー」って、お父さんが私の後ろから満に声を掛けたんだけど、満には届いていなかった……

 枕の上で、自分の頭の下敷きにしていた左腕が痺れ出した。ゆっくりと頭を上げ、左腕を抜く。目が慣れて薄っすら見える暗闇の天井とばかり目が合っていた俺は、右横の阿久津に少し顔を向けると、阿久津もまた、暗闇の天井を見つめたままだった。話の続きを促そうか、それとも何か気の利いたことを言おうか悩んで、俺は結局、何も言わなかった。
 阿久津から満って子の話を聞いていると、大学の頃から仲が良い友達の結花のことをなぜか思い出した。
大学2年の時、同じクラスの結花に、遠足のお弁当で好きだったおかずを聞かれ、小学生の頃のお弁当のおかずなんてよく覚えてない、と言った俺に、「それは、お弁当にちゃんとおかずがたくさん入ってたんだね」と結花は言った。結花の母親は保育士で毎日忙しかったらしく、しかも、母親は料理が苦手だったので、お弁当のおかずはいつも冷凍食品の唐揚げ3個とおかかが掛かっているご飯だけだったと結花は言った。
「今となっては笑い話として、笑えるよ? 小学生の頃、お弁当のおにぎりの具材がザーサイだったこととか、お母さんが作るカレーがシャバシャバでまずかったこととか」
 学食のから揚げ定食のから揚げをおいしそうに頬張って、結花は口元を手で覆いながら話していた。
 ベッドの隣に阿久津がいて、他の女の子のことを思い出した。阿久津はまだ天井を見つめたままだった。天井を見つめたままで、阿久津はもう喋り出す気配はない。
「満って子が、選んだインスタントラーメンって、何味だったんだろう」
 独り言のように俺は声を出した。こういう時に気の利いたことをすんなり言えるような男になりたかった。阿久津は条件反射でチラっとこちらを向いて、「醬油じゃない?」と、即答した。
「なんでわかるの?」
「いや、適当に言った」
「適当かよ」
 阿久津は相槌を打つようにフッと声を出さずに鼻で笑う。
「俺は、インスタントのラーメンなら、塩が好きだな」
「えー。あたしは味噌。味が濃いから」
「味噌、好きなの? いつもしょうゆラーメンしか頼まないのに?」
「だって、あそこのラーメン屋、味噌がないんだもん」
 夜中の静けさに合わせるように俺が笑うと、阿久津も静かに笑った。
「今、何時だ」
 この話の終止符を打つみたいに、阿久津は時間に触れる。阿久津はむくっと起き上がり、テーブルの上に伏せて置いた自分のスマホの画面をひっくり返して、時間を確認した。
「2時57分。寝なきゃ」
 正確な時間を口に出して、阿久津は二人で一つの掛布団を正すように掛け直した。2時57分だったら、俺なら3時と言っちゃうけどな、と思いながら、俺もそっと目を閉じた。

「何時、今」
翌日の日曜日、俺は目が覚めると、ベッドの中でスマホを触っていた阿久津に時間を聞く。「1時37分」と阿久津は教えてくれた。スマホの時間表示は、午後の1時なら13時と表示されているのに、阿久津は13時をわざわざ1時と変換して伝える。
 阿久津に何時に起きたのか聞くと、私もさっき起きた、と答えた。
「阿久津、腹減ってる?」
「うーん」
 考えるように唸ると、阿久津はスマホを床に置いて、俺の首元に顔を埋めた。ベッドから起き上がって何かをする気にはなれないが、ベッドの上で出来ることならできると言うように、阿久津は掛布団の中へ潜り込んだ。掛布団に潜り込んだ阿久津に、俺はまたスウェットとパンツを膝まで下される。昨日と違って、今は足を開く必要がないから、ズボンもパンツも脱ぐ必要がない。
 寝起きで元々硬くなっているペニスを阿久津が握る。阿久津は、手で上下に擦りながら口でも上下に擦った。掛布団は俺の足元の方で膨らんで、もぞもぞ動いているが、布団が掛かっていて阿久津の姿は見えない。
 布団の中でフェラをされる、この状況を何か上手い例えがないかと俺は考える。相手の姿は見えないが、気配は感じる、この状況。
箱の中身はなんだろな、の中身側は、こんな気持ちなのでは、とふと思いつく。けれど、「上手いこと言う」と、ぴったり当てはまるような気持ちよさはなかった。
「苦しい」
 プールの水から顔を上げるみたいに阿久津が起き上がり、掛布団を剝がされた。上半身が急に寒くなる。阿久津は、くしでとかれていない長い髪を手ぐしでとかすと、背中に髪を流した。ストールを掛け直すように掛布団を背中に羽織って、今度は掛布団をマントの様に広げながら阿久津は俺の上に覆い被さって、いつの間に脱いだのか、阿久津は自分の陰部に俺のペニスを入れた。下にいる俺は、反射的に腰を動かした。動き始めると、膝に残ったままのスウェットのズボンが結局邪魔になって、正常位に体位を変える時にズボンを脱いだ。
「布団かけて」
 下になった阿久津が言う。俺は振り返って掛布団を探す。さっきの阿久津と同じように、ストールをかけ直すように掛布団を羽織ってからマントの様に掛布団を広げ、覆った布団の中で再度、阿久津を抱いた。

「コンビニ、行く?」
 朝でも昼でもないご飯をどうするか、俺がコンビニで何か買ってこようと提案すると、阿久津はまた考えるように唸った。
「コンビニのご飯、あんまり好きじゃない」
 マックにしよう、と自分の服に着替えた阿久津に言われ、駅前のマックに二人で買いに行った。テイクアウトにして、俺の家に戻ってマックを食べた。
 会社が休みの昨日と今日は特に予定がなかった。阿久津も、今日、特に予定がないと、ハッピーセットを食べながら言った。ハッピーセットの量くらいがちょうどいいんだよね、と言いつつ、阿久津は食べる前に嬉しそうに付属のおもちゃを開けた。
マックを食べ終えて、俺たちはまたセックスをした。セックスを終えると、時刻は夕方だった。今日の日中、カラッとした秋晴れで、自然光でも十分だった俺の部屋は、気付くと、ずいぶん薄暗くなっている。セックスの後、いつものように阿久津がタバコに火を付けると、ライターの火が部屋の中で一瞬の灯火に変わった。
「暗いな」
 俺はベッドから立ち上がり、壁の電気のスイッチに手を伸ばす。
「もうすぐ、12月だしね」
 深呼吸のようにタバコの煙を吐き切った阿久津が言う。
 電気のスイッチを押すと、パッと、白々しい蛍光灯の光で部屋が明るくなった。スマホを見ると、時間は18時だった。
「今日、焼肉食べたいな」
 右手の人差し指と中指にタバコを挟んだまま、使われていない親指で右頬を搔きながら阿久津は言う。
「さっきマック食ったばっかで、俺全然、腹減ってないよ」
「あたしも」
 阿久津は反射的に笑った。笑いながらタバコの煙を吐き出すと、煙は真っ直ぐにはならず、阿久津の口から煙は白い塊のように出てきた。
「なら、もうちょっとしたら、どっか焼肉行く?」
 俺が聞くと、阿久津は煙を真っすぐに吐き出しながらタバコを灰皿に押し付けた。自分で吐いたくせにタバコの煙が嫌そうに顔を歪ませて、阿久津は声を出さずに頷く。
「なんか、食べてるか、やってるか、どっちかだね」
 阿久津は自分の言葉につまらなそうに笑って、笑い終わってから、タバコをもう一本取り出した。
 起きてからセックスをして、飯を食って、またセックスをして、また飯を食いに行って、そして、またセックスをする。
 阿久津は2本目のタバコに火を付けた。部屋が明るくなると、ライターの火は、もう灯火にはならなかった。

「要は、その子、セフレだろ」
 ビールを飲み干して、高山はジョッキを下すと空のジョッキをそのままテーブルの端に置いた。高山がジョッキを置くと、空のジョッキと交換するように、女性店員がちょうどおかわりのビールを運んできた。
「ありがと」
女性店員からビールを受け取ると、高山は愛想よく、その女性店員にお礼を言った。空のジョッキを下げて去っていった茶髪の女性店員の後ろ姿を目で追う高山に、「なんで」と俺は話の続きを促す。
「だって、飯食って、その後セックスして解散なんて、ただのセフレじゃん」
 そうだろ、と決めつけるような目の高山と目が合う。
「『私たちって、付き合ってるんだよね?』とか、そういう面倒なやり取りが無くて、その子、良い子じゃん」
 なんなら、俺が付き合いて―よ、と高山は下品に笑った。高校の時から変わっていない。こういう話になると、高山は気持ちよさそうに下品に笑う。
 面倒なやり取りはしないけど、セックスはさせてくれる女の子を、高山は【良い子】と言う。きっと、いい子ではなく、良い子って意味だと思う。
「まぁでも、坂井戸は高校の時から、何もしなくても女が近寄ってきたもんな」
「そんなことないよ」
 高山は俺よりも圧倒的に女の子から好かれるくせに、いつも俺をモテる奴として扱う。
「別に、好きでもなんでもないんだろ? 向こうだって。なら都合良いじゃん」
 高山は結論付けるように言い切ると、また下品に笑って、さっきおかわりを運んできてくれた茶髪の女性店員を目で追った。高山の視線だけで、女性店員がどこにいるのかがわかる。
「高山は? どうなん、最近」
 高山の左手の薬指に無意識に視線を落として、俺は聞く。
 質問の意味を分かっているくせに、高山は口元を緩ませて、「どうって?」と一応聞き返す。
「相変わらずバレてないの? 浮気」
もちろん、と高山は口には出さずとも自慢げに深く頷いた。
 高山は大学を卒業して、不動産屋に就職してすぐの22歳で結婚をした。そして、23歳で父親になった。高校時代、俺と高山は同じ高校のサッカー部だった。高校時代から高山の女癖の悪さを間近で見てきた俺や、同じサッカー部の連中たちは、高山の結婚に「おめでとう」よりも先に「大丈夫か」と口走った。
結婚の経緯を聞くと、彼女に子どもができたからと高山は答えた。「やっぱり」と頷く俺たちに、「でもさ」と高山は言葉を続けた。
「でもさ、子どもって途中で流れちゃうこともよくあるみたいだから、ギリギリまでわかんねーよな」
 クズの高山はそう言っていたけれど、翌年、子どもは無事に生まれ、高山は夫になり、そして父親になった。
誰かの夫や父親にはなったけれど、高山の女癖がなくなる訳ではなかった。高山は、今では開き直って浮気や不倫を繰り返している。高山はある意味、ぶれることがなかった。そんな女癖の悪い高山を生理的に拒絶する人もいるだろうし、俺もどちらかといえば浮気や不倫に対して反対派ではあった。以前は潔く開き直っている高山の態度が癪に障ることもあったが、俺は年を重ねる毎に、次第に高山に対して抱く感情が変わっていった。自分と同い年で27歳の高山は、奥さんと4歳の息子を抱え、働き、家庭を築いている。彼女が妊娠したからと言って、結婚ではなく、中絶を促す奴だっているけれど、高山は責任を取って結婚だってしたのだ。けれど、だからと言って浮気や不倫を擁護し、肯定派に回ると「待ってました」とばかりに正論を突き付けられることを俺は知っているから、俺は何も言わない。
 誰だって、正しさだけで生きていけるなら生きていきたい。
高山は自分が正しさだけで生きていけないからこそ、率先して、正しさだけで生きていこうとしなかった。正しさを諦めた、むしろ自分はクズだと開き直る高山の姿は、正しさというある種の攻撃から身を守っているようにも見えた。高山のような、正しさだけで生きていない人に触れると、それでも正しく生きていこうと足掻いている自分がまだましに思えて、だから俺は定期的に高山に会いたくなるのかもしれない。
「なんで、高山は奥さんに浮気バレないんだ?」
 心底、不思議そうに問う俺の顔がおもしろかったのか、高山はゲームの攻略法を話すようにテーブルに身を乗り出した。
「教えてやろうか」
 高山は勿体付けて、ビールに口を付けた。
「あのな、嘘ってな、全部を嘘で固めようとするから怪しくなるんだよ。でも、嘘の中に事実を混ぜたり、本当の中に嘘を混ぜると、ついた嘘が嘘に聞こえなくなるんだ」
「なるほど」
 思わず納得してしまった。俺が納得したのが気持ちよかったのか、楽しそうに高山は言葉を続ける。
「俺さ、昔、古畑任三郎を観てたんだよ。親父が好きで、実家にDVDがあったから。古畑任三郎で、桃井かおりの回があってさ、『さよならDJ』って回で、桃井かおりがラジオのDJ役かなんかで、自分のラジオ番組の生放送中にマネージャーの女の子を殺しちゃうわけ。……古畑任三郎、観たことある?」
「いや、あんまり。スマップの回しか観たことない」
「あぁ、あれも名作だよな」
 あの頃のスマップは、香取慎吾が一番好きだったと、高山は言った。古畑任三郎のスマップの回では、香取慎吾が殺人現場に自分の指紋を残してしまったことをメンバーに打ち明けるシーンをよく覚えていると、高山は続ける。
「いや、じゃなくて」高山は、途中で話が脱線してしまったことに気が付いて、自分で自分の話を戻した。
「そんで、ラジオの生放送の最中にDJ役の桃井かおりがマネージャーの女の子を殺して、事件が発覚した後、古畑任三郎にアリバイを聞かれた時に桃井かおりが先に正直に言うんだよ。殺されたマネージャーの女の子に最近、自分の彼氏取られちゃって、だから私にはマネージャーの子を殺す動機があるんだよねぇ、って。でも、私にはアリバイがあるから殺せないけどねぇって。マネージャーに彼氏を取られたっていう事実を正直に言って、でも、私は殺してませんよぉって嘘をつくんだ。で、その後、ラジオの生放送中に古畑任三郎が無理やりゲストとして呼ばれちゃって、ハガキの質問コーナーがあって、『嘘を見抜く方法を教えてください』っていうお便りに古畑がこう答えるんだよ。嘘が下手な人は全部を嘘で塗り固めるけど、嘘がうまい人は肝心なところだけ嘘をついて、あとは本当のことを話そうとする。正直者の方が、噓が上手いんですねぇ……」
 高山は最後の語尾を下手くそな田村正和演じる古畑任三郎の話し方で真似た。
「だから、私は飲み会に女の子がいることは正直に言うんですねぇ。でも、女の子は途中で帰ったと噓をつくんですねぇ。だから、私は浮気がバレないんですねぇ。はいー、古畑任三郎でしたぁ」
 眉間に皺を寄せ、半笑いで高山はモノマネを続けた。高山の思ったよりもクオリティが低い嘘に、全然似ていないモノマネが相まって、俺は思わず声に出して笑ってしまう。
「お察ししますぅ」自分の胸に当てた指先を俺の方に向け、下唇を噛むと、高山は最後、自分のモノマネにゲラゲラと笑った。そして、笑いが収まると、すぐに顔も口調も戻した。
「だから、俺、古畑任三郎で桃井かおりの回を観た時に思ったんだよ。俺って、嘘がうまい奴だったんだなって。無意識にそうしてたっていうか」
高山は、一度ウケたからといって、似ていないモノマネをダラダラとやり続けない。ちょうどいいところで止められる辺りが、器用で、こういうところが女の子に好かれるんだろうな、と思う。
 高山に釣られ俺もジョッキを握った。炭酸の抜けたビールが口に広がる。
「古畑任三郎の桃井かおりの回、まじおもしろいよ。桃井かおりがさ、マネージャーの女の子を殺す時、『痛い?』って聞きながら殺すんだよ。そのシーン、まじ狂気じみてて、俺好きなんだよなぁ」
 自分の言葉に納得するように頷いて、高山はビールを呷った。
「今度、観てみるよ」
 観る気なんてないのに、そう返答するしか俺にはテンプレートを持ち合わせていなくて、そんな俺を見抜いているかのように高山は口元だけ笑って「観てみてよ」と、この話題を切り上げた。
「そういえば、そのセフレの女の子とはどこで知り合ったの?」
 高山は阿久津がセフレだということを前提にさっきの話題に戻す。高山の決めつけは毎度のことだ。
「俺んちの近所だよ。半年くらい前に、俺が家の近所を歩いてたら、一人で飯食えないから一緒に近くのラーメン屋に行ってほしいって誘われた」
「え、どういうこと?」
 俺の説明に高山は新しいゲームの攻略法を聞いたような、難しそうに困った顔を見せて、けれど、どこか楽しげな顔でテーブルに身を乗り出した。

 阿久津と初めて出会ったのは、俺のアパートの近所だった。会社が休みの日曜日、昼過ぎに目が覚めて、家に何も食べる物がなかったので、朝ごはんというか、昼ごはんを調達するため、俺は近所のコンビニへと向かった。ゴールデンウイークも終わり、肌寒さが抜けた昼間。自転車を乗り回す小学生の集団は、みな半袖、半ズボンだった。小学生の自転車とすれ違うと、ヨレヨレのロンT越しに背中をポンと触れられ、俺は阿久津に声をかけられた。
「え、一人でご飯食べられないんですか?」
 コクンと、阿久津は頷くと、だから、あそこのラーメン屋に一緒に行かないか、と阿久津は自分の後ろを指差した。
「いいですよ。俺もちょうど、なんか食おうと思ってたところなんで」
 よかった、と阿久津は小さく呟くと、軽く頭を下げた。
阿久津と俺は一緒にラーメン屋に入った。時刻は午後の3時近かったので、店内にはカウンターに3人と、テーブル席に3人組の男女しかいなかった。俺たちはテーブル席に通され、俺と阿久津は向かい合った。俺たちは二人とも、しょうゆラーメンを注文した。店員に注文を終えると、間を持たすように二人同時にコップに口を付けた。
「お名前は?」
 コップから先に口を離した俺が口を開く。
「阿久津……です」
「阿久津さん……。下の名前はなんて言うの?」
「……麻衣」
「麻衣さん」
「……阿久津でいいですよ」
「あ、慣れ慣れしくすいません。じゃあ、阿久津さんで」
「いや、阿久津でいいです……」
 そう名前を言ったきり、阿久津はテーブルの上のコップの水をまた一口含んで、注文したしょうゆラーメンを食べる以外、口を開くことはなかった。
阿久津はラーメン屋でほとんど喋らなかった。俺たちは、すぐに運ばれてきたしょうゆラーメンをただ黙って食べ終えた。
 ラーメン屋で名前しか答えなかった阿久津を、この子は本当にラーメンを食べるためだけに俺に声を掛けたのだと思った。だから、ラーメン屋を出て、さっき阿久津に声を掛けられた辺りで「俺、こっちなんで」と背を向けた俺の腕を阿久津に掴まれた時、出てくるはずのないところからいきなり手が出てきたような、ホラー映画を観ている時のような心臓の音が鳴った。
「埃?」
 阿久津は俺の腕を掴んで、俺の肩に付いた埃のような、糸くずのようなものを疑問形で聞きながら取ってくれた。阿久津に掴まれた腕は、しばらく、そのまま掴まれたままだった。
「ラーメン屋にいる時からずっと気になってた」
阿久津は俺の肩に付いていた埃のような、糸くずのようなものを見せて、見せ終わると、ふわりとそれを地面に捨てた。阿久津の手が俺の腕から離れ、それから、捨て猫が心優しい飼い主の家に連れていかれるように、阿久津は俺の家にやって来た。
「あたし、一人でご飯食べられないから……LINE」
セックスの後、俺が貸した、少し大きめのパーカーから自分の服に着替えると、帰り際に阿久津は俺に連絡先を聞いた。
「坂井戸 大介」
 LINEを交換すると、阿久津は初めて俺の名前を口に出して、その日から阿久津は俺を「大介」と呼んだ。
 阿久津と初めてラーメン屋に行った日から、俺の仕事のない土日や、仕事終わりの平日の夜に阿久津から連絡が来ると、俺たちは一緒に俺の家の近くのラーメン屋に行った。ラーメンを食べた後は大体、俺の家でセックスをした。
 ラーメン屋にいる時の阿久津は、ほとんど喋らなかった。ラーメン屋では喋らないが、阿久津はセックスが終わった後はよく喋った。阿久津の話は脈略なく、いつも唐突だった。小中学生の頃の思い出話を思い出したかのように話し出す日もあれば、俺が当然知っているかのように、阿久津が今通っている大学院のことを話し出す日もあった。
俺は阿久津に何か聞かれれば受け答えをし、阿久津が絵本を読み聞かせるように何か話したければ、俺はただ黙って阿久津の話を聞く。
初めて阿久津とセックスをした日、セックスの後にタバコを吸う阿久津が、俺にタバコは吸うのかと聞いたので、吸わないと、俺は首を横に振った。
「アイコスじゃないんだ」
 紙タバコを吸っている阿久津に俺が独り言のように声を出すと、「アイコス吸うと、喉が痛くなるから」とメンソールの紙タバコを深く吸い込んで、細く長い息を吐いて阿久津は答えた。
「あたし、小さい頃、喘息持ちでアイコス吸うと喉が痛くなって、変な咳が出るからアイコス合わないんだ」
 喘息だったなら、紙タバコでも吸わない方がいいんじゃないかと思ったが、俺は何も言わなかった。

「一人でご飯食べられないって、その女のナンパの手口じゃねーの」
 手品の種明かしをされて、想像よりもトリックが単純だった時の「なんだ」の顔を高山は見せた。
「だって、外で、一人で飯食うの嫌なら、コンビニで何か買ってきて家で食えばいいじゃん。坂井戸は、まんまとその子の思惑通りってことだよ」
「……まぁ。でも、世の中には一人でご飯が食えない人もいるんじゃない?」
 高山と目を合わせず、けれど、視線の置き場所が定まらないので、俺はさっきの茶髪の女性店員に視線を置く。
「なんか変な子だな、その子」
 高山はまた決めつけるように言い切り、ジョッキを握った。高山の決めつけには慣れている。
 視線の先の女性店員が厨房の中へ入ってしまい、俺は手元のジョッキに視線を下げた。それから、小さく口を開く。
「でも、俺も一昨年の夏、耳に蝉飼ってたことあるし。世の中、みんな変な奴って言われれば、みんな変な奴だと思うよ」
 一人で飯が食えない奴も、耳に蝉を飼っていた奴も、結婚しても浮気がやめられない奴も、みんな変な奴だ。
 高山は一瞬ハッとして、俺に気を使うように声のトーンを下げた。
「……坂井戸は、最近調子どうなんだよ」
高山は声のトーンに合わせて、気まずい顔で俺の最近の具合を伺った。さっき俺が言った、「みんな変な奴」のみんなに、当然自分は含まれていないという顔だった。
「最近は調子良いよ」
「そうか。なら、よかった」
 でも、無理すんなよ、と最後に言葉を付け加えて、高山は茶髪のお気に入りの女性店員を探して「おかわり、ちょうだい」とジョッキを上げた。

【ご飯まだ済んでない?】
高山と飲んだ翌日の金曜日、会社から帰っている電車の中で、阿久津からLINEが届いた。阿久津のLINEに【まだ】と返信すると、いつものラーメン屋に行こうと返信が来た。俺は夕飯がまだだったので阿久津からの誘いに乗った。
【寒いし、先、店入ってていいよ】
 俺がそう送ると、【駅で待ってる】と阿久津から返信が来た。【OK】とスタンプを送り、スーツの上から着ているコートのポケットにスマホを入れた。
吊革に掴まり、電車の窓の外を眺める。目の前の景色が次々と変わる。知らない土地の、どこかの団地。ライトで照らされたどこかの建築会社の看板。さっき見ていた景色はもう思い出せない。けれど、ふとした時に忘れていたはずの何でもない景色を思い出す時がある。高山との会話は、忘れていた何でもない景色を思い出すみたいに、ふと頭を過る瞬間がある。
阿久津からの飯の誘いに乗った俺は、阿久津の思惑通りなんかじゃない。高山は、昨日、阿久津が一人でご飯が食べられないのは、ただのナンパの手口だと言った。
 言われてみれば、高山が昨日言っていたことは、確かに一理あると俺は思った。けれど、阿久津は一人でご飯が食べられないと言っただけで、一人で外食ができないとは言っていなかった。もしかしたら、食事自体を一人でできない子なのかもしれない。
自分が当たり前にできるからといって、他人もそれを当たり前にできるとは限らない。できる人から見れば、「なんで」と疑問に思うことでも、阿久津にとっては、ただそれができないだけだ。
阿久津と初めてラーメン屋に行った日、セックスの後、「私、一人でご飯食べられないから」と言ってLINEのQRコードを差し出した阿久津に、「なんで、一人でご飯食べられないの」を振りかざしたくなかった。「できる側」は、いつも「できない側」の言い分を「そうなんだ」で済ませてはくれず、「なんで」を振りかざす。「なんで」を聞くことでコミュニケーションを図ろうとするのもわかってはいるけれど、俺は阿久津の「できない」をそのままにしてあげたかった。
それに、今さら阿久津が、外食が一人でできないのか、食事自体を一人でできなのか、そんなことにあまり興味はなかった。高山が言う通り、一人で食事ができないこと自体が嘘でも、阿久津が一人でご飯が食べられないと言ったことがきっかけで今、俺と阿久津の関係が始まったことも事実だった。

 駅の改札を出て、階段の上から視線を下げると、階段を降りた場所に阿久津は立っていた。寒そうに腕を組みながら、阿久津はオーバーサイズのカーキ色のブルゾンに黒のコーデュロイのロングスカート、腕には厚手の生地素材のトートバッグを下げていた。おでこを出すようにニット帽をかぶっている。今日は出先から帰ってきたからなのか、前回会った時よりも服装がきちんとされていて、可愛らしい印象だった。
俺が階段を降りると、阿久津が俺に気付き、いつものラーメン屋へ向かった。
阿久津といつも行くラーメン屋は、カウンターが7席、四人掛けのテーブル席が5席、小上がりの座敷が3席あるお店だった。ランチタイムの昼間は回転が速いが、夜は居酒屋のように酒を飲む人も多い。
阿久津と俺はテーブル席に通されると、とりあえず生ビールを2つ注文した。
阿久津は席に着くと、被っていたニット帽を取った。ニット帽を取ると、静電気で暴れる前髪たちをなだめるように髪の毛を整えた。
学生の時、キャップを被ったままラーメンの丼に深く顔を近づけながらラーメンを啜る友達がいて、キャップのつばがラーメンに入ってしまわないか見ていてヒヤヒヤしたことがあった。キャップのつばがラーメンの汁に付くとか付かないとか、食事の時は帽子を取るとか取らないとか、そういう次元で生きていない人がいることを知った。
注文したビールはすぐに出てきた。空腹に流れてくるビールは、腹が減っていることを再確認させる。
阿久津は相変わらず何も喋らない。時折、ビールを飲みながら、ビールが運ばれてきたタイミングで注文した、餃子とラーメンをただじっと待っていた。阿久津は自分のスマホを触ることもなく、ただ、斜め下の床なのか、斜め隣の席の椅子辺りに目線を下げているだけだった。
賑やかな店内での俺たちの沈黙に、今はもう気まずさを感じない。俺も何も喋らず、時折、ビールを口に含んだ。
「味玉しょうゆラーメンのお客様」
 阿久津は店員に小さく右手を上げた。割り箸を割り、小さく手を合わせ、黙々とラーメンを食べ始める。
「ビール飲む?」
 ラーメンを食べている途中、一杯目のビールの残りを見て、俺が阿久津のジョッキを指差すと、阿久津は「うん」と小さく頷いてから、「ありがと」と言った。
「すいませーん」
店員を呼ぶ俺の掛け声と、阿久津の「ありがと」が重なって、阿久津の「ありがと」に俺が気付いて阿久津に顔を向けると、大学生くらいの男性店員がすぐ俺の横に立っていて、ハンディを構えて注文を聞いた。
「生二つください」
 俺のピースサインに男性店員は頷いて、店員は手慣れた様子でハンディのカバーをパタンと閉じると、エプロンのポケットにハンディをしまった。
「ありがと」
 男性店員がオーダーの掛け声を発しながら去っていくと、阿久津はもう一度お礼を言った。今度は店員の掛け声にかき消されないように、店員が去っていくのを待ってから阿久津は言った。
 ラーメン屋を出ると、自分の家に帰るように阿久津も俺の家に向かって歩き出した。ラーメン屋から俺の家に帰る夜道、今日の夜は、昨日よりも冷えてるね、と阿久津は言った。それなのに、阿久津は帰り道ニット帽を被らず、帽子を手に持って歩いた。
「ねぇ。大介は、今会いたい友達っている?」
 阿久津は持っているニット帽に手を入れて、くるくると帽子を回しながら聞いた。帽子は遠心力でよく回る。
「会いたい友達?」
「そう。ずっと会ってないんだけど、今、また会いたい友達」
 友達は多い方ではないが、会いたい友達には会えている。俺は星が見えない夜空を眺めた。
「会いたい友達か。……今、パッとは思いつかない」
 誰かに質問された時、聞いた側が本当に聞きたくてその質問をしている場合と、聞いた側に何か話したいことがあって、その質問を話の切り口として聞いている場合がある。阿久津が俺に何かを質問する時は、ほとんどが後者だった。
「阿久津はいるの? 今、会いたい友達」
 自分が話したくて質問をしたのがバレていると思ったのか、阿久津はすぐには頷かず、少し考えたふりを見せて、十分、間を持ってから「いる」と、案の定頷いた。
「誰」
「小学生の頃、学童で一緒だった子」
 学童と聞いて、この間阿久津から聞いた話を思い出す。
「前に話してた、満って子?」
「ううん。満じゃない」
「じゃぁ誰」
 回っていた帽子が止まる。話し出す前に、阿久津が息を吸うのがわかった。
「明日香って子」
 今までに阿久津の口から聞いたことがない名前だった。今通っている大学院の社会学部で同じ研究室で仲がいいメイちゃんでもなく、学部生の時、教職のクラスで仲良くなったアッコでもなく、高校で同じバスケ部だった、かおりんでもなかった。バイト先のスナックで一緒の女の子の名前かとも思ったが違った。それもそのはずで、ずっと会っていなくて、今また会いたい友達の話だった。
「コンビニ、寄っていい?」
 阿久津は斜め前のコンビニを指差す。蛍光灯の硬い光を放っているコンビニに阿久津は吸い込まれるように入っていく。俺も阿久津の後に続く。
 コンビニに入ると、阿久津は雑誌コーナーの前の雑貨の棚に真っ先に向かった。
「今日、生理になっちゃって」
 生理用ナプキンを下の段から取ると、阿久津はナプキンに薄っすら付いている埃を軽く払った。
「他、何かいる?」
 いや、と首を傾げた俺を一目見て、「アイス食べよっかな」と阿久津はアイスコーナーに向かった。
 何も買うものがなかった俺は踵を返し、コンビニの外に出て阿久津を待った。
「お待たせ」
 買ったナプキンをそのままトートバッグに入れながら、阿久津は俺に声を掛ける。
「アイスは?」
「やめた。今日寒いし」
 阿久津はトートバッグを肩に掛けた。さっきまで回していたニット帽を持っていないと思っていたら、阿久津はニット帽を被っている。硬い蛍光灯の光を背に、俺と阿久津はまた歩き出した。
「コンビニでナプキン買う時、茶色の紙袋に入れてもらうの気まずくない? 特に男の店員の時」
 寒そうに腕を組みながら阿久津は言う。俺は生理用ナプキンを買ったことがないので分からないが、コンビニでコンドームを何度か買ったことがあるので、何となく気まずいことは想像できた。
「紙袋に入れてもらうと時間かかるし、気まずいから、私いつもそのままもらってすぐカバンに入れちゃう」
 さっきの阿久津を見ていたら分かることを阿久津は説明する。
「エコでいいんじゃない?」
 俺の言葉に阿久津がこちらを向く。
「紙袋もらわないのって、エコなの?」
 阿久津も俺も、何がエコで、何がエコじゃないのか分かっていなかった。けれど、不要な物を必要以上にもらわないのはきっとエコだ。
 俺の家のアパートが見える。阿久津も俺も、アパートの前の少し傾斜が付いた道を下る。
「今日、生理だったこと忘れてたなぁ」
 それだけ言って、阿久津は星が見えない夜空に、赤く点滅しながら動く星を見つけて、「あ、飛行機」と夜空を指差した。


第二章へと続く

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