見出し画像

【小説】タイトルが思いつかなかった小説~第二章~

こちらの小説は、恋愛小説を書こうと思って書いた小説です。ぜひ、読んでいただけると嬉しいです。

先に【タイトルが思いつかなかった小説~第一章~】をお読みになってからこちらをお読みください。


第二章

 俺、耳に蝉飼ってたことあるんだ。一昨年の夏頃。そう、蝉。
休みの日、家にいたら蝉の鳴き声がやたら気になって、耳障りでうっとうしいなって思ったから、窓開けて扇風機回してたから、窓閉めてエアコンを付けたんだ。
 俺んちのエアコン古いから、スイッチ押してもなかなかすぐに動いてくれなくて、窓を閉め切った部屋ん中はしばらく暑いままだった。暑い部屋の中で、エアコンが本気出してくれるまでじっと待ってたんだけど、蝉の鳴き声は鳴り止まなかった。窓を閉めて、鍵まで閉めたから、蝉の鳴き声は聞こえてこないはずなのに。
そんで、エアコンがやっと本気出して風を送り始めて、部屋が涼しくなってきた頃、わかった。鳴り止まない蝉の音は、俺の耳の奥でずっと鳴り続けていたんだって。
その日の夜、寝る時も、次の日の朝、起きた時もずっと蝉は俺の耳の中で鳴り続けた。「うるせー」って怒鳴って両耳を塞いでも、蝉は鳴り止んではくれなかった。
蝉が耳に住み始めてからは、落ちていくのが早かった。通勤で電車に乗ってると、いきなり動悸がして、誰かに魔法をかけられて呼吸の仕方を奪われた人みたいに呼吸ができなくなった。
その頃、仕事で担当だったお客さんが八王子とか我孫子に会社があったから、電車に乗ってるとよく【魔法】にかかった。急行とか快速に乗って電車の窓から外を眺めてると、知らない町の知らない人ん家の屋根が目の前を通り過ぎていって、それがすごく怖かった。自分がどんどん知らない所へ連れ去られていくような恐怖だった。恐怖が押し寄せると、また動悸がして、さっきまで普通にできていた呼吸ができなくなった。でも、数分も経てば、さっきの恐怖や動悸が嘘みたいにスーッと無くなるんだ。本当、あの感覚は魔法そのものだった。
蝉が耳に住みついて、電車で魔法をかけられるようになってから、騙し騙しで会社には行ってたんだけど、多分、もう限界だったんだろうね。ある日、電源が切れたみたいに、朝ベッドから起き上がれなくなった。体に力が入らないんだ。風邪とかインフルエンザの時みたいな体のだるさとは違って、体がずっと強張ってて、緊張状態だった。ずっと体から自分の心臓の音が鳴り響いて、血が体を巡ってて、手や足から手汗、足汗がひどくて、耳にはずっと蝉が鳴き続けた。ベッドから起き上がれなくて、でも、だからって目をつぶってても眠れる訳でもなくて、自分の心臓の鼓動や蝉の声を聞いて、ベッドの中でうずくまりながら耳を塞いだ。あの時はもう、「うるせー」なんて怒鳴る気力もなかった。
近所のコンビニでさえ、行けなくなった。そう、今日の帰りに寄った、あのコンビニ。あの距離でさえ行くのが怖くなって、電車の中だけだった魔法が家にいてもかかるようになった。雨の日や曇りの日に、部屋の窓から外を見ると、突然、自分が得体の知れない何かに閉じ込められてしまったような恐怖や不安が押し寄せるんだ。自分は雨や雲に覆われてしまって、どんどん呼吸ができなくなっていくようで不安で、しょっちゅう魔法にかかるようになった。あの頃は、常にずっと息苦しかった。鼻と口に、ずっとガスマスクを付けられてるみたいだった。
今まで普通にできていたことが、今までみたいに普通にできなくなっていった。普通に仕事してたのに。普通に電車に乗れたのに。普通にコンビニに行けたのに。普通に呼吸できたのに。何もできなくなっていく自分が情けなかった。
当時、上司だった人がそういうのに理解がある人で、結局1か月近く休職したんだ。蝉や魔法の正体も知りたくて、病院にも行った。蝉が鳴り止まないのは、耳鳴りの一種だって言われた。魔法の正体も、聞いたことある、よくある病名だった。よくあるって聞こえは悪いかもしれないけど、俺が魔法だと思ってたものは、案外よく起きる発作らしかった。だから、俺、安心したんだ。俺だけがこんな大変なことになっちゃったのかな、ってずっと不安だったんだけど、ちゃんと魔法にも名前が付いてて、俺と同じ病名にかかった人が俺の他にもたくさんいるってことを知った。
蝉? 蝉は、夏が過ぎたら、自然といなくなった。半袖一枚じゃ寒いなって思い始めた頃、そういや、外で蝉の鳴き声が聞こえないな、って思ってたら、俺の耳の中の蝉も気付いたらみんな死んでた。もしかしたら、蝉だけは本当に俺の耳の中に住んでたのかもしれないね。

 そんなはずないけど、と大介は笑って、腕が痺れたのか、枕の上で頭の下敷きになっている左腕を抜いた。大介はいつも枕の上で、左腕を枕代わりにする。きっと、枕の高さが合ってないんだろうな、と思う。大介の誕生日を知らない。今度聞いたら、誕生日プレゼントに枕をあげようか。
今日、ラーメン屋からの帰り道、生理になったけどセックスはできるよ、と私が言うと、「俺、血がダメなんだ」と、大介は言った。いつも大介の家に行くと、寝る前にセックスをして、セックスの後にいわゆるピロートークってやつをしてから寝るので、今日、セックスはしていないけれど、セックスの後のピロートークだけが残った。
 今日のピロートークが、なぜ一昨年の夏に起こった、大介の耳の中で飼っていた蝉の話や、呼吸ができなくなる【魔法】にかかった話になったのかはわからない。なぜ、急に大介が自分のことを私に話したのか、受け取り方によっては、私に心を開いてくれたからとも解釈はできるけれど、人が何かを話す時にそれほど深い意味なんてないのかもしれない。それは、人間がそれほど理由付けて生きていないことと同じことだ。
「仕事復帰してからは、体調の方は大丈夫だったの?」
 過去の大介を心配するように聞くと、うん、と大介は頷いて、痺れが治った左腕をまた頭の下に入れた。
「体調はだいぶ良くなったけど、仕事戻ってからも何度か【魔法」にはかかったかな。呼吸ができなるのって、あれ、クセになると厄介なんだよね。だから、しばらくの間は、また魔法にかかったら嫌だなって思いながら過ごしてた……」
 大介が吸い込む息使いで、まだ話が続くことがわかって、相槌を入れず私は薄暗い天井を見つめる。
「一回、会社でさ、魔法にかかったことあってさ、7階の経理部に書類持って行った時に経理部のオフィスで呼吸ができなくなったんだよ。うちの経理に原田さんって40代くらいの女の人がいるんだけど、その人のデスクに向かってたら急に息苦しくなって、ちょっとハァハァしてたら、原田さんに「坂井戸くん若いのに、階段登っただけで息切れぇ?」って言われたんだ。「坂井戸くん、少し運動しなきゃダメだよぉ」って言われて、なんか、原田さんにそう言われて、俺、少しほっとしたんだよね。俺にとって魔法にかかった時に一番嫌なのは、みんなに心配されたり注目されることだったから、俺が魔法にかかっても傍から見たらちょっと息切れしてる程度にしか思われてないんだな、俺って案外、普通に見えてるんだな、大丈夫なんだなって思った。「はい、息切れしちゃいましたー」って笑って答えた時はもう魔法は解けて、普通の呼吸に戻ってた」
「その原田さんって人、結婚してる?」
「原田さん? 結婚……」
 多分してないと思う、と大介は少し考えるように答えた。
 なるほど、と私は少し間を持たせて言う。
大介の話し方からも、大介が経理の原田さんに対して全く興味が無いことはわかる。わかってはいるけれど、大介が魔法に囚われなくて済むようになったことよりも、同じ会社の原田さんの存在の方が私には気になった。
経理のおばさんは、きっと大介のことがお気に入りなんだろうなと思った。原田さんはきっと、書類を提出する大介の手や指を見て、「坂井戸くんの指キレー」とか言いそうな人だと憶測してしまう。
「……寝よっか」
 大介があくびをした。大介のあくびに釣られて、私もあくびをする。お互いが肩まで布団を被るように、大介が手と足を使って布団を直す。足元の方で布団の中に少し冷たい空気が入る。
「おやすみ」
「うん、おやすみ」
 癖なのか、大介は寝る時はいつも壁側に顔を向ける。左腕は頭の下にはなかった。
 私は目が慣れて見えた、薄暗い天井を見つめた。大介が魔法にかかった話の終わりが、最後原田さんが既婚者かどうかで終わるなんて、経理の原田さんは思いもしないだろう。
 今日はやけに物事を素直に考えられない。大介が珍しく自分の話をしてくれたのに、素直に距離が縮まったと考えることができなかった。原田さんのことを全く知らないのに、勝手に原田さんをイタイおばさんだと決めつけてしまう。自己嫌悪に陥る前に、お腹の辺りに違和感を覚える。今日はすべてを生理のせいにして、私はゆっくり目をつぶった。

 かおりんがLINEで送ってきた店は、海鮮系居酒屋だった。かおりんの会社の近くにあり、かおりんは何度か会社の人と行ったことがあるお店だった。店内に入ると、大きな水槽と、市場などでよく見かけるウニなどが入っている泡が出ている水槽がすぐ目に入った。
 店員に待ち合わせだと伝えると、ボックス席から手を振るかおりんを見つけた。
「まいまい、おつかれー。場所、すぐわかった?」
「うん。すぐわかった」
 かおりんの向かいに座ってから、コートを脱ぎながら私は答える。
 コートもらうよ、とかおりんが両手を差し出す。私のコートをハンガーに掛けながら、「まいまい、ビールでいい?」とかおりんは流れ作業を行う。
「全部、美味しそう」
 かおりんが頼んでくれたビールを待って、私はタッチパネルでメニューを眺めた。
「刺身の盛り合わせ、いいな。……サザエのつぼ焼きもあるんだ。あ、あじのなめろうもある」
「ここのお店、職場の人と何度か来たことあって、海鮮系、全部美味しかったよ」
「あ、でも、だし巻き卵も食べたい」
「食べな、食べな」
 かおりんは、私の前で「そんなに食べられないでしょ」とは言わない。食べることが正義のように「食べな」を二回続けて言う。
 結局、何度か来たことがあるかおりんが前に食べて美味しかった刺身の盛り合わせや他何品かと、私が食べたいと言っただし巻き卵を注文した。
「かおりんも、だし巻き卵食べてね」
 一人でだし巻き卵を食べ切る自信がなかったので私が言うと、かおりんは「食べる、食べる」と「食べる」を二回繰り返した。
「飯野くんと仲良くやってる?」
 注文した刺身の盛り合わせやだし巻き卵が全て揃うと、ビールは2杯目になって、話題はかおりんの彼氏の話になった。
「まぁまぁかな。仲良くさせて頂いています」
 アイドルや俳優たちがよくテレビで使う、何かをやっていることに対して「やらせていただいてます」みたいな、変な言い回しでかおりんは答えた。
かおりんには、高校の時から付き合ったり別れたりを繰り返している、彼氏の飯野くんがいる。かおりんと私は、同じ高校のバスケ部だった。かおりんの彼氏の飯野くんは、私たちと同じ高校のハンドボール部で、高校時代、かおりんと飯野くんは、高校一年生の終わりから高校卒業までずっと付き合っていた。高校を卒業し、かおりんは専門学校に、飯野くんは4年制の大学に進んだ。
「広い世界を見るのだ」
高校卒業後の春休み、飯野くんはいつもの公園にかおりんを呼び出すと、映画『GO』の窪塚洋介の名台詞を言って、突然かおりんに別れを告げた。
「晴の奴、春休み中『GO』を観て、私と別れたいと思ったんだって」
 飯野くんに振られた次の日、振られた理由を聞くと、かおりんは不貞腐れ顔で、目を腫らして教えてくれた。
「俺、もし高校入る前にGOを観てたら、絶対バスケ部に入ってたのに」
 飯野くんは、ハンドボールのスポーツ推薦で大学に進学したのに、高校三年間をハンドボールに捧げたことを悔やむように言ったという。飯野くんはバスケ部だったかおりんを羨んだ。かおりんもお兄ちゃんから借りたスラムダンクを読んで、中学からバスケを始めたので、それだけは飯野くんの気持ちがわかると言った。
かおりんは『GO』を観たことがないから、映画や漫画に影響を受けてバスケ部に憧れた飯野くんの気持ちがわかると言っているんだと私は思った。たしか『GO』でバスケのシーンはほとんどなく、私がバスケと聞いて『GO』で思い出せるのは、バスケの試合中、窪塚洋介がただただチームメイトに飛び蹴りをするシーンだけだった。もし、飯野くんが観た映画が『GO』ではなくて、『ピンポン』だったら飯野くんは卓球部に憧れるだけで、かおりんと別れなかったかもしれない。
 結局、飯野くんは大学に入学してから何人か他の女の子と付き合ったが、高校を卒業して二、三年経った高校の集まりでかおりんと再会し、二人はまたよりを戻した。
 飯野くんは、定期的に広い世界を見たくなる人らしく、一度復縁した後もかおりんと何度か別れた。そして、広い世界を見た後にまたかおりんと何度もよりを戻した。飯野くんと別れた初めの頃は、かおりんから「晴と別れた」と連絡が来ると、私もかおりんの相談に乗っていたけれど、何度目かの「晴と別れた」の時、私は、飯野くんはまた旅に出たのだと思うようにした。
 最近では、飯野くんは広い世界を見たがらなくなって、旅にも出なくなったと、かおりんはだし巻き卵に醤油が染み込んだ大根おろしを乗せながら言った。
「私と晴の話は、もういいよ」
 かおりんは、たっぷり乗せた大根おろしがこぼれないようにだし巻き卵を慎重に口に運んだ。
「まいまいの話しよ」
 かおりんは泡が抜けたビールでだし巻き卵を流し込む。
「半年前くらいに知り合って、一緒にご飯食べたり、家に行ったりする人はいるよ」
 私は、かおりんに簡単に大介のことを説明した。一人でご飯が食べられないから一緒にラーメン屋に行きませんか、と誘った人とラーメンを食べに行ったり、セックスをする。その人とのセックスの後のピロートークが楽しいと私は言った。
「セックスの後って賢者タイムだから、ピロートークなんて辛くないかね、その男」
 かおりんは、私にピロートークを無理に強いられているのではないかと大介を気遣うというよりは、かおりん自身がセックスの後のピロートークなんてごめん、というような言い方だった。
「晴なんて、終わったらすぐ寝るよ」
「それは、付き合ってるからじゃない?」
「その人とは、付き合ってないの?」
「付き合ってる恋人同士ならセックスの後はすぐ寝るもんだよ。でも、その人にとって私はまだお客さんだから、終わった後もその人はすぐ寝ないんじゃない?」
「それって、セフレってこと?」
「まぁ、そんなもん」
「変なの。セフレの方がお客さんなんて」
 かおりんが納得しない顔だったので、「いや、セフレでもすぐ寝る人はいると思うよ」と私は言葉を付け足す。
「恋人でもピロートークする人だってたくさんいるだろうし」
 注意書きのように私が言葉を補足すると、「確かに」と、かおりんは納得して、タッチパネルに手を伸ばし人差し指を弾ませた。
「そういや、この前、りなぴーに会ってきたよ」
 かおりんはタッチパネルで梅干しサワーを選びながら言う。
「りなちゃん、元気だった?」
「うん。元気そうだった。色々話してくれた」
 かおりんはタッチパネルに視線を向けたまま答える。ここにいない誰かの話を噂話のように話すことに少し抵抗があるのか、かおりんは目を合わせない。かおりんが私のジョッキを見て、私の分の飲み物を聞くので、私もかおりんと同じ梅干しサワーをお願いした。
 注文が完了し、タッチパネルを元の位置に戻すと、かおりんとやっと目が合った。
「りなぴー、うちらと連絡できなかった理由、話してくれた」
 かおりんは勿体付けて間を置きながら話す。そんなかおりんの勿体付けに加勢するかのように、注文した梅干しサワーがすぐ運ばれてくる。
 店員に空のジョッキを下げてもらい、かおりんはグラスの底にいる梅干しをマドラーで潰しながら話し出す。
「りなぴー、2年前に事故で彼氏亡くなったんだって」
 かおりんの梅干しサワーの梅干しは固いのかなかなかほぐれない。かおりんは、梅干しサワーはほぐした梅干しを食べながら飲むのが好きだった。飲み終わる頃、グラスの中の梅干しはいつもきれいに種だけになっている。
「バイク事故で即死だったって」
 かおりんがマドラーを動かす度、サワーの炭酸が抜けていく。私もかおりんを真似て、マドラーで梅干しを突く。
 りなちゃんには、沈黙の2年間があった。
 りなちゃんは、私たちと同じ高校の同級生だった。りなちゃんは、高校入学したすぐに私たちと同じバスケ部に入部した。けれど、高一の二学期の途中でバスケ部を辞めた。
 りなちゃんがバスケ部を辞めてから、私はあまりりなちゃんと話す機会がなくなった。帰り道が同じ方向のかおりんは、りなちゃんが部活を辞めた後もりなちゃんとは仲が良かった。バスケ部のメンバー同士で付けたあだ名の「りなぴー」を、りなちゃんがバスケ部を辞めてからもそう呼び続けているのはかおりんだけだった。
 高校を卒業して、私たちバスケ部のメンバーは、お酒が飲める年齢になってからも定期的に集まった。りなちゃんは途中でバスケ部を辞めたけれど、りなちゃんはかおりんと仲が良かったから、りなちゃんも時々バスケ部の集まりに参加していた。
 りなちゃんは、私たちのバスケ部のグループLINEから突然いなくなった。りなちゃんはバスケ部のグループLINEから姿を消しただけでなく、自身のLINE自体も消していた。LINEのトーク履歴を見ると、「メンバーがいません」と、りなちゃんはクマのブラウニーの姿になっていた。『西高女バス』グループLINEは、本当に西高のバスケ部のメンバーだけになった。
 りなちゃんと仲が良かったかおりんは、りなちゃんと連絡が取れなくなったことをすごく心配していたけれど、LINEを辞めたのはよっぽどの理由があるのだと私たちはかおりんを慰めた。大人になってからLINEを辞めるのは、高校生が部活を辞めるのとは訳が違う。
 りなちゃんと連絡が取れなくなった後も、私たちはバスケ部のメンバーで集まった。初めの方はりなちゃんの話題が上がったこともあったが、最近ではりなちゃんの名前を出すこともなくなった。
 それから、先月、1か月ほど前、りなちゃんから久しぶりに連絡が来たと、かおりんが私にLINEで教えてくれた。最初、バスケ部のメンバーで集まろうかと思ったけど、まずは私だけで会ってみると、かおりんのメッセージは続いていた。

「事故があった日のこととか、彼氏が亡くなってからどう過ごしてきたのかとか、一から全部話してくれた。看護の専門は事故の後、一回辞めちゃったらしいんだけど、今はまた専門に通い直してるみたい。結構、元気そうだった」
 かおりんと目が合う。よかったね、と私は相槌を打つ。
「事故のこととか、その時のりなぴーの気持ちとか聞いてたら、私、泣いちゃって」
 かおりんのグラスの中の梅干しは完全にほぐれた。底にいる梅干しをマドラーでかき混ぜると、梅干しの繊維がスノードームのようにゆっくり舞い上がる。舞い上がった梅干しの繊維を食べるようにかおりんは梅干しサワーを飲んだ。
「聞いてるこっちが辛くなってきちゃったから、事故のこと話してて辛かったら無理に話さなくていいよって私言ったんだよね。そしたらね、りなぴーがこう言ったんだよね。『かおりん、違うよ。乗り越えたから、私、今こうして話せるようになったんだよ』って言ったの。2年前はショック過ぎて誰にも話せなくて、みんなからも距離を取っちゃったけど、少しずつ心の整理がつくようなって、悲しみを乗り越えたから今こうして話せるんだって、りなぴーが言ってた」
 私の梅干しは全然ほぐれない。なんて言えばいいのか、わからない話の時、梅干しサワーは間を持たせる救世主だ。私はかおりんの話に頷きながら、底にいる梅干しを覗き、また梅干しを突く。かおりんはマドラーを抜いて、最後、梅干しサワーを飲み干した。
「まいまいにも会いたいって言ってたよ、りなぴー」
「うん。またみんなで集まろうよ」
 マドラーから手を離し、私はグラスにいる梅干しから視線を上げる。かおりんと目が合う。
 かおりんは口をもごもごさせると、梅干しの種を手の中に出した。空になったグラスの中へ種を戻す。溶けない氷の上に種が乗る。
「りなぴー、またグループLINEに招待しなきゃだね」
 かおりんの言葉に軽く頷いて、私は梅干しサワーを飲む。
「もうちょっと食べようかな」
 大根おろしだけ少し残っただし巻き卵が乗っていた皿を見て、私はタッチパネルに手を伸ばす。
「食べな、食べな」
 まだ食べようとする私をどこか嬉しそうにかおりんは言う。けれど、嬉しそうなのが気づかれないように、かおりんは空のグラスや皿を手際よくテーブルの端に片付ける。
「まいまい、最近はちゃんとご飯食べれてるんだ」
 かおりんが私を見ているのがわかる。コクンと、私はタッチパネルを操作しながら頷く。食べてるよ、と後からゆっくり言葉を続ける。
「一人はまだ無理?」
「そうねぇ……」
 悩むように私は返答する。かおりんの質問に考えているようで、何を頼もうかメニューに悩んでいるような、どっちとも取れる返答をする。
「……決めた! 海鮮御馳走丼にする」
「えー、ここにきて丼もの?」
 かおりんは眉毛を下げた。顔は嫌そうだけど、口では嫌とは言わない。
「かおりん、半分こしよ」
かおりんが、クシャっと笑う。いいけどぉ、と語尾も上がる。半分こと言っても、結局、私が食べられない分を最後はかおりんが食べてくれるのをわかっている。私は海鮮御馳走丼をタップして送信する。
「まいまい、梅干しサワーも頼んで」
 オッケーと言って、サワーのページに移動する。私は梅干しサワーをタップすると、梅干しを『ダブル』に変更して注文ボタンを押した。

 小三の時、私と同じクラスに塚田真由美ちゃんって女の子がいて、学童クラブも一緒だった子がいたの。その子の家もお母さんがいなくて、お父さんとおばあちゃんとお姉ちゃんの4人家族だった。真由美ちゃんは明日香と同じで学童の近くの団地で暮らしていて、何度か私も真由美ちゃんの家に遊びに行ったことがあった。
 私、1,2年生の時は違うクラスだったんだけど、小学3年生の時に真由美ちゃんと同じクラスになったの。一年生の時から学童で一緒だったから真由美ちゃんのことは知ってたんだけど、同じクラスになったのは小三が初めてだった。真由美ちゃんは、冬の時期、いつもアディダスのパチモンの服を着てて、肩から腕にかけて二本の赤いラインが入っている黒のパーカーを着てた。真由美ちゃん、毎日毎日、そのアディダス風のパーカーを着ててね、いつも体育の時間で体操服に着替える時になると、「うちの洗濯機、乾燥機付きなんだ」って大きな声で言いながら着替えるの。
 真由美ちゃんってね、嘘つきだったんだ。うちのお父さんは毎月100万円以上稼いでるからうちは金持ちなんだとか、うちにはハワイに別荘を持ってるとか、安室奈美恵が通ってたダンススクールに通ってるんだとか、とにかくいろんな嘘をつく子だった。証明はできないんだけど、真由美ちゃんを見てればそれが嘘だってことは小学生の私でもわかった。でも、私、真由美ちゃんが嘘をついていることを指摘できなかった。私、真由美ちゃんのことが怖かったんだよね。いつもクラスの中心にいて、授業中もよく発言してたし、私は授業中、手を挙げて発言するのも苦手だったし、真由美ちゃんみたいな子にいつも言いくるめられるタイプだったから。
 あとね、真由美ちゃんのおばあちゃんって、すごく怖かった人だったの。背が低くて、腰が少し曲がってて、絵本に出てくるような、「いじわるばあさん」って感じのおばあちゃんで、いつも外で真由美ちゃんを大声で叱るの。
 いつだったかな。春休みの時に、真由美ちゃんが住んでる団地の下でお祭りがあったんだよね。お花見大会みたいなお祭りが開かれてて、団地の下で焼きそばとかベビーカステラの屋台が並んでて。私もそのお祭りに行ったら、真由美ちゃんはおばあちゃんと来てて、お食事処のテーブルで真由美ちゃんはおばあちゃんと焼きそばを食べてた。私は、明日香と一緒にそのお祭りに行ったの。そしたら真由美ちゃんが私と明日香に気付いて、おばあちゃんと座ってるテーブルの席に私たちを呼んだの。私たちが行くと、真由美ちゃんのおばあちゃんが「二人の焼きそばも買ってきな」って言って、真由美ちゃんに千円を渡したの。屋台に向かう真由美ちゃんに、私と明日香は後を付いて行った。三人で焼きそばの屋台に並んで待ってるとね、真由美ちゃんが言うの。「うちのおばあちゃん、焼きそば買ってくれるんだよ」って。その口調は、先輩が後輩に飯奢ってやってるんだぞ、って威張ってるような、自慢しているような言い方だった。
 焼きそばを二つ買って、おばあちゃんがいる席に戻って、私たちは焼きそばを食べた。焼きそばを食べた後、私たち三人は近くの公園で遊んで、夕方になって帰ることにした。
 私たちが公園で遊んでる間、おばあちゃんはずっと、さっき私たちと焼きそばを食べた席に座ってた。遊び終わって、私たちもおばあちゃんがいる席に戻ると、真由美ちゃんのおばあちゃんがいきなり、「焼きそば買ってやったんだから」とか、「焼きそばはタダじゃないんだ」とか言い出したの。なんでそんなことを急に言い出したのか思い出せないんだけど、もしかしたら私たちが何か悪いことしたのかもしれないんだけど、いきなり文句みたいなことを言われて、私、すごく嫌な気持ちになった。最後、帰り際まで「焼きそばはタダじゃない」ってグチグチ言われて、あんまり言うもんだから、私、焼きそばをごちそうになったのが申し訳ない気持ちにさえなった。でも、家に帰ってから段々腹が立ってきたの。毎年うちのマンションが主催する夏祭りでね、真由美ちゃんと会った時うちのお母さんだって真由美ちゃんに焼きそばとかラムネとか買ってあげたんだよ。真由美ちゃんはお母さんが買ってくれた焼きそばを全部食べずに残して捨ててたのに。
 真由美ちゃんのおばあちゃんで思い出したんだけど、私、小学生の時、万引きをしたことがあるんだ。真由美ちゃんに「一緒に盗もう」って誘われて、真由美ちゃんからの誘いに断れなくて、私と明日香と真由美ちゃんの三人で学校の近くの文房具屋さんで万引きをしたの。真由美ちゃんがアディダスの偽物を着てたのを覚えてるから、多分三年生の冬だったと思う。「私何回もしたことあるけどバレないから大丈夫」って真由美ちゃんに言われて、私たち、『ねりけし』を盗んだの。匂い付きねりけしって流行ったでしょ。その匂い付きねりけしを盗んだの。でも、盗んだ次の日、一緒に盗んだ明日香が万引きした罪悪感に耐え切れなくなって、学童の先生に白状したの。「真由美ちゃんと麻衣と万引きをしました」って。次の日の学童でおやつの時間に、私と真由美ちゃんは学童の先生の部屋に呼ばれた。私、真由美ちゃんと先生に呼ばれた時、すぐに「バレた」って思った。おやつの時間なのに明日香がいないことに嫌な予感はしてたから。先生の部屋に入ると、泣いてる明日香を見て、あぁもう言い逃れできないって思って、犯人が捕まる瞬間の気持ちがわかった。血の気が引くって、こういうことを言うんだね。
 学童の先生が、私たちの保護者と学校の先生に連絡して、その日の夕方、学童が終わったらみんなで万引きした文房具屋さんに謝りに行くことになった。でも、学童の帰り際、「うちのおばあちゃんが連絡するまで親には言わないで」って真由美ちゃんに釘を刺されたの。真由美ちゃんは最後までごまかそうとしていたのがわかった。でも、それは無理だと私は思った。だって子どもの力だけでどうこうできる範疇を超えてたから。今までも、公園で遊ぶ時、私が持ってきたおやつを真由美ちゃんが持ってきたことにしてって言われて、真由美ちゃんが私からお菓子を奪ったことも黙ってたし、プールの時、真由美ちゃんはゴーグルを買ってもらえないから、私から借りたゴーグルを自分の物みたいに使って、プールが終わるとこっそり私に返してきたことも黙ってたけど、万引きがバレちゃって、大人が介入したらもう隠すことはできなかった。
 家に帰ると、学童から連絡を受けたお母さんが悲しそうな顔で私を迎えた。私は明日香みたいに泣けなかった。罪悪感でいっぱいだったけど、なんで私も明日香みたいに白状しなかったんだろうとか、なんで万引きなんてしちゃったんだろうとか、お母さんが悲しむ顔を見るのが悲しかったりとか、感情が定まらないと逆に泣くことができなかった。実は私も真由美ちゃんと同じで、家に帰ってお母さんが万引きのことを聞いてなかったらいいなって、バレずに済めばいいなって、心のどこかで期待していた。でも、そんなことはやっぱりなかった。
 お母さんが真由美ちゃんと明日香の家にも電話して、文房具屋さんへ謝りに行った。明日香のお母さんと、私のお母さんと、真由美ちゃんのおばあちゃんで文房具屋さんに盗んだねりけしの代金を払って、「ごめんなさい」って私たちも謝った。
 文房具屋さんにいる時から、文房具屋さん出てからもずっと真由美ちゃんのおばあちゃんは、「おばあちゃんの次は、お父さんだよ」って、繰り返し言って真由美ちゃんを叱った。私は、おばあちゃんが言ってる意味がわからなくて、でも私のお母さんが「塚田さん、暴力はダメですよ」って真由美ちゃんのおばあちゃんを諭すように言ってた。
 文房具屋さんからの帰り、「ごめんね」ってお母さんに謝られた。怒られるよりもお母さんに悲しそうに謝られたのがすごく心が痛かった。胸の中がグッと重くなって、足元がすくんで、夜の風が冷たく頬を叩いた。私の中の全部が痛かった。家に帰って、お父さんに何て言えばいいかわからなくて、本当に家に帰るのが嫌だった。でも、うちに帰ってきた私にお父さんがかけた言葉が今となっては思い出せないんだよね。逆に、2個上のお姉ちゃんが「麻衣、万引きしたの?」ってゲラゲラ笑ってて、私が万引きした文房具屋さんの娘さんがお姉ちゃんと同じ学年の子だったから、「マジ気まずいからやめてよー」って言いつつも、どっか他人事みたいに楽しそうだった。いつもはテレビのチャンネルを譲ってくれないお姉ちゃんだったけど、押しつぶされそうな罪悪感を笑い飛ばしてくれて、その時はすごく救われた気がした。
次の日、学校に真由美ちゃんが来ると、相変わらず真由美ちゃんは偽物のアディダスのパーカーだった。昨日のことなんて何でもなかったみたいに、真由美ちゃんは普通だった。私は昨日のことに触れようかどうしようか悩んでたんだけど、真由美ちゃんはいつも通りに見えた。昨日、おばあちゃんに強く叱られずに済んだんだと思って、ちょっとホッとして真由美ちゃんの顔を盗み見た。真由美ちゃんの目と顔はパンパンだった。泣きはらしたのか、目が重たい一重になってて、ほっぺもみみず腫れになって真っ赤だった。「おばあちゃんの後はお父さんだよ」の痕跡がしっかり残ってた。私は、真由美ちゃんの身に起きた、昨日の夜の「おばあちゃんの後はお父さんだよ」を想像した。初めて、真由美ちゃんを可哀想だと思った。私は真由美ちゃんが嫌いだった。嫌いで、嫌いで仕方なかったのに強く言われると言い返せなくて、いつも言いなりになってたけど、真由美ちゃんのみみず腫れの頬を見て、初めて可哀想な子だと思った。それ以降、真由美ちゃんに嫌なこと言われたり、真由美ちゃんにお気に入りのシャーペンを貸して、そのシャーペンを知らんぷりされてそのまま返してもらえなかったことも、文房具屋さんに謝りに行った次の日の真由美ちゃんの顔を思い出すと、怒りを抑えられた。体育の着替えの時も、乾燥機が付いてるんだ、って声が後ろから聞こえても、あの日の真由美ちゃんの顔を思い出した。真由美ちゃんちに遊びに行った時、脱衣所にある洗濯機が乾燥付きの物じゃなかったのを見たけど、私は真由美ちゃんのみみず腫れの頬を思い出した。
1月にね、学童に珍しい来客が来たの。前に学童で働いてた若い女の先生で、みんなから「マコ先生」って呼ばれてた人だった。真由美ちゃんはマコ先生のことがお気に入りだった。学童のみんなも久しぶりにマコ先生に会えて嬉しそうだった。
久々のマコ先生をね、取り囲むように子どもたちが駆け寄ると、マコ先生が「みんなは、お正月にもらったお年玉で何を買ったの?」って聞いたの。「俺、ゲーム!」とか「ポケカ!」って子どもたちが次々と自分が買った物を主張する中で、マコ先生の注意を引くように真由美ちゃんが何度もマコ先生の腕を「ねぇねぇねぇ」って強く引っ張って、「私がもらったお年玉の8千円とお姉ちゃんがもらった1万円、それとおばあちゃんの年金で、うち、新しい洗濯機買ったんだよ」って真由美ちゃんは言ったの。私は真由美ちゃんの顔を見た。「真由美ちゃんの家って、お金持ちなんじゃないの?」って嫌味を飲み込んで、私は真由美ちゃんが着ているパーカーを無意識に見てた。真由美ちゃんに嫌味を言う勇気なんて私には無くて、でも、せめて嫌味っぽいことをしてやりたくて、毎日着てる真由美ちゃんのパーカーをわざともう一度見た。真由美ちゃんのアディダス風のパーカーは、腕の赤い2本のラインのところに細かい毛玉が付いていた。私は、もう真由美ちゃんのみみず腫れの顔を思い出さなかった。
真由美ちゃんがお年玉で買った新しい洗濯機にも、乾燥機は付いてなかったと思うよ……。

 突然、急激な睡魔に襲われた。さっきまで大介に話しながら小学三年生の思い出が断片的に脳裏に浮かんでは消え、浮かんでは消えていったのに、今は見慣れた大介の家の天井が薄っすらぼやけて目の前に広がるだけだった。
話の続きをしようか、迷った。この話に続きがあるとするならば、私と真由美ちゃんは四年生に上がるとまたクラスは別になり、学童も三年生で卒業することになった。学童も卒業し、クラスも別になると、私と真由美ちゃんの交流は疎遠になっていった。その後、中学校に上がった真由美ちゃんは、絵に描いたような不良になった。中学生になると体格も成長し、真由美ちゃんと真由美ちゃんのおばあちゃんは力関係が逆転した。今度は真由美ちゃんがおばあちゃんに暴力を振るうようになった。 
 一度だけ、中学生の頃、明日香の家から帰る途中、明日香と同じ団地に住む、真由美ちゃん家の玄関の前で真由美ちゃんと真由美ちゃんのおばあちゃんを見たことがある。これから遊びに出かけようとする真由美ちゃんをおばあちゃんが止めている様子で、二人はもめていた。真由美ちゃんはおばあちゃんを蹴り飛ばし、「死ね、ババア」と吐き捨てて、駆け出して行った。私は見て見ぬふりをした。この話に続きがあるとすれば、これくらいだった。
大介は何も喋らない。寝てしまったのかと顔を見る。大介のまつ毛が瞬きで動く。大介は寝ていない。
「盗ったねりけしは、何の匂いのやつだったの?」
 大介は天井を見つめながら聞いた。
「……え? 気になるとこ、そこ?」
 責めるような言い方にならないように、気を付けた。語尾は少し笑ってみせた。
「大介って、味とか匂いとか、よく気になるよね」
 この前話した満の話の時も、大介は満が買ったインスタントラーメンの味を聞いた。
私は考えるように間を空けて「マスカット」と答えた。自分でもこんな昔のことよく覚えていたな、と自分自身に感心した。

 昨夜、かおりんと海鮮系居酒屋を出た後、2軒目に大衆居酒屋へ行った。大衆居酒屋の安い焼酎は酔いが回るのが早い。かおりんは「今日は華金だから」と、梅干しサワーをひたすら食べ、飲み続けた。
 日付が変わる20分前に駅の改札でかおりんと別れ、電車に揺られ帰った。揺れる頭で大介にLINEを送った。大介に会いたかった。けれど、私の気持ちとは真逆に大介のLINEはなかなか既読が付かなくて、もう寝てしまったのかと肩を落とした。酔った勢いとはいえ、「会いたいから今から家に行っていい?」のメッセージを明日まで取り残したくなかった。日付が変わって数分後、大介から「いいよ」と返信が来た。バンザイをするうさぎのスタンプを送った。
 大介の家に入ると、ベッドの中で今にも寝そうな大介が私を迎えた。
「酒くさ」
 ベッドの中で大介が笑いかける。「飲んでた」と、私は答える。
私は着ているコートや服を脱ぎ捨てた。冬の外の匂いと、タバコ臭さとアルコールの匂いがする。衣類が私から離れていくと、汚れが染み込んだ匂いが自分からするのがよくわかった。靴下を脱ぐと、足の裏がほんのり湿っている。下着だけになり、ベッドに上がる。掛布団を剥ぎ、ベッドに横たわる大介のスウェットのズボンを膝まで下げた。お風呂に入った、きれいな大介のペニスを握る。洗っていない私の手や体で、どんどん大介を汚していくようだった。
 大介のペニスを咥えると、大介の匂いがした。大介の匂いは、甘い柔軟剤の香りだった。いつも大介の家から自分の家に帰ってきて、大介から借りたヒートテックを脱ぐと、ヒートテッから大介の甘い匂いがした。私の家で嗅ぐ大介の匂いは、大介の存在をより際立てた。夜、一人ベッドで眠る時、洗わずに大介のヒートテックを握ったまま、大介がそこにいるかのように私は眠る。大介のヒートテックが、私の匂いに変わらないでほしかった。大介が隣にいないベッドでいつまでも大介の匂いに包まれていたかった。こんなこと、大介に話したことはないけれど。
 口からペニスを離す。大介のは十分硬くなって、私がいれようとするのがわかったのか、大介は膝に溜まったスウェットを足で脱ぐ。私も自分のパンツを脱ぎ、大介の上にまたがる。大介の口に舌を入れる。歯を磨いたばかりなのか、大介の口の中はひんやり冷たかった。私の息がタバコ臭い。歯を磨いた大介の口も、私は汚していく。
 大介の匂いを嗅ぎたくて、大介の口に自分の舌を絡ませたくて、そういう気持ちを一緒くたにさっき「会いたい」の一言に変えた。
「大介……気持ちいい……」
 私の下で大介が私を突く。大介の耳の後ろを嗅ぐように私は大介に顔を埋める。
「大介……」
 そう名前を何度も呼ぶだけで、その後に続く言葉を私は言えなかった。

 昨日、セックスの後、前に大介に話した学童で一緒だった明日香のことを話さそうと思ったのに、明日香や私を取り巻いた塚田真由美ちゃんの話が思ったよりも長くなってしまって、結局、昨日は明日香の話はできなかった。
 いつも通り、昼過ぎに目が覚めると、大介はまだ寝息を立てていた。昨日はメイクも落とさず、風呂にも入らず寝てしまった。ベッドから起き上がり、二日酔いの頭を熱いシャワーで流した。
 風呂から上がり、部屋に戻ると、大介も起きてベッドの中でスマホを見ていた。
「なんか食い行かない?」
 大介がスマホ越しに私に聞く。時刻は1時22分だった。
「髪、乾かすからちょっと待って」
 髪を乾かし、シャワーで汚れを流した綺麗な体に、昨日、かおりんと飲みに行った服をまた着る。先週買ったばかりの一軍の洋服だった。一軍の服に袖を通すと、もう冬の外の匂いはしなかったけれど、タバコとアルコールの匂いはまだ残っている。メイク道具は普段持ち歩かないので、一軍の服にノーメイクで外へ出る。気合いが入っているのか、入ってないんだかよくわからない装いになった。
「いつものとこ行こう」
 二日酔いなので、大介とよく行くラーメン屋のしょうゆスープが飲みたかった。
「ラーメンでいいの?」大介が聞く。ドアを閉め、鍵をする。
「ラーメンがいいの」
 いつものラーメン屋へ私たちは向かう。
 ラーメン屋に入ると店内は混んでいた。今日は、すぐに通せる席がカウンターしか空いていないと、店員に申し訳なさそうに言われた。
「カウンターでいいよね?」大介が振り向く。私はコクンと頷いた。
 私たちは隣同士でカウンターの席に座り、私はいつものしょうゆラーメンに決めた。大介はメニューに少し悩んで、結局、私と同じ、いつものしょうゆラーメンを注文した。
 カウンターの席に座っていたこともあって、私たちは食事を終えるとすぐに店を出た。
「今日、俺、この後用事あって、このまま駅行くわ」
 ラーメン屋の前で大介が言った。
「あ、了解」私はスマホで時間を見る。
「私も今日、これから町田に行かなきゃいけないかもしれなくて、一旦家帰る」
「町田?」
「そう。課題の話し合いで、レポートの締め切りが近いから。研究室一緒の子が町田らへんなんだよね」
「二日酔いで大変だ」大介は茶化すように笑った。
「さっきラーメン食べたら治った」治ってないけれど、私は言う。
 じゃぁ課題、がんばって、と大介は右手を挙げて、駅に向かった。大介の後ろ姿を2秒見送ってから、私は大介に背を向けた。
 バッグからワイヤレスイヤホンを取り出し、耳にはめる。コートのポケットからスマホを取り出し、iTunesから『カネコアヤノ』を選ぶ。ギターの音色が流れ出す。音が少し小さい。音量を2上げる。スマホをコートのポケットにしまい、私は歩き出した。
 真っ青な晴れた午後だった。冬なのに風が穏やかだ。こんな気持ちのいい晴れの日なのに、何も予定がないのが勿体ない。ドラムのリズムに合わせ、コートのポケットにしまった左手を揺らす。右ポケットにはスマホが入っているから右手はポケットに入れられない。バンドメロディーと、カネコアヤノの伸びた声が耳に流れてくる。
 音楽は良い。音楽はただ聴いているだけなのに、いつも見ている、見慣れた景色をミュージックビデオのように映し出してくれるから。音楽を聴きながら歩くと、自分がまるでミュージックビデオに出てくる主人公のように思えた。二日酔いの憂鬱な帰り道をも、音楽はミュージックビデオに変えてくれる。
~♪ いいんだよ 分からないまま 曖昧な愛
家々の窓にはそれぞれが迷い シャツの襟は立ったまま~♪
 カネコアヤノの伸びる声が心地よくて、私は小さく口ずさむ。小さく口ずさんでいるつもりだったが、すれ違う人がチラっと私を見るので、普通に歌っていたことに気付かされた。
 カネコアヤノの『タオルケットは穏やかな』の歌詞を考えてみたけれど、聴き手によって解釈が異なりそうな歌詞だった。少しでも人よりすごい人だと思われたくて、少しでも他の人よりおもしろい人だと思われたくて、自分は特別な者なのだと、私は頭を捻って歌詞の意味を考える。
 大介は、この歌詞をどう解釈するんだろう。聞いてみたかった。大介はきっと、普通で、ありきたりな解釈をするんだろう。けれど、その普通でありきたりな解釈には、きっと優しさも含まれている。
 大介がどんな音楽を聴くのかを知らない。カラオケに一緒に行ったこともないし、誰かのライブに行ったこともない。大介は家で音楽を聴かなかった。もしかしたら、一人でいる時は聴いているのかもしれないけれど、私が知っている大介は音楽を聴かない。
 大介のことが知りたかった。
 どんな音楽を聴くのか。『タオルケットは穏やかな』を聴いて、どんなことを思うのか。今日、大介はこれから誰に会うのか。セックスはするのに、私は、大介のことを知らない。
 こんな晴れた日なのに何も予定がない。なのに、予定がある人の前では、予定があるふりをする。大介の中では、私は今日これから町田に行くことになっている。さっき、とっさに「町田」が口から出たのは、昨日かおりんと映画『町田くんの世界』の話をしたからだと思い出した。
~♪いいんだよ 分からないまま 曖昧な愛
家々の窓にはそれぞれが迷い シャツの襟は立ったまま~♪
 二回目のサビを口ずさむ。今度は本当に小さく口ずさむ。
 音楽はいい。音楽を聴いていると、知らない誰かの家で干されている、見覚えのない洋服をも何か意味があるように映し出してくれるから。知らない家のベランダを眺める。映し出す全て、ひとつ、ひとつに物語がある。
「帰ったら洗濯でもするか」そう思っていたら、曲は終わり、イヤホンは黙った。

第三章へと続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?