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【小説】たっちゃん

こちらの小説は、地域の文学賞に応募した作品ですが選外になったものです。結果は残念でしたが、たくさんの人に読んでいただけたらと思います。



たっちゃんの右腕は、Tシャツを着ると見えなかった。反対の左腕はTシャツを着ると袖から少し見えて、Tシャツの袖から少し見える左腕には二本の指がついていた。だからたっちゃんはじゃんけんをする時、「グー」は右腕、「チョキ」は左腕を出して、「パー」を出す時は口で「パー」と言った。それがたっちゃんのじゃんけんだった。
 時計の長針が十の数字に重なる。給食の時間が終わりに近づく。

苦手な温野菜を丸飲みするように食べ済ませると、四年二組の生徒の松村紗奈は念願のデザートのメロンに手を伸ばした。

「フォークだと食べづらいんだよねぇ」

学校の給食で出てくるメロンは、家でお母さんが切り込みを入れてくれるメロンとは違ってメロンの実と皮の間に切り込みが入っていない。

沙奈は独り言のように呟くと、渋々といったように素手でそのままメロンに食らい付いた。溢れるメロンの果汁は、沙奈の右肘まで一直線に伝った。

連日雨が続く、梅雨の時期。じめじめする四年二組の教室は、雨の湿気に加えて、生徒たちのお喋りと食べ物の熱気が混ざり合っていた。

担任の小坂先生は後ろの時計をちらりと確認すると、いつものように配膳台の前に立った。

「今日のおかわりは、メロンが二つ。ほしい人いますかー?」
 配膳台に並ぶ給食の残りを確認すると、小坂先生が右手を上げてクラスのみんなに呼びかけた。

小坂先生の声はよく通る。

小坂先生の声が教室中に響き渡ると、騒がしいお喋りは一瞬、シンと静まり返った。
「はい、はい、はい!」
 教室の所々で生徒たちの手が上がり、さっきの騒がしさがすぐに教室に戻る。

給食の配膳台の周りを囲むように数人の生徒がすぐに群がった。
 配膳台に群がる生徒たちに気付き、沙奈はメロンを食べるのを一旦中断した。ポケットから取り出したティッシュで右肘のメロンの汁を拭いながら沙奈も急いで配膳台へと向かう。

配膳台に群がる生徒の中にたっちゃんはいた。
「メロン欲しい人は、もういない? じゃんけん始まるよー」
 小坂先生はもう一度クラスに呼びかける。
「今日休んだ本多くんと松本さんの分のメロンか」
「みんなでじゃんけんしよう」
 余った二つのメロンを巡って、生徒六人で恒例のじゃんけん大会が始まった。
「最初は、グー。じゃんけん、ぽん」
 六人の声が重なる。

一つ目のメロンは、学級員長の吉田さんの一人勝ちだった。自慢げにメロンを持って席に戻る吉田さんを横目に残りの五人でじゃんけんが続く。

「最初はグ、じゃんけんぽん」

じゃんけんに負けた生徒が続々と自分の席に戻っていく。

五人から三人。三人から二人。最後の二人に残ったのは、沙奈とたっちゃんだった。

私たちは最後のじゃんけんをした。
「最初は、グ」
 リズミカルな掛け声に合わせ、たっちゃんはTシャツで隠れたほうの右腕の「グー」を身体ごと出す。
「じゃんけんぽん」
 たっちゃんの左腕の「チョキ」と、沙奈の右手の「チョキ」であいこになった。
「あいこで……」
「しょ」まで言い終わらないうちに、たっちゃんは「パー」の形で口を構えた。たっちゃんの開いた口元を見て、「パー」を出されると思い沙奈はとっさにまた「チョキ」を出した。
「っしょ!」

 たっちゃんが出したのは、「パー」ではなく右腕の「グー」だった。

たっちゃんのじゃんけんは、フェイントが使えた。

「あいこで」の掛け声の間に口を開き「パー」を出すと見せかけて、「しょ」のタイミングで右腕の「グー」を出す。後出しじゃんけんとはちょっと違う。フェイントのじゃんけんができるのは、たっちゃんだけなのだ。

じゃんけんはたっちゃんが勝った。沙奈は負けた右手のチョキを下した。

たっちゃんは、じゃんけんで勝ったメロンを皿に入れ、左肩と顎を使って器用に皿を支えながらメロンを運んで席に戻った。

沙奈も席に戻った。さっきメロンの果汁でべとついた右肘が急に気になり出し、沙奈はそっと左手で右肘を擦った。

机とお腹の間に隙間ができないように深く椅子を詰めて座ると、沙奈はさっき食べかけだった歯形が付いたメロンを再び手に取った。

メロンの汁が肘まで垂れないように、今度は慎重にメロンに食らい付いた。

 同じクラスのたっちゃんは、よく笑う小柄な男の子だった。

たっちゃんには両腕がなかった。ただ、たっちゃんには両腕がなかったけれど、たっちゃんとじゃんけんはできた。

たっちゃんがTシャツで隠れているほうの右腕を出せば「グー」、反対のTシャツから少し見える二本の指がついた左腕を出せば「チョキ」、口で「パー」と言ったら「パー」。じゃんけんをするには、それだけで十分だった。

いつもTシャツで隠れて見えない、たっちゃんの右腕を、沙奈は触ったこともなければTシャツを捲ってまで確認したこともなかったけれど、じゃんけんで「グー」と出されるたっちゃんの右腕は、沙奈が手を握る「グー」と同じ意味だった。

でもだからと言って、Tシャツの袖から少し見える、左腕に付いているたった二本の指がじゃんけんの「チョキ」のために付いている訳ではなかった。

「あの子、生まれつき両腕がないんだって」

初めてたっちゃんのことを見かけたのは、小学三年生に上がって2週間が経った頃だった。

三年生で同じクラスになって仲良くなった加代ちゃんと一緒に下校していると、私たちの斜め前を歩くたっちゃんが視界に入り、加代ちゃんが小さい声で教えてくれた。

加代ちゃんとたっちゃんには三つ上に兄弟がいて、加代ちゃんのお姉ちゃんとたっちゃんのお兄ちゃんは同級生だった。

加代ちゃんは前々からお姉ちゃんからたっちゃんのことを聞いていたらしく、加代ちゃんは沙奈よりも先に、最近転校してきたたっちゃんについて詳しかった。
 加代ちゃんから「生まれつき」という言葉を聞いて、沙奈は弟の肘に付いている模様を思い浮かべた。

沙奈には四つ下に弟がいた。

弟の智くんの肘には生まれつきひょうたんみたいな茶色い模様のシミがあった。
「智くんの肘に付いている茶色いひょうたんみたいなの、これ、なーに?」
 沙奈がまだ五歳くらいだった頃、お風呂で弟の智くんの茶色いシミを見つけた時にママに尋ねた。
「智くんに生まれつき付いているものだよ」
「うまれつきって、なぁに?」
「生まれつきは、生まれた時から付いていること。赤ちゃんの頃から付いていることだよ」
 ママはそう説明した。
 たっちゃん本人が自分の両腕のことを話す時、「生まれつき」という言葉を使ったのかはわからないけれど、沙奈の周りの友達や大人たちはたっちゃんのことを話す時、みんな「たっちゃんは生まれつき両腕がない子」と言った。

「生まれつき両腕がない」という情報は、まるで伝言ゲームかのように人から人へと伝わっていった。そして、伝言ゲームの終わりはいつも、「たっちゃんって可哀想な子だよね」で締めくくられた。

沙奈は、どうしてたっちゃんには両腕がないのか、たっちゃん本人に直接聞いてみたかった。もちろん、生まれつき両腕がないことを知っているのに興味本位や意地悪をしたくて聞きたかったのではない。

ただ、たっちゃん本人から何も聞いていないのに、たっちゃん不在のこの伝言ゲームに沙奈は参加できなかった。

「ねぇ、たっちゃん。どうしてたっちゃんは両腕がないの?」

 秋晴れのおかげで薄手のトレーナー一枚でも十分な、四年生の二学期の昼休みのことだった。沙奈は四年生になって、初めてたっちゃんと同じクラスになった。

その日、仲良しの加代ちゃんたちから昼休みはドロケイをしようと誘われたけれど、給食の牛乳を急いで飲んだせいで、お腹が痛くなった沙奈は加代ちゃんたちからの誘いを断り、北トイレへ向かった。

音楽室に近い北トイレは、音楽の授業以外に生徒が使うことがほとんどなく、いつも薄暗い北トイレにはお化けが出るという噂もあってか、みんな近寄りたがらなかった。

 北トイレから戻ると、昼休みの四年二組の教室には数人の生徒しか残っていなかった。

今日はほとんどの生徒が校庭に遊びに出ている。

昼休みはいつも教室に残っている松本さんのグループも今日は珍しく外遊びに出ていた。

窓の外からは、聞き取れない生徒たちの交り合う声が聞こえる。

たっちゃんは自分の席で本を読んでいた。

沙奈はたっちゃんの隣の自分の席に着くと、隣で本を読む、たっちゃんを一目見た。たっちゃんは左腕の二本の指で本のページを捲る。
「ねぇ、たっちゃん。……どうしてたっちゃんには腕がないの?」
 たっちゃんは読んでいた本からパッと視線を上げ、沙奈の方に顔を向けた。

真っ直ぐにたっちゃんは沙奈の目を見据えた。たっちゃんと目が合った瞬間、いつも賑やかな教室がやけに静かに感じられたのは、今日の昼休みに教室に残っている生徒がいつもより少ないからではない。

校庭で遊ぶ生徒たちの笑い声が遠ざかっていく。

 たっちゃんは沙奈から視線を外すと、視線に合わせるように顔を前に向け、読んでいた本を静かに閉じた。

この一連の所作はやけにゆっくりで、考える間を持たせているかのようだった。そして、たっちゃんはゆっくり息を吸った。
「ママのお腹の中に、ボクの腕を置いてきちゃったんだって」
 沙奈の質問にたっちゃんは少し気まずそうに頬を緩めた。

「ごめん」と、思わず謝ってしまいそうになった。けれど、沙奈がごめんと謝ってしまったら、たっちゃんに両腕がないことが悪いことみたいになりそうだから謝らなかった。

「……ふうん」

沙奈は謝る代わりに納得しているふりを見せ、何度か頷いた。
 何度目かの「ふうん」で、沙奈は五時間目の授業の算数のノートを机の引き出しから取り出した。

気まずい間を埋めるように、取り出したノートを開いて今日の日付を書く。

胸の鼓動が自分の耳まではっきり聞こえる。この鼓動の理由はわからない。わからないけれど、鼓動はずっと鳴り止まなかった。

もしかすると、沙奈はたっちゃんに両腕のことを聞いてしまったらたっちゃんに気まずい顔をさせてしまうことを頭のどこかで覚悟していたような気もした。たっちゃんが実際に見せた気まずそうな顔を見て、やっぱり聞かなきゃよかったと後悔した。

たっちゃんに腕のことを聞くのは、沙奈自身がただスッキリしたかっただけかもしれない。でもやっぱり、誰かから聞いた『伝言ゲーム』だけでたっちゃんのことを済ませる気にどうしてもなれなかった。

定まらない感情が沙奈の胸を巡る。

日付を書き終え、沙奈は鉛筆を置いてノートから顔を上げた。

「なら、たっちゃんの腕は、まだママのお腹の中にあるの?」
 たっちゃんのママのお腹の中でプカプカと浮かぶ、たっちゃんの両腕を想像して沙奈は聞いた。すると、たっちゃんは口を大きく開けて声を出して笑った。
「そんな訳ないでしょ」
 たっちゃんは、じゃんけんで「パー」を出す時よりも大きな口を開けて笑って言った。

「……だよね」
 思わず沙奈もつられるように笑った。
 チャイムが鳴る。昼休みの終わりを告げるチャイムだった。

生徒の足音が教室に近づいてくる。近づいてくる足音は、私たちのおしゃべりの終了の合図で、騒がしい足音が沙奈とたっちゃんを打ち消していく。

たっちゃんは両足で読んでいた本を机の引き出しにしまい、算数の教科書とノートを取り出した。
「セーフ!」
 汗臭さと校庭の砂埃を身にまとい、外遊びから戻ってきた林田くんや他の男子数人が駆け足で教室に入り込んだ。

林田くんは足早に沙奈の机の前を通り過ぎていく。まだゼイゼイ息が上がっている林田くんの生暖かい吐息が沙奈の肌に伝わる。

林田くんが沙奈の机を曲がると、沙奈の机の左角に手を付き、林田くんの指先の跡が机に残る。けれど五本の指紋はすぐに小さく消えて無くなった。

消えていく五つの跡を見つめながら、沙奈はたっちゃんとの会話を胸の奥で反芻する。

たっちゃんの腕がまだママのお腹にあるのかと聞いた沙奈の問いには、たっちゃんの腕がまだママのお腹にあってほしい、沙奈の願望が含まれていた。けれど、たっちゃんの腕がまだママのお腹にあるかもしれないなんて、たっちゃんにとっては「そんな訳がない」ことだった。

今の沙奈のように、まだママのお腹に自分の腕があるかもしれないと信じていた頃がたっちゃんにもあったかもしれない。

でも今は、たっちゃんは「そんな訳がない現実」を沙奈よりももっとずっとわかっているのだ。

「そんな訳、ないのか……」
 独り言のように沙奈は呟く。

昼休みの後の教室は安心するほど騒がしい。たっちゃんには沙奈の独り言は聞こえていなかった。

昼休みは終わったが小坂先生が教室に来るまではクラスはずっと騒がしい。沙奈は定まらない気持ちを教室の騒がしさで紛らわそうとした。

 

 

 たっちゃんと沙奈が仲良くなったのは、二学期の席替えでたっちゃんと隣の席になったことがきっかけだった。
「今日の五時間目のホームルームは、席替えをします」

夏休み明けの二学期が始まって十日程経った頃、そろそろ席替えがあるのではないかとクラスのみんなが話題にしている時期だった。
「席替え、よっしゃー!」
「シィー」
 席替えと聞いて立ち上がる男子生徒に向かって、すぐに小坂先生は人差し指を口の前に当てた。

先生はくるりと背を向けると黒板に座席表を書いてチョークを鳴らした。

座席表を書いている途中で「そうだ」と言って振り返ると、先生は学級員長の吉田さんに席替えのくじ引きを作るよう、頼んだ。

 吉田さんは自分の自由帳を数枚破くと、手際よく破いたノートを細かくハサミで切っていった。手のひらサイズに小さく切られた紙に、吉田さんは順番に座席の数字を書き込んでいく。

「小坂先生。前回と同じで十一番は抜きでいいですか?」
 吉田さんは作業の途中で立ち上がり、黒板の前にいる小坂先生に駆け寄ると、小さな声で確認する。

「うーんと。……そうだったね」

吉田さんに聞かれた小坂先生は、一瞬思い出すように顔を上げた。
 窓側の席に座る沙奈は、くじ引きが出来上がるまでの間、開いている窓の外の蝉の鳴き声に耳を澄ませた。

普段は気にならないのに一度蝉の鳴き声に意識を向けると、どんどん鳴き声が大きく聞こえてくるような感覚になる。教室のお喋りや笑い声を打ち消すかのように、蝉の鳴き声はだんだんうるさくなって迫ってくる。

九月になっても蝉は鳴り止む気配がない。

「俺、十九番だ。よっしゃー! 一番後ろ」

くじ引きが始まり、クラス全員がくじを引き終わるのを待たず、林田くんたちの男子グループは勝手に盛り上がり始めた。
「くじの交換はしないこと。座席を確認した人から移動始め」
 クラス全員がくじを引き終えると、教室はまたさらに騒がしくなった。騒がしい教室に小坂先生のよく通る声が重なる。

沙奈がくじ引きの紙を開けると吉田さんの丸文字で【十二】と数字が書かれていた。

黒板に書かれた座席表を確認すると【十二番】の席は、真ん中の列の一番前の席だった。

窓側の席の後ろから二番目に座っていた沙奈は荷物をまとめて移動した。
「松村さん、よろしく」
【十二番】の席に移動すると、右隣にたっちゃんが座っていた。

たっちゃんは人懐こい笑顔で沙奈に挨拶した。
「うん。よろしく」
 沙奈もたっちゃんにつられて少し笑って挨拶した。

「たっちゃんの席は、変わらないんだね」

 黒板が急に近くなって、同じ教室なのに別の場所にいるかのような感覚になった沙奈が周りをキョロキョロしていると、たっちゃんは「うん」と頷いた。
 たっちゃんはクラスで席替えがあっても席替えのくじ引きには参加しなかった。

たっちゃんの席は教室の真ん中の列の二号車の一番前の【十一番】と決まっていた。

たっちゃんの席が決まっていたのは、たっちゃんは足を使うことが多かったからだ。

たっちゃんは字を書く時、床にプリントやノートを置き、右足の親指と人差し指の間に鉛筆を挟んで足を使って字を書いた。

床で字を書くには足を少し伸ばすため、たっちゃんはいつも机を少し前に出した。そして教科書を読む時は机を元の位置に戻した。

たっちゃんが授業中、机を前に出したり戻したりするには入り口のドアに近い廊下側の一号車の席よりも、先生の机が近くにある窓側の三号車の席よりも、真ん中の列の二号車の一番前の席がたっちゃんには適していた。
「たっちゃん、字書くの上手だね」
 席替えが終わり、そのまま帰りの会で連絡帳を書いていると、今日の宿題を書き込んでいるたっちゃんの右足を沙奈は覗き込んだ。
「そんなことないよ。普通だよ」
 たっちゃんは、黒板と足元の連絡帳を行ったり来たり視線を向けたまま、口元だけ笑った。

 

「紗奈、何してるの?」
 背中の後ろで腕を組んで、右足の親指と人差し指の間に鉛筆を挟み、【まつむらさな】と自分の名前をノートに書こうとする沙奈を見て、お母さんは聞いた。
「たっちゃんの気持ちタイムだよ」
「たっちゃんの気持ちタイム? 何、それ?」
「両手を使わないで字を書いたり遊んだりして、たっちゃんの気持ちを知るタイムのこと」
「へぇ」
「たっちゃんって、すごいんだよ。足で字が書けるんだから」
 今日、学活の時間に席替えがあり、たっちゃんの隣の席になったことを沙奈は説明した。
「たっちゃんね、足でスラスラスラ〜って、連絡帳書いてたんだから」
「だって、たっちゃんにとって足は手の代わりだもんね」
 そう言って、お母さんは夕飯を作りにキッチンへ入っていった。
「さーちゃん、一緒に遊ぼう」
 弟の智くんがアイスクリームショップのおもちゃを持ってきた。
「いいよー」
 年長の智くんはソファーの横で床に座ると、おもちゃが入った箱を真っ逆さまにひっくり返してアイスクリームのおもちゃを広げた。プラスチックがぶつかる音が響く。

沙奈は背中の後ろで腕を組んだまま、足でノートを閉じた。

「私が店員さんで、智くんがお客さんね」

そう言って、たっちゃんの気持ちタイムのまま、沙奈は智くんとアイスクリーム屋さんごっこを始めた。

「チョコレートアイスください」

お客さん役の智くんから注文が入った。
「はい。かしこまりました。……智くん、ここにアイスを置いて」
 沙奈は智くんに肩を差し出し、自分の肩にアイスクリームを置いてもらうよう指示した。

沙奈は置いてもらったアイスクリームを肩と顎を使ってカップに入れようとした。けれど、アイスクリームはうまくカップに入らず床に落ちた。プラスチックのアイスクリームがカンカンカンと音を立て床で弾いた。
「智くん、もう一回肩に乗せて」
 床に落ちたアイスクリームを両足で挟んで智くんに渡そうとした時、足の隙間からアイスクリームがするりと落ちた。

沙奈はとっさに床に手を付いた。
「もう」
 たっちゃんの気持ちタイムは遊びづらかった。たっちゃんの気持ちタイムではアイスクリーム屋さんごっこは続かない。

沙奈は床に落ちたアイスクリームを手で拾うと、そのままカップに入れた。
「お待たせしました。チョコレートアイスでーす」
 お客さん役の智くんにアイスクリームを差し出した。智くんにアイスクリームを差し出したと同時に、たっちゃんの気持ちタイムは終わった。
「次、智くんがお客さんやって」
「えー、やだ。ボクずっとお客さんやってるもん」
 しばらくすると、お母さんがキッチンから戻ってきた。
「紗奈、たっちゃんの気持ちタイムは? 終わったの?」
 両手を使っている沙奈にお母さんは聞く。
「やめたー。だって全然できないんだもん」
 沙奈はお母さんに背を向けたまま、そう答えた。
「でもたっちゃんは、紗奈みたいに途中で「やーめた」ってできないんだよね」
 お母さんはテレビに顔を向けたままそう言うと、またキッチンへ戻っていった。
「次、お買い物ごっこしよう」
「うん、いいよ」
 智くんはおもちゃのお買い物カートを持ってきて、さっきアイスクリーム屋さんごっこで使ったアイスクリームをカゴの中に入れ始めた。カゴの中でアイスクリームがカランカランと音が鳴る。
 アイスクリームのおもちゃがカランと音を立てるのを見つめながら、沙奈はさっきお母さんが言ったことが何となく心の中で引っかかった。

きっと、お母さんは大切な何かを言っているのだと感覚的にわかった。けれどその大切なことが何なのかと聞かれても、うまく説明はできない。

小学四年生の沙奈は誰かに何か大切なことを言われても、それが大切な事柄だと感覚的に分かることはできても、なぜそれが大切なのかをうまく説明する術を持ち合わせていなかった。

沙奈にとって足は字を書くためのものではなかった。

たっちゃんにとって足は字を書くためのものだった。たっちゃんにとって足はアイスクリーム屋さんごっこをするためのものでもあった。

小学四年生の沙奈に今言えることは、ただこれだけだった。ただ、今はまだうまく言葉にできなくても、お母さんに言われた「大切なこと」を言葉で表現できるときまで覚えていたいと沙奈は思った。

「さーちゃん、夕飯までに宿題終わらせちゃいなよぉ」
 お母さんは思い出したようにキッチンから沙奈に呼びかける。
「……はぁい」
 沙奈は小さい声で返事をする。

宿題と聞いて、今日の宿題が苦手な計算ドリルだったことを思い出した。

沙奈はランドセルから計算ドリルとノートを取り出し、リビングのテーブルに置く。

ドリルを広げる前に小さくため息を吐いた。
 

 ※


 沙奈はあまり勉強ができなかった。

特に算数が苦手だった。簡単な計算式もパッと反射的に暗算ができなかった。

沙奈は小学四年生になっても周りに気付かれないように、授業中、時折指を使って計算をした。

学年が上がるにつれ、手の指の十本だけでは足りないことが多くなり、沙奈の算数への苦手意識はますます増えていった。

たっちゃんには左腕の二本しか指がなかった。

席替えしたばかりの頃、たっちゃんの左腕の二本の指を見て、たっちゃんは指で数えながら計算できないので沙奈はたっちゃんを少し気の毒に思った。

席替えをしてしばらく経った頃、沙奈はたっちゃんが算数のテストで九十点以上を取ったのを見て、たっちゃんは沙奈が心配ないくらい、頭が賢い子なのだと知った。


「廊下側の席と窓側の席の人は机を壁にくっ付けて、それ以外の人は隣の人と間隔が空くように机を移動してください」
 小坂先生が持っているテスト用紙を見て、今日の五時間目の算数がテストだったことを沙奈は思い出した。沙奈はいつにも増して憂鬱な気持ちで小坂先生の顔を見上げる。

先生からテスト前の説明が終わると、一斉に机と椅子が引きずられる音が教室に響いた。

机や椅子の振動を響かせながら教室のあちらこちらでテストへの不満が漏れていく。
 沙奈はくっ付いていた、たっちゃんの机から離れ、左隣の席の矢野くんとも近くなりすぎないように調節し、間隔を空け、机をずらした。

机の響く音が止むと小坂先生はお札を数えるみたいにテスト用紙をくねくね柔らかく曲げ、廊下側の一号車の列から五枚ずつテスト用紙を配っていった。沙奈の前に先生が来ると、先生は「二、四、五」と小さく呟きながら用紙を数えた。

「テスト用紙はまだ見ない。裏のままにして触らない」

先生は、沙奈にテスト用紙を渡しながらクラスに呼びかけた。小坂先生のよく通る声は、間近で聞くと耳に響く。沙奈はテスト用紙を裏にしたまま後ろの人に用紙を回す。
「まず、はじめに名前を書くこと。それから解答が終わって時間が余ったら必ず見直しをすること。計算問題は特に見直しが大切です。今回の算数のテストは授業で習ったことを理解していれば解ける問題ばかりだからね」
 小坂先生は一通り説明を終えると後ろの時計を確認した。

「……では、始めてください」

先生の合図と共に一斉に紙の擦れる音が教室中に響いた。

先生に言われた通り、皆、先に名前を書いているためか開始早々は鉛筆の走る音が大きい。しばらくすると鉛筆の音はまばらになっていく。

テストが始まり、静かになった教室には、まだ給食の匂いが残っていた。窓は全開なのになかなか消えない給食の匂いを不思議に思っていると、沙奈のトレーナーの首周りにポトフのシミが付いていたことにテストの最中に気が付いた。

沙奈の鉛筆は四問目で止まった。

わからない問題を飛ばして解ける問題から進めようとするが、テストの問題は進むにつれ難易度が上がっていくため空白はなかなか埋まらなかった。自分の少ない知識と当てずっぽうの勘を頼りに問題を解いていくしかない。
 テストの中盤、左側を見ると隣の矢野くんは頭をボリボリ搔いていた。矢野くんもテストに苦戦しているように見えて少し安心する。

チラリと右斜め下を見ると、たっちゃんのテスト用紙は黒くびっしり埋められていた。

左手で自分の頭を抱えながら、沙奈はたっちゃんの右斜め下のテスト用紙に目を細める。
 顔を上げ、小坂先生の姿を確認すると、先生は先生の机で丸付けをしていた。

沙奈はテスト用紙の何も書かれていない右上の箇所を消しゴムで擦り、少し多めに消しカスを作った。

消しカスを右手で払いながらわざと消しゴムも一緒に払いのけて床に消しゴムを落とした。消しゴムは、たっちゃんがいる右側の通路に落ちた。

沙奈は左手を机に付き、体を曲げて消しゴムを拾う。

消しゴムを拾うふりをして右下のたっちゃんのテスト用紙を盗み見た。

消しゴムを拾った後、恐る恐る先生の方を確認すると先生は丸付けをしていて気づいていないようだった。

一安心し、沙奈はお尻を左右に上げ下げしながら椅子に座り直した。

カンニングをしてすぐに書き込むと今度はたっちゃんにバレるので、他の問題を解くふりをして沙奈はこっそり六問目の解答を書き込んだ。
 沙奈はたっちゃんと隣の席になってから、たっちゃんが勉強ができることをいいことに、授業で練習問題を解く時やテストの時にたっちゃんの解答をカンニングした。それも一度や二度だけではなかった。

カンニングは一度やると癖になった。

カンニングをした罪悪感よりもカンニングをしてでもテストの点数が少しでも上がれば、それがたとえ不正行為でも嬉しかった。
「解答が終わった人は必ず見直しをすること。まだ終わってない人も最後まで諦めずに問題に取り込むように」

小坂先生は生徒の答案用紙を覗きながら、教室を歩いて回り、最後の声がけをする。

テストは残り五分になろうとしていた。

沙奈は先生の後ろ姿を確認すると、急いで何も書かれていない箇所を消しゴムで擦り、消しカスを作った。

消すカスと一緒に消しゴムを払おうとすると、たっちゃんは沙奈が見えやすいようにテスト用紙を沙奈のほうへ寄せた。

沙奈がパッととたっちゃんを見ると、たっちゃんは先生の様子を伺いながら沙奈に小さく笑いかけた。

 沙奈は耳の奥が熱くなった。

後ろから小坂先生が近づいてくる気配を感じ、たっちゃんは急いで前に向き直す。

沙奈とたっちゃんの間を小坂先生が通り過ぎていく。

「はい。ここまでー」

小坂先生が振り返ると、算数のテストは終了した。
 
「松村、お前さっきのテストでカンニングしてただろ?」
 松尾はそう言って、沙奈の机の前を通り過ぎた。

沙奈は自分の顔が一気に熱くなるのを感じた。声が大きい松尾にこれ以上カンニングのことをバラされたらと思うと、次第に体の奥まで熱くなっていく。

沙奈は松尾のことを目で追った。

沙奈はとっさに何て言い訳をしようか、血が上る頭で考えていると、そんな沙奈に興味なんてなさそうに松尾はすぐにたっちゃんの席に駆け寄った。

松尾はたっちゃんの右横に立つとゲームの話を始める。

松尾はそれ以上カンニングのことを言ってこなかった。
「たつ、今日ガッコ終わったらうちでゲームしようぜぇ」

松尾の大きい声は、まだ熱い沙奈の耳の奥まで響く。

五時間目の算数のテストが終わった後の休み時間は、テストの緊張から解放された生徒たちの活気が戻っていた。

毎週水曜日は五時間授業の早帰りの日なので、生徒各々が帰りの会が始まるまでの間、今日の放課後の遊ぶ約束を取り合う。

「沙奈ちゃん」

 声のする方に沙奈が振り返ると、後ろから加代ちゃんに声をかけられた。

「沙奈ちゃん、今日ピアノ?」

「ううん。ピアノは火曜日になったから水曜日はレッスンないよ」

「今日、みっちゃんたちとタコ公園行ける?」

「うん。行ける」

 今日の放課後に遊ぶ約束を済ませると、加代ちゃんは小さく手を振って自分の席に戻った。

 沙奈は加代ちゃんに向けた笑顔が真顔に戻ると、たっちゃんのほうを見た。たっちゃんの右横にはまだ松尾がいる。

 沙奈は松尾が嫌いだった。

松尾は運動ができるタイプではないけれど、勉強はそこそこ出来る小太りの男子だった。 

一学期に席替えをするまでの間、初めは座席が名前順だったため、松尾と沙奈はしばらく隣の席だった。

沙奈は算数のテストで簡単な計算問題を間違えたことをバカにされてから松尾が嫌いになった。

松尾の何かと人をバカにするような話し方が沙奈には鼻に付いた。

松尾とたっちゃんは、通っている学習塾が同じらしく、四年生の二学期になると放課後、松尾とたっちゃんが二人で一緒に歩いている姿をよく見かけた。

二学期に席替えをしてから、松尾は休み時間になると頻繁にたっちゃんの席にやってきては沙奈の知らないゲームの話をした。

沙奈とたっちゃんが昨日観たドラマやアニメの話をしていると、松尾は途中で割り込んできて、度々、話を中断させた。

「何、お前ら付き合ってんの? カップル?」

 松尾は沙奈たちが仲良さげに話しているだけで、小学生特有の「カップル」や「恋人」という単語や表現で沙奈たちを揶揄した。

次第に松尾の揶揄が面倒になり、松尾がたっちゃんの席に近づいてくると沙奈は黙るようになった。

 キャラクターものの下敷きをたわませながら沙奈はたっちゃんの隣にいる松尾をちらりと視界に入れる。その目は見るというより睨みつけている。

松尾は帰りの会が始まろうとしているのに自分の席に戻ろうとしない。

「今日、成田たちもうち来るって。みんなで対戦しようぜ」

 成田くんの名前が出て、沙奈は思わず背筋がピクッと反応する。女子に人気の成田くんが松尾と仲がいいことも気に食わない。

「……でもなぁ、たつが使った後のコントローラーっていつも臭くなるんだよなー。たつ、お前まじ足くせーから」

 松尾はケラケラと下品な笑い声を上げた。

沙奈は松尾の言葉に思わずたっちゃんの顔を見てしまった。沙奈は自分の顔が引き攣るのがわかった。けれど松尾は沙奈の視線など気にも止めていない。

「おりゃー、あくしゅ、あくしゅ」

松尾はたっちゃんの右腕のTシャツの中に強引に手を突っ込んだ。握手とも呼べない、無理やりな【握手】を笑いながら松尾は繰り返す。

「帰りの会、始めるよー」

 小坂先生は教室のドアを開けると同時に、大きな声でクラスに呼びかけた。

先生が黒板の前に立つとまだ着席していない数人の生徒が自分の席に慌ただしく戻っていく。

「センセー、今日の宿題なにー?」

 松尾は自分の席に戻りながら馴れ馴れしく先生に話しかけた。先生の前では調子のいい松尾の態度に沙奈はさらに嫌悪感を抱いた。

「今日の日直さん、プリントお願い」

体力測定の日程のプリントと、近所の公民館で行われる工作イベントのプリントを小坂先生は日直の二人にそれぞれ渡した。

廊下側の列と窓側の列からそれぞれ日直の二人が先生の代わりにプリントを配り始める。 

先生が黒板に今日の宿題や連絡事項を書き始めると、沙奈はたっちゃんに声をかけようか一瞬迷った。迷ったけれど何となく何も言わない方がいい気がしたので、結局、何も聞いていなかった振りをした。

 後ろから背中を突かれ振り返ると、沙奈の後ろの席の沖野さんが莉恵ちゃんの連絡帳を沙奈に差し出した。今日の連絡帳交換が莉恵ちゃんだったことを思い出して、沙奈も慌てて自分の連絡帳を沖野さんに渡す。

沖野さんの後ろの席に座る莉恵ちゃんが「メッセージも書いてね」と横から顔を出す。

クラスの中でおしゃれに敏感な莉恵ちゃんは、毎日の連絡帳を友達同士で交換し合うのが好きな子だった。中学生のお姉ちゃんがいる莉恵ちゃんは、お姉ちゃんの字を真似ていて、みんなに字が可愛いと言われていた。お姉ちゃんの影響でクラスに流行りを広める莉菜ちゃんは、女子の間でカリスマ的存在だった。

沙奈は前に向き直す時、一瞬だけたっちゃんの顔を見た。

連絡帳を書き込むたっちゃんの顔を覗き込んで「さっきの大丈夫?」とやっぱり声をかけられなかった。

松尾のさっきの言葉になぜか沙奈がすごく傷ついた。黒板に今日の連絡事項を書く小坂先生を見ているのに、右の眼の視界にかすかに入るたっちゃんが気になってしかたない。

たっちゃんにとって足は、手の代わりなのに。たっちゃんがゲームをするには足でコントローラーを操作するしかないのに。そんなことを言うのはたっちゃんが可哀想だ。

さっきとっさに松尾に言い返せなかった言葉を自分の胸の中で何度も繰り返す。

沙奈はいつもそうだった。人に言い返せなかった言葉を後になって自分の胸の中で繰り返すことでしか悔しさを晴らせない。

たっちゃんに無い腕や手のことをからかったことよりも、たっちゃんに有る足のことを松尾がからかったことがなぜか沙奈は嫌だった。

足しか使えないたっちゃんに足が臭いなんて、どうしてそんなことが言えるのだろう。思ったことをそのまま言ってしまう松尾のそういうところが大嫌いだった。

帰り会の始まり、日直の二人も今日の分のプリントを配り終え、小坂先生は明日の持ち物や今日の宿題を伝える。

黒板を写すたっちゃんの足を見て、沙奈はふと気づく。

そういえば、沙奈はたっちゃんが靴下を履いている姿を一度も見たことがなかった。夏でも冬でも、たっちゃんは運動靴や上履きをいつも素足のまま履いていた。

よく考えてみれば当然のことだった。たっちゃんが靴下を履いていたら、授業中、いちいち脱いだり履いたりしなきゃいけなくなる。たっちゃんにとって足は手の代わりなのだから。

四時間目の授業が外体育だった後の給食の時間や、昼休みに校庭の外遊びから戻ってきたたっちゃんの足のにおいが鼻に付いたことは度々あった。沙奈がたっちゃんと隣の席になってから少しずつ気になり始めていたことだった。

砂埃を含んだ、蒸れた汗の籠った運動靴の独特の臭いは、授業中、特に給食の時間、沙奈の鼻を刺激した。

たっちゃんにとって足は手の代わりなのだ。

そう思っているのに、沙奈が授業中に落とした消しゴムをたっちゃんが足で拾ってくれた時、「ありがとう」のお礼に詰まってしまったことを沙奈はなぜか今思い出していた。

 

 

二学期が終わり、三学期になるとまた席替えが行われた。

たっちゃんの席は、変わらず十一番のままだった。

沙奈は三学期の席替えでは、廊下側の一番後ろの席になった。暖房機から一番離れた廊下側の席は、冬は特に足が冷えた。

一番後ろの席から板書をすると、時々たっちゃんの後ろ姿が目に入った。

小学生の頃の席替えは、席替えによってその後の学校生活にかなりの影響を及ぼした。 

三学期、隣の席になった野間くんはちょっと雰囲気が変わっている男の子で、今までそんなに話したことがなかったけれど、沙奈の知らないことをたくさん知っていて隣にいると何となく落ち着く子だった。

野間くんの両親は関西出身らしく、野間くんの言葉には関西弁のアクセントが混ざっていた。そのアクセントが沙奈は妙に心地よかった。

席が離れてからも、たっちゃんとは時々ドラマやアニメについて話すことはあった。

朝、学校の下駄箱でたっちゃんに遭遇すると「昨日のあれ観た?」と沙奈から話しかけることもあった。

ただ、たっちゃんと話はするけれど松尾のようにわざわざたっちゃんの席に行ってまで会話をすることはなかった。

三学期が終わる頃、五年生に上がるタイミングで沙奈は父親の仕事の都合で引っ越すことになった。

四年生が終わる終業式の日、小坂先生は転校する沙奈にクラスのみんなとお別れ会を開いてくれた。

お別れ会はみんなでフルーツバスケットのゲームをやった。

クラスを代表して、仲良しの加代ちゃんたち女子数人からクラスのみんなで用意してくれたプレゼントをもらった。

プレゼントの中身は、淡い紫色の厚手のハンカチと、クラスのみんなが寄せ書きをしてくれた色紙だった。

お別れ会の最後、クラスのみんなと黒板の前に並んで写真を撮った。

写真を撮る時、「沙奈ちゃんの隣がいい」と加代ちゃんや莉恵ちゃんたちの女子たちが沙奈の周りを取り囲んだ。

「沙奈ちゃん、これ付けて。お揃いにしよ」

お別れ会の主役の沙奈に、連絡帳交換が好きだった莉恵ちゃんは自分が付けているヘアピンの一つを沙奈の前髪に付けてくれた。

クラスの中で一番おしゃれで可愛い、女子の憧れの莉恵ちゃんが自分のヘアピンを沙奈に付けてくれた時、それはまるで国の女王がティアラを贈呈してくれたような高揚感が女子の間で生まれた。

「はしゃいでんなよ」

写真撮影にはしゃぐ女子のせいでなかなかシャッターが切れないことを鬱陶しく思ったのか、松尾が後ろからヤジを飛ばした。

楽しい瞬間にトゲを刺すような一言だった。

お別れ会がお開きになり、後ろ側に寄せた机や椅子を元の状態に戻し、帰りの会を終えるといつものようにパラパラと生徒たちが教室から出て行った。

今日は終業式で、明日からは春休みだ。

沙奈は春休み期間中に引越し予定だった。

隣の席だった野間くんとも今日で会えなくなるのかと思うと、急に引っ越す実感が沸いてくる。野間くんの後ろ姿が寂しく映った。

「沙奈ちゃーん、またねー。バイバーイ」

 前側のドアから加代ちゃんたちが沙奈に手を振った。

仲良しの女の子たちとは、引越し前に改めて沙奈の家でお別れ会を開く予定になっていた。そのため、加代ちゃんや莉恵ちゃんたちはまだ今日が最後の別れではないことをわかっているので、今日の別れの挨拶も軽い。

「松村さん」

沙奈が顔を上げると、ランドセルを担いだたっちゃんが机を挟んで沙奈の前に立っていた。

「元気でね」

たっちゃんはいつもと変わらない人懐っこい笑顔を見せた。

「たっちゃんも」

 沙奈もたっちゃんに釣られて笑顔を見せた。

「たっちゃん、握手しよう」

 沙奈は右手をたっちゃんの腕の位置に差し出した。

たっちゃんは驚くように瞬きをした。だがすぐに身体ごと右腕を沙奈の方に差し出す。

「あくしゅ」

 沙奈はTシャツの上からたっちゃんの右腕をそっと握る。優しく、ゆっくり握った。

弟の智くんが産まれたばかりの頃、初めて赤ちゃんを抱っこした時のようにぎこちなく沙奈はたっちゃんと握手をした。

沙奈にとって、たっちゃんの腕は触ってはいけない特別な部分だと思っていた。

ただ、松尾にとってたっちゃんの腕は、特別なものでもなんでもなかった。松尾は何のお構いなしに、たっちゃんの腕にズケズケと触れていた。

たっちゃんの腕を特別だと思っていたのは、たっちゃん自体を特別な子だと思っていたことに沙奈は気づく。

「あくしゅ」

 沙奈は握っている、たっちゃんの右腕を少し振ってみた。

たっちゃんの「グー」の右腕は、思っていたよりも柔らかい。Tシャツの上からでも体温を感じる。

「松村さん、元気でね」

握手をしながら、たっちゃんはもう一度言った。

「たっちゃんも」

別れの挨拶には、やっぱり握手がセットのほうが何倍もいい。

 

 引越し先に小坂先生から手紙が届いた。

小坂先生は、お別れ会の日に撮った写真を新しい住所に送ってくれた。

小坂先生からの手紙を読み終え、同封された写真を取り出すと、まだお別れ会から一ヵ月も経っていないのに妙に懐かしさが蘇る。

沙奈は写真の中の元クラスメイトの顔を一人一人、フルネームと合わせて眺めていった。

写真の中のみんなはずっと笑っている。

懐かしい顔ぶれの中から松尾が目に止まる。

沙奈は違和感を覚え、写真に目を凝らした。

写真に顔を近づけてよく見ると、松尾が妙に格好つけたピースで気取っている顔でこちらを見ていた。鼻に付く笑顔だった。

沙奈は、気取った松尾の顔の上に爪で深くバッテンを付けた。

松尾の隣にはたっちゃんが写っていた。

たっちゃんは左腕の二本の指を自分の顔に近づけ、「ピース」をして沙奈に笑いかけている。

沙奈もたっちゃんの笑顔に釣られて口角が上がる。

たっちゃんの左腕の二本の指は、じゃんけんの「チョキ」よりも、「ピース」のポーズのほうがたっちゃんの人懐っこい笑顔によく似合っていた。【了】


最後までお読みいただきありがとうございました。

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