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9月1日のきみへ せっかくの人生だから、可能性を使い切って、目一杯楽しんで

明日から9月。新学期が始まります。
毎日が日曜日のお気楽おじさんからすると、新学期どころか盆暮正月ですら関係のない日々を送っているので、これといって変化はありません。

毎年この時期になると新学期で学校が始まるのに合わせて、学校に行きたくないがあまりに思い詰めての不幸が多いのですが、「行きたくなかったら行かなくていい」とか、「死なないで」的な投稿がSNSに見られるのはむしろ風物詩にすらなっていて、僕には建前に見えてそれはそれで苦手です。

僕は「死ぬな!」とはなかなか言えなくて、「自死」それすらも個人の選択だと思っている部分もあります。死んでしまうとどうにもこうにもやりなおしがきかないので、慎重にとは思うけれど、個々の選択に口を出していいのかと慎重になってしまうところがあります。生きるのは辛いものだけど、死ぬほどに辛いのだったらまあ仕方がないと思うところもないわけではなくて、それは僕だって「死んだ方が楽だな」と思ったことは一度や二度ではないからです。

死んでしまうのって、もったいないと思うんです。
小中高生ってまだまだこれからというか、ここから楽しいことや、面白いことや、気持ちいいことがたくさん待ってます。人生をお暇するにはまだ早いと思うんですよ。僕がこんなことを言うと生存者バイアスというか、自分の好きなことを見つけて、たまたま上手く行ったおじさんが垂れ流す綺麗事に聞こえると思うのですが、僕の子供の頃もなかなかな塩梅なので、ここに書き置きます。

僕はいじめられていた記憶もなければ、いじめられていた自覚もないのですが、当時の状況を思い返すとこれは見事にいじめられていたなって思うのです。恥ずかしい話でこうでもしないと書くこともないので誰かの何かになればと書いておきます。

「空気を読んではいけない」には書ける範囲で書いているのですが、僕は小学生の頃から、右向け右ができない子で自分の考えを持っていて、先生からしたら扱い難い子供でした。学校の先生は答えに向かって導線を引いで教えているわけで、その答えとは違う答えを持つ子供を異分子として捉えてよくは思いません。個性があって面白いやつだと思えるほど、学校の先生の器も能力も備わっていないのは仕方がないです。

学校の先生に「青木真也と話してはいけない」とクラスでハブられたり、青木がいると授業が成り立たないからと追い出されたり、もちろん給食は壁で一人で食べてたし、今思うとなかなかな感じでした。挙句の果てには、青木真也の嫌なことや青木にされたことをクラスメイトに書かせて、親を呼ばれて親の前に叩きつけるほどのなかなか先生でした。

これに関しては親父に助けられて、「子供に悪口を言わせるのが教育か」と校長先生や教頭先生まで巻き込んで、折り目正しく揉めて、謎の約束で「うちの子供にお前は触るな」という約束が交わされたおかげで担任が変わるまでの1年は何も言われない快適な生活でした。あのときに親父が丸め込まれていたら、青木真也ですら滅入ってしまった可能性もなきにしもあらずなので、運が良かったし今になって感謝しています。まあそれはそれとして。

子供同士のいじめもあるだろうし、先生と合わなかったり、先生にいじめられている場合もあると思うんです。僕の場合は教員と合わなかったというか、教員の質がアレだったのですが、学校の「先生」と言っても大学出て教員試験に受かっただけで、社会に出てさまざまな経験をしているわけでなくコクはないので、大したことない場合が多々あります。

今思い出してもなんだかなと思うことはあるけど、今となっては何とも思ってないし、今に見てろ!と思ってやってきた原動力になってくれた感謝の気持ちすらあります。

ちなみに小学校低学年時は座ってられないとか、高学年になっても協調生がないとか、先生に「帰っていい!」と言われたら帰ったり、好きなこと(柔道)には異常な集中を見せたりと今から見れば所謂、発達障害のそれなのですが、当時は発達障害の呼び名はなく、ただのダメ坊とされていたので僕も親も学校の先生も周りも苦しかったと思います。それでも学校の先生の質はサラリーマンが過ぎる上にヨカタが過ぎると思いますけどね。まあそれはそれとして。

学校に行く行かないは横に置いておいて、勉強でもスポーツでも芸術でも何でもいいから、必死にやってみてほしい。運が良ければ成功するだろうし、運が悪くて成功しなくとも何かに手が掛かるだろうし、取り組みの中でつながりができて人生は好転します。生きていると辛く苦しいことが多いのは事実ですが、たまに良い事があって、そこで感じる快楽は最高です。

生きていれば見たことのない面白く楽しい光景を見れるのだから、勿体無いから死ぬこたないですよ。せっかくだから可能性を使い切って、見たことのない景色を見れるだけ見たほうがいいと思うんですよね。そんなわけで僕は今日も自分自身の新領域を感じてきます。年齢を重ねて、身体の変化を感じることで日々の発見が増えていて、毎日面白いんですよね。今日も生きるぞ。

僕は青木真也を通じて、「生きる」ことを表現しています。
格闘技でもプロレスでも「生きる」ことを表現したくてやっていて、つまるところ「生きろ」に落ち着きます。生きていると勝つときもあれば、昇るときもあるけれど、負けて急降下することもあって、それでも手を替え品を替え試行錯誤で生きていくことが強さであって、僕は競技の勝ち負けを商売にしているわけではないです。あくまで青木真也を通じて生きることを表現しています。

人並みよりも喜怒哀楽を多く感じてきた方だとは思うのですが、いろいろ経験してきて思うのはどうってことねえです。その場は大変に感じたり、苦しんだりするけど、時間が経って視野が広く見れればどうってことねえです。これは老若男女とわずですが、追い詰められたように感じても人生の徳俵は永遠に残っていますから、どうってことねえよって思ってやっていきましょう。

ちなみに周りと考えが違って合わなくて、友達ができなくて孤独感を感じていたりするかもしれませんが、40歳になった今は周りに似たような人種が集まって、気が付いたら世間一般的に普通とされる人を探すのが難しくなっていて、同じような熱量で生きている人が集まるから安心してください。


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