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サマスペ!2 『アッコの夏』(4)

 「ストップ」

 今、声がした? 

 アスファルトの白線を見つめて走り続けていたアッコは顔を上げた。先を走っていた由里と大梅田が足を止めている。空耳じゃなかった。
 助かったあ。

 両側を緑の林に囲まれた国道402号の歩道で、大梅田が両膝に手をついた。大きな背中が波打っている。隣で由里は片足の甲を持って背中の方に引き上げていた。太股の前の部分のストレッチだ。
 由里はまだまだ余裕がありそうだ。さすが陸上部のエース。

 情けないが市役所前から二十分以上走ったアッコは限界に近かった。
 いつまで走るんだ、由里。もうついていけないよ。
 何度もそう叫びそうになった。

「随分走ったもんだな」
 アッコに追いついた水戸も、走るのをやめてあえいでいる。

「水戸さん、ここからは歩くんですよね」
「どうかな。伴走が決めることだから。まあでも梅も音を上げたみたいだな」
 グハハと笑って咳き込んだ。

「大丈夫ですか」
「ふう、水、水」
 水戸は持っていたプラスチックの水筒に口をつける。あたしもチャチャのサイドからスポーツボトルを抜き出した。大梅田は少し落ち着いたらしく、ガードレールに手をついてアキレス腱を伸ばしている。

「由里、かなりマジに走ってましたからね」
 由里が本気になればその辺の男に負けるわけがない。アッコは歩きながらスポーツボトルの水をがぶ飲みして息をついた。由里たちが休憩している間に追いつかないと。

「アッコもよく走ったな。大したもんだ」
「ちょっと必死モード、入ってました」

写真AC 映那みくるさん


 市の中心街にあった庁舎やオフィスビルは、スタートして間もなく、郊外型の店舗や工場に変わった。そして信濃町のガソリンスタンドを右に折れた辺りから住宅街になり、長い橋を渡る時に右手に見えたのは、どこまでも青い海だった。

 煌めく海に感動、したのは最初だけだ。風景に気を取られると走るペースが落ちてしまう。

 橋を渡りきると海岸沿いに林が続き、背の高い木の間から日本海が見えた。由里たちが休んでいる所は、右手が丘のようになっている。潮の匂いを感じながら近づいていくと、二人の脇に『青山海浜公園』の看板が立っていた。

「由里、歩こう」
 大梅田が由里に話しかけている声が聞こえた。
 どうやらランニングタイムは終了らしい。

「もう走らなくていいんですか」
「ちょっと由里、そんなに張り切らなくていいんだって」
 大梅田は後ろから声を掛けたアッコを振り向いた。

「見ろよ。ついてきてるのは水戸とアッコだけだ。最後尾はまだ橋に着いてない。これだけ距離が開けばいいだろう」

 由里が「はい」と答えてタオルで額を拭いた。まだ走り足りないような顔をしている。スタート前、大梅田に「サマスペは女には無理だ」と言われたことが相当頭にきていたのだろう。

「どうだ、梅。由里がこんなに走るとは思わなかっただろ。今年の新人の秘密兵器だ」
 水戸は水筒のキャップを閉めて言った。

「水戸は知っていたのか」
「ああ、由里とアッコには山手線を一周してもらったからな。俺が一緒に歩いてお目付役をしたんだ。幹事長命令でさ」
「山手線一周か。テストってことだな」

 同好会に入れば、もれなくサマスペ参加資格になると思ったら、大間違いだった。と言うか、サマスペという奇矯なイベントに興味を持つ新人がほとんどいなかった、と言う方が正しい。
 数十名いる女子会員には皆無だった。

 アッコと由里はサマスペに参加したいと何度も頼んだが、園部幹事長は首を縦に振らなかった。

「サマスペは昔から続いているが、女子の参加は一度もない。あきらめろ」。その一点張りだった。

 サマスペまで十日を切った日、由里は薄いノートを幹事長に渡した。表紙に『女子のサマスペ参加に賛成します』とタイトルが書いてあった。

 同好会の女子から集めた署名だった。由里がそんなことをしているとは知らなかったアッコは、びっくりした。
 言ってくれれば手伝ったのに。由里はそういうところが水くさい。

 サマスペなど眼中にないはずの女子会員をどう説得したのか、三十人以上の署名が並んでいた。ノートを見て黙り込んだ幹事長に、由里は「参加を認めないのは女性に対する差別です。相撲の女人禁制だって、社会問題になっています」と淡々と言った。

 幹事長は「相撲と一緒にするなよ」と頭を掻いてから、匙を投げたように「山手線を歩いて一周できたら認めてやる」と言った。どうせできっこないと、その細い目が言ってた。

 
「歩けばいいって言ったのに、ちょっと目を離すと走るんだよ、こいつら」
 海浜公園に入っていく石段に腰掛けた水戸が言った。
「そうおっしゃいますけど、水戸さんが後ろにいなくて、あたしたち困ったんですよ」

 アッコに言い返された水戸は苦笑いする。水戸はダッシュするアッコと由里に、池袋と日暮里で二度も置いていかれそうになった。

「そうか。水戸がついていけなかったのか」
 アッコも応援団時代は毎日ランニングを欠かさなかった。炎天下で選手を最後まで応援するには体力が必要だから、練習の半分は持久力をつけるトレーニングだった。
 由里は最初はアッコに気を遣っていたが、スタミナがあるとわかって安心して走った。

「由里の粘り勝ちだったんだよ、梅」
 水戸が腿をマッサージしながら、笑ってみせる。
「俺はサマスペに参加したいっていう由里の情熱はよくわかった」
 由里は素知らぬ顔をしている。

「初めは幹事長に、女子一人の参加なんてあり得ないって笑われてたんだからな。そうしたらアッコを連れてきた。次に他の女子の署名を集めた。そして体力試験にも合格したんだ。幹事長も認めないわけにはいかないだろう」

 大梅田は由里を見た。
「どうしてそんなに参加したかったんだ」
「……面白そうだと思ったんです」
 大梅田は、ふうっと息をついた。

 水戸が立ち上がった。
「まあ、梅。とにかくサマスペは始まったんだ。そして二人ともサマスペの参加資格は十分だよ。俺が保証する」

「当然ですよ」
 アッコは胸を張った。
「大梅田さんだって、今の由里の走りを見たでしょ」
「俺が田舎でリンゴの玉回しをしてる間に、そんなことがあったとはな」
 大梅田はその場で屈伸をした。
 
「だがな、俺はまだ納得したわけじゃない。今日の行程は始まったばかりだ。音を上げたらそこから電車に乗って帰ってもらう」
「おいおい、梅」
「先輩、それはないんじゃないですか」

 大梅田はアッコと水戸を無視してリュックを背負い直した。
「由里、いいな」
「はい、望むところです」
 アッコはきっぱりと言い切る由里の横顔を見て黙った。

「さあ、歩くぞ」
 旗を持った由里、大梅田、水戸、アッコの順に歩き始める。
「ここからはそうだな。取りあえずこのくらいのペースでいこう」
 由里の隣に並びかけた大梅田はかなり速い。由里が抜かれないように歩調を上げる。

「これで時速六キロだ。慣れたら自分のペースをつくっていけばいい」
「わかりました」
 由里が「時速六キロ」と呟いて自分の足元を見た。走るのとは違って、歩くペースは身体が覚えていないだろう。

「残りの約三十キロは持久戦だ。巻駅の近くまで五時間はかかる。何度か休憩するが長丁場だぞ」
「頑張ります。それと休憩はいりません」
「脚力があるのはわかった。でもな、由里」
 大梅田は普通に会話してるが、アッコには喋ると息が切れるスピードだ。

「サマスペは速く走ればいいってもんじゃない。なめてると痛い目に遭うぞ」
 由里が身体を半分、大梅田に向けて「はい」と答えた。アッコは大梅田の広い背中をにらみつけた。

 なんだよ、このゴリラ、素直じゃないな。講釈垂れる前に言うことがあるだろ。女だからって馬鹿にしてた、申し訳ないって、一言、謝れ。

「まあまあ」
 水戸がアッコを見て笑った。アッコがよほどむっとした顔をしていたのだろうか。勘が鋭いのかもしれない。見かけによらず。

 先を歩く二人はそれきり黙っている。沈黙が続くと息苦しい。由里が大梅田を無視しているように見えてしまう。いくら大梅田の言動が腹に据えかねているといっても、ちょっとよろしくない。

 仕方がない。場を温めてやろうと思った。
「先輩、さっき言ってたリンゴの玉回しってなんですか」
 大梅田が首を捻ってこちらを見る。
「農作業だ。リンゴの向きを一つずつ変えるんだ。こうやってな」

 両手を顔の上に伸ばして、見えないリンゴをくるっと回す。
「赤くなるのは太陽に当たるところだからな」
「へえ、知りませんでした」
「全体にきれいに赤くしてやらないと」

 こうやって話していると、普通のサークルの先輩だ。
「面白そうじゃないですか」
「とんでもない。一日中、こればっかりなんだぞ。腕がぱんぱんになる」
 由里がくすっと笑った。

 アッコは驚いた。由里が笑うなんて滅多にない。同好会に誘われて付き合うようになったけれど、いまだに由里が何を考えているのかわからない。余計なことはしゃべらないし、ほとんど感情を出さない。

 高校で陸上選手だった時とはまるで違う。競技中の選手に声援を送る時も、ゴールしてほかの部員と抱き合う時も、そして校内の廊下ですれ違う時だって、由里の身体からはオーラが立ち上っていた。

 身体の中に元気製造マシーンがあって、絶賛出荷中って感じだ。でも今はその面影はまったくない。だからアッコは由里のことをちょっと、いや相当に、心配しているのだ。

「ところで由里は何か運動してたんだろ。普通、そんなに走れないぞ」
 由里は少し黙った。
「はい、陸上を少し」

 また驚きだ。由里は陸上の話題を避けていた。アッコがその話を振ると急に殻に閉じこもったように、いつにもまして無表情になってしまう。だから自分から陸上のことを言い出すなんて信じられない。悔しいくらいだ。

 アッコは前を歩く二人の話を聞き逃さないように耳を澄ませた。でもそれきり由里は黙々と歩く。大梅田は「そうか」とだけ言って、それ以上訊かなかった。

 由里の心の扉はまた閉じてしまったらしい。それでもとにかくいい傾向だ。由里も久々に走ってテンションが上がったのだろう。初めて飛び込んだサマスペの初日に、自分の走りができて安堵したのかもしれない。

 サマスペという未だ全貌が分からない謎のイベント。それが由里の中の何かを変えようとしている。それは由里を応援しているアッコにとってもチャンスだと思った。

<続く>

バックナンバーはこちらからどうぞ。

前作はこちら。でもアッコは二年生になっています。


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