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父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと 28

尾崎さんの『大吉の籤』という作品に、父が独立して仕事を始めた頃のことが書かれています。大体の作品では山下昌久君、と本名で登場する父でしたが、この作品は例外的に仮名となっています。たまたま尾崎さんが、旅先の食堂で引いた籤(昔、よくありましたよね、灰皿兼用のおみくじ。十円入れると小さな巻物状のくじがコロン、と出てくる)が大吉で、お福分けした三人の男性が揃って幸先いいスタートを切ったものの、二人は残念な顛末となり、あと一人の父はどうなるか、というような展開で、本名で登場させづらかったのでしょう。お福分けの三人はA君、B君、そして父はC君となっています。

前回は両親の結婚のことについて書きました。独立した父は、世間の信頼のためにも結婚したほうがいいというアドバイスなどもあって、幼馴染で従姉妹(血縁はないのですが)の母と結婚しました。新婚旅行は箱根で、きのくにや旅館に宿泊。創業一七一五年の由緒ある旅館で、HPをのぞいてみたところ、勝海舟、明治天皇、志賀直哉など、錚々たる名士が宿泊している宿です。

そういえば、小学生低学年の時の夏休みに、家族でその旅館に泊まりました。伝統建築の古式ゆかしいその旅館にゲームコーナーなど当然なくて、子どもには退屈な場所でしたが、父と母にとっては思い出の場所だったのです。

父と母は、文京区の千石に部屋を借り、生活を始めました。旧町名は西原町。一九六七年には消滅した町名です。文京区は旧町名で町内会があるので、今も名前は残っていて、都営三田線の千石駅と巣鴨駅の間くらいでしょうか。独立をして、結婚して、と世間的には順調に見えましたが、「お金がなくてねえ、本当に困ったんだよ」と父は言います。休日、「外出しよう」という母に、「お金がないんだよ」と父がしょんぼりと言うと、「私が持っているから大丈夫」と言うので、それならば、と信濃町まで電車で出かけて、外苑まで歩き、当時流行りだったラーメンを食べ、さあ帰ろうということになったら、母が「もうお金ないの」。仕方なく、歩いて家まで戻りましたが、信濃町から千石は結構な距離があります。家に戻るなり、しゃがみ込んでしまうほど、疲れ切ってしまった二人でした。なんだか尾崎さんの芳兵衛シリーズに出てきそうな逸話です。「お母さんにとって、どの程度の金額が、お金がある、なのか、不思議だったよ。以来、お母さんの、お金がある、は信用しないことにしたよ(笑)」。そんな楽天的な母だからこそ、父と苦楽を共にできたのではないかと思ったりします。

父には、新しいデザインを生み出すアイディアがあり、勤め先ではヒットメーカーでした。生来目端がきくタイプでもあり、他の人が思いつかない行動に出ることが少なくなく、またそれが功を奏したのですが、独立となると、話は違います。商売は素人ですし、修業先の職人さんを引き抜くわけにはいかず、寄せ集めで始めたものの、売れるクオリティにするには難しかったのです。父の取引相手は、修業先の袋物製造卸の会社でしたが、最初のうちは「買い取りたいけれど、こんな出来じゃ無理だなあ」と戻されることが続いたそうです。

間もなく母は妊娠、結婚のちょうど一年後に私が生まれます。予定日は六月八日でしたが、私の首にへその緒が二巻き半していることが判明し、五月二十一日に、急遽帝王切開をすることになりました。私は仮死状態で生まれたと、子どもの頃から何度も聞かされてきました。無事育っているだけでも、儲けものらしいと、なんとなく自覚して育った気がします。「体の半分くらいが紫色でね。こっちは動物の世話をしてきたから、なんとかなると、とにかく何時間もマッサージをしてね。やっと産声をあげたんだよ」。お医者さまは半ば諦めていたといいます。私は父が育てた牛や豚や鶏の延長線上で生を得たのでした。(父曰く、「いや、修善寺では子守もしてたから、慣れてたんだよ」とのことでしたが、蘇生術は、家畜から学んだに違いありません)

私が生まれたこともあり、千石から引越しをすることになりました。今の家から徒歩で十分くらい離れた場所で、鎌倉町と呼ばれていた土地でした。葛飾区になぜ鎌倉があるのかを調べたこともなかったのですが、葛飾区史によれば、

近世の新田村。「新編武蔵」に、「昔相州鎌倉郡ヨリ源右衛門トイヘルモノ。来リテ開發セシユヘ。此名アリト云」と明記されている。また村内から曼荼羅が掘り出されたため、曼荼羅村の別名もあった。

とあります。車の走る通りから鉤の手に曲がった路地のどんつき手前にあった家のことは、けっこう鮮明に覚えています。借地の建売りの家でした。

父には、この前後に転機がありました。「当時、一流の袋物製造業は一流の口金職人を抱えていたんだけれど、僕はそれが確保できない。それならと、開き直って、ガマ口の親分みたいなものをつくったんだ」。仕入れ先の担当の人は、見たことのないそのバッグに「何だい、これは?」と首を傾げつつ、でもちょっと面白みを感じたのか「まあ扱ってみるか」との返事。「何か名前がないといけないね」と言われて、父は考えました。「そのころ、車のスバルのコマーシャルソングが流行っていてね。出がけにお母さんが口ずさんでいたんだよ。スバルスバルスバル、スバラシー、スバルスバルスバル、ステキダナー、って」スバル360、愛称てんとう虫。あの車のCMソングのようです。「車のキャッチコピーが、セカンドカーだったんだよね」。そこでふと「セカンドバッグ、ではどうでしょう、と提案したんだよ」。そんなわけで無事に扱ってもらえることになったのです。

とはいえ、すぐに注文はきませんでした。「だからさ、その分、子育てができたんだよ」。産後の肥立ちが悪い母に代わって、私の子育ては父が受け持っていたのです。が、やがて、このセカンドバッグが大ヒットしてしまいます。まとまった数の注文が入り、父は不眠不休で仕事をして、ようやく生活の目処が立ったのでした。その間には、以前書いたように、尾崎さんが資金面で支えてくれたことも大きな助けとなっていました。

『大吉の籤』には、以下の一文があります。

「しょうがありませんね。これでCさんの仕事が失敗だったら、大吉のくじも形無しじゃありませんか」と妻がひやかした。「C君がしくじるか成功するか俺には判らない。しかし、彼にはやる気がある。それだけははっきりしているからいいさ」

昭和三十五年(一九六〇)の作品ですから、ちょうど父が悪戦苦闘している頃。きっと尾崎さんは気がかりに思いながらも、父を信頼してくれていたのでしょう。

また、同年の作品『仲人について』には、父についてのこんな一文があります。

昌久君は、私の家を非常に心易く思うらしく、時々やってくる。そしていろいろ愚痴をならべたり、かと思うと自信あり気に抱負を述べたりする。私はうちの長女と長男の丁度間の年頃の彼を見ると、どうも未だ一人前に扱う気になれず、自分の子供に向って云うような注意を与えたりするが、実のところ、彼のやっている仕事に口出しする資格は無いのだから、私の云うことが何かの足しになろうという自信はない。ただ、うまくいくことを願っているだけだ。

両作品を読んだ当時の父は、どれほど励まされたことか。尾崎さんが父のことを度々描くのは、小説の題材として好適だったところもあったでしょうけれど、何かしらの形でエールを送り続けてくれたのだと感じます。

結婚し、私が生まれてからは、家族で尾崎家を訪ねるようになりました。父が一人で行くこともあったようですが、私たちは夏休みか、年末か、年始か、そんな時に行っていたと思います。一番印象に残っているのは、尾崎家の飼い犬、ボンです。スピッツでしたが、なかなか威勢がよく、ちびっこに向かっては盛大に吠えつけるため、一緒に遊べる犬ではなかったけれど、会うのが楽しみでした。

ボン、という名前で思い出しました。尾崎さんがボンタンアメを手にして、「このお菓子はね、蛇の血でできてるんだよ」と子どもの私をからかったこと。箱にみかんの絵が描かれているのに、蛇の血? 言わんとする意味を理解しあぐねながらも、以来ボンタンアメを食べるたびに、これって蛇の血の味なのかな、と思うのでした。

では今回も、松枝さんの名セリフでお別れです。

三十六計眠るにしかず──おやすみなさい!


※冒頭の写真は、一九六二年一月四日に尾崎家を訪ねた時のスナップ。生後七カ月を過ぎた私は、慎重に育てられたおかげで、丸々と太っていて、肥立ちの悪かった母もふっくら顔。写真を撮ろうと、外に出てきたところを隠し撮り、といったワンカット。尾崎さんも松枝さんも、リラックスした姿。尾崎さんは、この時もタバコを手にしている。


尾崎文学の魅力の再発見と、戦争のない世の中のために。読んででいただけると嬉しいですし、感想をいただけるとなお嬉しいです。