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父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと1


タイトルにした「父の小父さん」から、ある人は、映画化された北杜夫原作の「ぼくのおじさん」を、ある人は、ジャック・タチの「ぼくの伯父さん」を、またある人は、歴史学者である網野善彦さんについて中沢新一さんが綴った「ぼくの叔父さん 網野善彦」を想起するかもしれません。

「父の小父さん」には、血の繋がっていない小父さんが、父を掛け値なしの大きな愛情で支え、実の親以上に見守り続けてくれた、その奇跡のような関係を、子どものころから不思議に感じ、ありがたくも思っていた、娘である私の気持ちを込めています。

私は小父さんのことを、「おじいさん」と呼べませんでした。父には「おじいさんと呼びなさい」と怒られましたが、そこは頑なでした。小父さんには血の繋がった立派な孫がいるのだから、と子ども心に遠慮していたのです。当時の小父さんは世間に名の知れた人でしたから、そんな偉い方を馴れ馴れしく呼んではいけないとも、思っていたように記憶しています。

父の大好きな、大切な、懐かしくてならない小父さんは、タイトルにもある、作家の尾崎一雄さんです。今となっては、日本文学通の人でないとピンとこない名前かもしれませんが、志賀直哉の弟子で、私小説作家として戦前戦後に活躍。芥川賞と二度の野間文芸賞を受賞し、芸術院会員であり、文化功労賞、文化勲章も授与されました。

『暢氣眼鏡』、『芳兵衛物語』、『虫のいろいろ』などが代表作ですが、父や父の家族のことを題材にした作品もあります。『家常茶飯』、『運といふ言葉』、『山下一家』、『大吉の籤』、『仲人について』などです。これらは、父が当時の掲載文芸誌を今も大切に(というにはかなりボロボロなのですが)保管しているため知ったことで、読んでみてつくづく思うのは、ごく平凡な市井の人間の出来事を文学作品として意味づけてもらえている、そのことのありがたさです。

父から断片的に聞いている父や父の家族の話が、尾崎さんの筆致によりほぼ正確に残されていることも、身内としてはこの上ない財産で、知るはずのない当時の風景を追体験することができるのです。

私はこれから、父と尾崎さんの関係について、父の人生について、つれづれ書いていこうと思っています。

ちなみに父は健在です。こうして書きながら、また少し思い出話を引き出そうと目論んでいます。

私の実家は東京の東の端っこにあり、今は父がひとりで暮らしています。二年前に母が亡くなり、この三月に三回忌を無事終えました。毎朝、父は目覚めると、仏壇のある隣の部屋の襖を開けて「お母ちゃんおはよう、って声を掛けるんだ。生きてた時と一緒だよ」とちょっと照れたように、言います。

重度のリウマチだった母を、父は長きにわたって介護してくれました。仕事のある私と妹に、仕事を辞めたらダメだ、と言い、経営していた会社をたたんで、母の介護に専念することを決意します。癇癪持ちの父は、介護疲れで母に当たることもあり、そんな時には、母が泣き声で電話をかけてくることもままありましたけれど、一度施設に入った母が、家に帰りたいと言い出し、自宅に戻った最後の九カ月、父の献身的な介護は見事でした。ヘルパーさんや訪問看護をフルに利用してもなお足りないガラス細工のような脆弱な体になった母のケアを、父は十二分に補いました。

及ばずながら、私も妹もサポートしましたが、母は私たちに自分の体を見せることを嫌がっていました。母親としての尊厳を守り続けたかったのだと、今は思います。父は、棒のように細くなった母の足を、朝な夕な、時間をかけて足浴でほぐしました。

眠剤を飲まないと眠れなかった母は、服用してしばらくすると痛みが消えて楽になり、よく父の昔話を聞きたがりました。母の好きな話がいくつかあって、それを繰り返しせがんだそうです。中学生の父が子豚を育てた話とか、川で小魚をとって鶏の餌にした話。

母はすでに末期的な症状でしたが、幸福な時間だったと思います。

眠剤のせいもあり、母は朝の目覚めが遅い人でした。早起きの父はストレッチやラジオ体操、庭や道の掃除などを終えると、母の部屋に行って、「お母ちゃんおはよう」と、母をベッドから起こすのが日課でした。

生前、母は「もう目が覚めてるんだけど、お父さんが起こしにくるまで、寝たふりをしているの。時々来るのが遅くなって、退屈しちゃう」とこっそり私に告げて笑うことがありましたけど。

桃の節句の朝、父は母の様子が気になって日課の前に部屋に入ると、布団から足先が出ていたので、「おはよう」と言いながら布団をかけてあげようと足に触れたところ、氷のように冷たかった。もともと冷たい足でしたが、異常を感じ、まさか、と思いながら枕元に行き顔を見たら、ぽっかりと口を開けて息を引き取っていたといいます。

母は、「今だってこんなに辛いのに、死ぬときはもっと辛いのかしら」とポツリと呟くことがありました。だから、まるで眠るようにこの世から旅立てたことは、不幸中の幸いでした。

出張先での早朝、連絡を受けた私が実家に着いた昼ごろには、すでに検死が終わっていました。

自宅で亡くなった場合、検死は避けて通れないことです。自然死か、事故か、故意か。形式的ではあっても、きちんと取り調べるのが、警察官の仕事です。父にとって辛いひとときだったと思います。が、立ち会った警察官は、リウマチでひどく歪曲した体躯とはいえ、母の肌はとても清潔に保たれていて、父の介護がどれほど献身的だったかを母の身体は物語っていたのでしょう、綺麗な体ですね、大切にお世話なさってたんですね、と父にねぎらいの言葉をかけてくださったといいます。

先の見えなかった介護の終幕、警察官のその言葉は、父にとって大きな慰めとなりました。

夕方には斎場の人が訪ねてきて、早速に打ち合わせ。火葬場の関係で何日か先、といわれたときに、そんなに母をここに置いておいたら父がもたない、と感じました。交渉上手な夫のおかげで、なんと翌日に通夜が営まれることとなりました。

翌日の午前中には納棺、そして斎場に運ばれることになりました。玄関から棺桶が出る時、父はこの世の終わりを嘆くかのような声で、「お母さんが行っちゃったよ」と言いながら、へたり込んでしまいました。その姿は、ヘナヘナとオノマトペを添えたくなるような、サザエさんの四コマ漫画さながらでした。

そんな父を見たことがなかったので、私は戸惑いました。お父さん、もっと気丈でいてよ、と思わずにいられませんでした。

ああ、でもきっと、あの時の父の心の中では、妻の死の悲嘆だけでなく、妻という大切な存在の死によって、遠い昔の大きな喪失がフラッシュバックしたのではないかと思うのです。

父の、遠い昔の大きな喪失。

東京大空襲の犠牲となった家族。父の両親と兄と妹。

三月十日未明、東京下町がB29の爆撃により焦土と化したあの日、深川の木場にあった社宅の防空壕で、家族は窒息死したのです。学童疎開の年齢だった父だけが、伊豆に縁故疎開していました。一夜にして父は、天涯孤独の戦争孤児となってしまいました。十万人の犠牲者を出した世紀のホロコースト、東京大空襲は、たくさんの、本当にたくさんの悲劇を生みました。

親を、子を、兄弟を、恋人を、友人を、失った人。瀕死の重傷を負った人、家を焼き出された人。私が体験したわけでもないのに、あの空襲の映像や画像を見ると、戦争の理不尽がまざまざと伝わり、息苦しくなります。

人の生死の境目とは、ほんの紙一重のことです。何気ない判断で、明暗が分かれます。

尾崎一雄さんの夫人である松枝さんが、まさにそうでした。その経緯については、尾崎さんの作品『運といふ言葉』に描かれていますが、松枝さんの幸いと父の不幸が、父と尾崎さんを結ぶ紐帯となったのもまた、運命の不思議なのでしょう。

尾崎一雄さんは、一九八三年の三月三十一日に八十三歳で亡くなりました。尾崎さんの家柄は神社の神主で、お父さまは伊勢の皇学館の教師でした。告別式は、下曽我の宗我神社で神式でしたが、竹馬の友だった神主さんの祭詞は、涙を誘うものでした。この時も、父の喪失感はかなりのものでした。

一年後、尾崎さんの一年祭(仏教の一周忌と同様の祭事)を前に、偲ぶ会が開かれました。松枝さんの心遣いで、父は尾崎さんとの思い出を、集まった方々の前でお話しすることになりました。その文章は一九八四年の神静民報(地元の新聞)に掲載されました。

まずはしばらく、父が書いたその文章を少しずつ引用しながら、尾崎さんの作品も抜き出しながら、父の小父さんの物語を紡いでいこうと思います。

それでは、今日はここまで。尾崎さんの作品『末っ子物語』の中に、子どもの頃からお気に入りのセリフがあります。松枝さんのお茶目な名言で、私の座右の銘でもあります。

三十六計、眠るに如かず ─── おやすみなさい!

※トップの写真は、父の本棚の一部。



尾崎文学の魅力の再発見と、戦争のない世の中のために。読んででいただけると嬉しいですし、感想をいただけるとなお嬉しいです。