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好きな人=会いたい人でもないという話

みなさま、ごきげんよう。
天気が不安定ですが、いかがお過ごしですか。

ちなみにこの「ごきげんよう」
娘が通っていた学校で使用されていた挨拶です。

噂には聞いていましたが、いざ入学してみると、本当に先生のみならず、ご年配の守衛さんまでもが、日常的に使用していてとても驚きました。
科長さんに至っては、冒頭の挨拶はもちろん、締めの言葉もいつもこれでした。

母子ともにこの学校には馴染めなかったのですが、この挨拶は古風な感じがして悪くないなと思います。


ところで、みなさんは「会って話したい」と思う相手がいますか? 私は、「会いたい」と思う人が浮かびません。

魅力的だなあ、とか、かっこいいなあ、とか思うことは結構あるんです。長く付き合っている友人も、少ないながらいる。

でも、その人達ですら「会いたいな」と思わないんですよね。まず「会ってどうするんだ?」と思っちゃうんです。

いやいや、話したいことあるでしょう? となるんでしょうけど、まあ確かになくもないんですけど、今度は「話してどうするんだ?」と思うわけです。

もちろん、自分が好印象を持つ相手から誘われたら、ものすごく嬉しいんです。軽く小躍りしたくなるほどに。

でも、その1秒後におとずれる感情が「困ったな」なんです。好きな人の誘いを断るのは嫌なので「困る」のです。


なぜ好意を感じている人の誘いすら気がすすまないのか・・・

考えてみれば対人だけではなくて、例えば、すてきな風景を集めた写真集をみて「わあ、素敵!」とは思えど、「この景色を自分の目で見てみたい!」とはならない。

美味しそうなレストランが紹介されていても、じゃあ、食べに行こう!とはならない。見てるだけで満足。

感じていないわけではない、むしろ感じることはままあるんです。
ただいつもどこかでブレーキがかかる。

好意をもつ人や物に対して夢中になり、そこにエネルギーを吸い取られたら怖いな、って思うんです。

色々浅いままが楽なんですよね。その関係性に縛られず、責任も持たず。

好きな人に好かれたらとても嬉しい、でもその事実だけで十分。

その事実があれば、例えば、たまのメールとか、その人のインスタグラムを覗くとか、時間のないときに偶然ばったり会う、とか、そんな程度でちょうどいい。

こんな素敵な人が私を想ってくれていたという心躍る事実を、日々の生活の中で時々思い出すだけで充分なんです。それで満ち足りる。



長女は、江國香織さんが大好きなのですが、彼女に薦められて呼んだ本がこれ。

江國さんの本は、ほかにも何冊か読みました。私は彼女の作品にはまることはなかったのですが、この本は心に残っています。江國さんの最高傑作としてあげてる方もいらっしゃる。

江國さんの伝えたい事とはずれずれだと思うのですが、彼女の描く「恋した人を待つ続ける日常」が、私の妄想する世界に近かったです。

会ってしまえば、話が永遠と続くわけでもなし、手に入れれば薄れていくことが分かっている。

結局待っている時間が一番妄想が広がる。
そして妄想上の幸福はコントロールが効く。

この話からすると、ロマンチストに聞こえると思うのですが、性格判断テストなどでは、私は「現実的、論理的、客観的」に大きく振れるんです。

カッコつけてるのか、
はたまた、単なる臆病ものか。

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