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所詮国内MBAだと批判してみる 〜早稲田ビジネススクール体験談〜


勉強が嫌いだ、それでも勉強をしに行った

批判的記事を書く前に、私自身は全然ダメだということについて1章使って説明をしたい。

私には学歴コンプレックスがある。高校は県内トップ校、学部は慶應、そしてMBAを取得予定。この学歴を並べて、学歴コンプレックスがあると言うのは、嫌味な奴だと我ながら思うが、自分は勉強が出来ると思ったことは少ない。

高校の成績は常に下から数えたほうが早くて、赤点&追試ばかりの日々だった。大学もなんとか行けたが、浪人をしている。浪人しても結局行きたい大学(早稲田)には行けなかった。学部の卒業も、単位は取れればいいやと思っていて、成績は決して良いものではなかった。そして社会人になってもずっと自分の中には「勉強できない」という考えがつきまとっていた。

そして、気分が落ち込んだ時には、自己効力感が低空飛行して、他者からは「バカだと思われているんだろうな」と評価を気にする。MBAを取得しようと決心した理由は複合的だが、その中の1つに学歴コンプレックスの解消はあった。

批判的なことを書こうと思った理由

大学の2年間で出会った人(学友、教授すべての人)や、大学で経験したこと全てに感謝している。3月7日に成績発表があり無事に卒業が確定した今だから、あえて批判的にMBAでの体験を残そうと思った。

私は今回に限らず、なにか新しいことをするときは「違和感」を大事にして書き留めている。例えば、転職した時とかは新しい職場で感じた違和感を毎日リストアップして、自分の感覚が風化していくのを観察していた。なので、今回もそんな私自身の思考と行動のクセから記事を書いている。

改めて新しく出会った学友、たくさんの知識を惜しみなく与えてくださった教授には感謝している。MBAで学んだ全ては1つ残らず大変貴重な経験だった。一般的にMBAの「凄さ」や「有用さ」については顔が見える形で語られることが多い。しかし、批判的なことは匿名だったりするし、批判はあまり語られないので、自分がこの2年間で感じた批判的観点で、風化する前に自分の考えを残そうと思ったのだ。

ここまで読んでいる皆さんは今そっと記事を閉じる選択肢があるので、読まないこともオススメしておく。

夜の早稲田はちょっとこわい

所詮、過去を見ている

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ

ビスマルク

名言ですね、これを否定するつもりはない。MBAは賢者が多いアカデミアの場で、歴史から学ぶ人が集う場所だ。私はアカデミアに対して、解像度が高くなかった。だからかもしれない、MBAに対して何か見えない期待を膨らましていた。その期待をいい意味で裏切ってくれたのが、1年時に履修した根来先生が発した言葉で「学者というものは、過去からしか学べない」。

MBAで学ぶ内容は、昔の研究者がビジネスという生き物を研究して、体系化・類型化されたもの。つまりその対象の生き物はすでに死んでいるかもしれないし、次々産まれる新しいビジネスには追いついていないことも多い。

教授は口を揃えて言う「VUCAの時代だから変化に対応できる術としてMBAのアカデミアが有効」なのだと。VUCAの時代に、学生に提供されているアカデミア、そのもの自体は付いてこれているのだろうか?

私が学んだのはビジネスの古典で、何十年も前の有名な学者の理論だ。ポーターの5フォースや、コトラーのSTPを学ぶことと、リアルビジネスの現場で起きていることとの乖離が大きすぎる。MBAではケースメソッドという学習方法があって、そこで扱われる内容は、何十年も前で、古めかしいのも、私には合わなかった。そもそも過去を学ぶ場だと想像もしていなかったから違和感に思ったのだろう。死んだビジネスを学ぶことも多い、それがアカデミアだ。

そんな中でも、新しそうなモノも存在していて、私は「エフェクチュエーション」を研究できる樋原ゼミを選んだ。エフェクチュエーションは比較的新しい起業家の思考様式を分析して導かれたロジックだ。新しいといっても、2008年に発表されたもで、16年も前だ。MBAで学ぶのは古典だと割り切っておけば何ら問題ない。

所詮、大企業から人が集まる

学生の多くは大企業に所属している。業界業種の異なる学友との交流は貴重で、面白い。けれども目から鱗が落ちるほどのダイバーシティーは実現されていない。

私の感覚値として、大企業の人は70%、女性比率は30%、平均年齢は35歳といったところだ。私が普段ビジネスで生きている世界とそこまで違わなかった。MBAには勉強をするモチベーションの高い勤勉な学生が集まる。優秀な人に囲まれ劣等感を感じながらも、「隣の芝は青くない」と思った。

授業で行うグループワークの進め方のちょっとしたところで、垣間見える大企業のお作法。大企業のお作法は、社会で生きていく上で必要になる共通スキルなのかと錯覚する。学校に来てまで、ゲンナリしなければならないのかと思うことも多々あった。もし私が別の会社に転職をしたとしても、あっと驚くようなことは無いのだなと思えたのは収穫でもあった。日系大企業は、どこの会社も、同じ日系大企業という枠の中に存在していて、社名が違うだけくらいの小さな事で差なのかも知れないと思えた。

アカデミアもD&Iを強く意識しているようだが、そもそも入学試験があってスクリーニングされているはずなのに、選んでいる人(教授)が合格を与えた生徒たちは偏っている気もする。いや、そもそも入学を志す人が同質なのか。そうか、私がMBAを取得すること自体が「大企業の人っぽい行動」なのか、と納得した。だから、それを自認してMBAを選択をすれば何ら問題ない。

所詮、教授は「会社辞めろ」とそそのかす

この2年間で何回、教授から「会社をやめて起業したらどうか」「今の大企業をやめて転職したらどうか」という言葉を聞いただろうか。自費でMBAの学費数百万円を払って来ている人が多数派(一部は企業派遣や、会社の補助金があるらしい、羨ましい)で、将来のキャリアを考えるのは至って自然だ。

そんな中で、教授のこの言葉がどれだけ威力を持っているのか、教授たちは分かって言っているのか?言うべきでないとは決して思わない。自分の人生は自分だけのものなので、それが良いきっかけとなって新しい人生が切り開けることは素晴らしいと思う。しかし、そそのかされていると違和感を感じたら耳を貸さないのも手段だ。

きっと将来、その会社を代表できるくらい優秀な人が、外資系起業に転職をしていくのをみて少し淋しい気持ちになった。(決してその人がそそのかされたとは言っていない)。でも、まるで大企業で社会に大きな影響を与えるビジネスをすることの素晴らしさが悪のように扱われ、環境を変えない選択をする人たちを過小評価する傾向があるという感覚を持った。これは大きな違和感だった。将来、転職するかもしれないし、起業するかもしれないし、そのきっかけが教授の言葉かもしれない。でも無責任な文脈で発せられた言葉ではなく、本当に親身になってくれた人の言葉だけを信じる。

教授たちはビジネスで大成されたから、教育の現場に来ているのか、その理由は知らないし、親心から転職を勧めるのかもしれないし真意は理解しきれない。でも、教授という仕事を何十年も続けているあなた達はどうなのですか?と聞き返したいものだ。

所詮、MBA、しかも国内MBA

最近、テスラCEO、米企業の「MBA化」を批判という記事に出会った。
MBAホルダーが撒き散らす害悪もあるということを言っているようだ。

私は入学前まで、海外MBAはすごくて、国内MBAは凄くないと思っていた。そしてMBAというものは一種の学歴ロンダリングだと思っていた。蓋を開けてみると、会社と同時並行で学生をやるのはタフでそんなに容易じゃなかった。私の周りの友人はいい人ばかりで、MBAに行っていることを伝えると応援をしてくれた。「所詮MBA」という言葉をかける意地悪な人は居なかった。

だからこそ、MBAを選んだ私本人は少なくとも「所詮MBA、しかも所詮国内MBAなんだ」と思っておかないと、勘違いしてしまう。学歴コンプレックスがあるから余計に。

会社はMBAを取ったことを評価はしてくれないし、仮に転職したとしても評価をしてくれる会社は少ないのが実情な気がする。だから、MBAは自己満であり趣味だと思うくらいが丁度いい。MBAを取る過程で出会った学友や、学友と学んだ素晴らしい経験は美しいとおもう。でも、MBAを持っていることが運転免許証のように、ビジネスという乗り物をスイスイと乗りこなせるようになるものではない。だから、MBAを取るまでが価値があるのであって、取ったあとに価値を求めないようにしたい。アインシュタインの言葉は忘れないようにしようと思う。

教育とは学校で学んだことをすべて忘れたあとに残るものである

アインシュタイン
何か写真を入れようと思って今読んでいる本たち

良かったことは数えたら切りが無い

この記事の公開ボタンを押すのは勇気が必要だった。たくさん批判的な意見を書いたが、良かったことのほうが遥かに多い。だから、noteにはポジティブな記事もたくさん書き留めているので、そちらもセットでご笑覧いただきたい。

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