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短歌「読んで」みた 2021/11/28 NO.20

在り方はその一心に宿りおり雨の街路に薄明かり見ゆ
 古賀大介『三日月が小舟』2018年 六花書林

 在り方。ここで指しているのは個々の自らにおいてのことだろう。理想であり目標、指標。ではそれはどこからもたらされるのだろうか。自分はこうありたいと思う、思い。この歌ではそれを「一心」に宿るものとしている。「心」ではない「一心」。一心とは辞書には意味の一つとして、 心をただ一つのことに集中すること。他事を思わない心、とある。ただそれのみを思うことに宿ると作者は言うのだ。宿る。見つけて持ってきて掲げるものではない。日々暮らす中で自然と生まれるものを指すのだろう。

 そんな上の句に続く下の句は静かな叙景である。これがあることで、作者の内での「在り方」への考えが際立つ。雨の街路にほんのりと光るあかり。灯火を薄明りと言っているところから、そう感じる時間帯の景だろう。濡れる雨の街路に高揚したものを見るのは無理というもので、おそらく静かな風景でもある。幻想的で美しく、上の句を延べたいところを補強している。

 目標とか信条とか、高らかに掲げるものという思い込みが私たちにはある。しかし、それをずっと掲げ持っているというのはなかなか現実的ではない。上がる時も下がる時もあるのが人、人の気持ちというものだ。在り方とはなにか。どうあるべきなのか。それはそれぞれ違うが静かに、それでも胸にあるものが在り方というものだろうと気付かされる。
 それは小さく些細なものである。しかしその些細なものにこそ、尊いものが宿る。そんな感慨を持った一首だった。

 * * *

 おそろしくつらく、しんどいと何もかも手放したくなる。どうでもよくなるとも、それどころではない、とも言える状態。ダークサイドはいつだってすぐそこにあって、そんな状態でも手放さずに持ち続けることは難しい。そしてそうやっても持ち続けるもの。

 また、在るからやるのではなくて、やるから宿る。私にはそう読み取れた。世の中では目標を持つことを推奨されるけれど、真逆だ。これは体感から生まれたものなのだろうと思った。どれほどの体感から生まれたのだろう。結構な経験と時間の積み重ねがあるのではないだろうか。それが土に染み込んだ水がやがて地下水となって湧き出すように言葉となる。こういうものが短歌となって自分のもとに届く。短歌を読む喜びはこういうところにもあると私は思っている。

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