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スウェーデンの野に夏花ぞ咲く 金栗四三の短歌 前編(note版)

日本人初のオリンピアンの一人、金栗四三は短歌を作る人でした。その作品をその半生とともに辿りました。前後編の前半。約7800字。見出しつけてます。

執筆の背景

TOKYO2020。感染禍となり1年遅れとなったオリンピック。
聖火リレー東京のラストは一昨年、NHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』で金栗四三役を演じた六代目中村勘九郎さんでした。頭は役を演じていた頃のような丸刈り、足元は足袋型の金栗シューズ、「行ってくるばい」と一言の後、金栗さんの編み出したマラソン呼吸法で走り出す。こうして日本人初のオリンピアンの一人となった金栗四三を顕彰してくれるのかと、胸が熱くなったものです。

金栗四三は明治生まれのマラソン選手・教育者です。初マラソンで世界新記録(これについては諸説あります)を達成し、日本人として初めてのオリンピアンの一人となり、その後オリンピック三大会出場した人。
ドラマの前半、初めてのオリンピックに向けてストックホルムで悪戦苦闘する日々を描写する中で、ある短歌が映りました。

奮闘の
声もとどろに
吹きならす
すゑでんの野に
夏花ぞ咲く

縦書きで上記のように五七で切られていましたが、これは短歌。美しい下の句。しかも係り結んだりして技巧的ですらある。別の特集番組では、こちら、「短歌『読んで』みた2021/07/11 No.8」に取り上げた歌が放送されていました。

 マラソン選手と短歌。全く結びつかず、面食らった気分で視聴しました。もしかして他にもあるのではと思い至り調査の結果、結構な数の短歌を発見。まとまった数集まったことにより、この稿を書こうと思い至りました。

 前後編と二部構成の前編です。こちらでは金栗四三の前半生をなぞりつつ、時期ごとに詠まれた歌を紹介、さらに短歌とのつながりを考察しています。詳しい鑑賞は後編に。

約7000字。初出:短歌誌『梁98号』2020年 。加筆2022年3月。

 本来、見出しはありませんでしたが、note版としてつけてみました。

本編ここから


スウェーデンの野に夏花ぞ咲く 金栗四三の短歌 前編


 NHKの大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』が終了してしばらくが経った。この数年、大河ドラマの舞台となったことで筆者の住む熊本はなにかと金栗四三が話題となった。昭和46年生まれの筆者は金栗の生前の姿を記憶しているギリギリの世代である。昔走るのを頑張ったおじいちゃん。マラソンの大会でスタートのピストルを鳴らす満面の笑顔のおじいちゃん。それが印象の全てである。

金栗四三は短歌を作っていた

筆者の子供時代、熊本では学校の授業で長距離走の手ほどきを受ける時、初めに「すっすっはっはっ」という二度吸って二度吐くという呼吸法を基本として習った。ドラマ中でも印象的に使われ、筆者が今も走る時についやってしまうほど叩き込まれているこれは、金栗四三が考案したものである。金栗記念という長距離レースもあるし、箱根駅伝を作った人であり最優秀選手の賞として金栗四三杯もある。マラソンの父と言われる偉大な人なのに、当たり前になってしまって全く振り返ることのなかった金栗四三という人を大河ドラマをきっかけに見つめ直すこととなった。大河ドラマはご当地にとってお祭りである。筆者の住む熊本ではなにかと金栗四三であり、しかも近世であるから自分や周囲の人に関わりのあるもの、近在がよく映り、エキストラ出演したという知人もいる。熊本が映るシーンはよく見たものである。ドラマを見続けて2ヶ月ほど経った頃だったか、あるシーンが目に止まった。

  奮闘の
  声もとどろに
  吹きならす
  すゑでんの野に
  夏花ぞ咲く

 美しい草原をバックにこの短歌が映った。放送では分かち書きで、この表記だった。短歌とのつながりをひとかけらも思わず見ていたので驚いた。それは初めてのオリンピックに参加した金栗が道中と現地で書いた日記にあったものであるらしい。穏やかな詠みぶりが印象に残ると同時に、違和感を感じもした。淡い色調の水彩画のようなこの歌を詠んだのは日本初のオリンピアンの一人なのである。ドラマ中では果てしなく快活な人物として演じられる金栗四三とのギャップが大きくて、強く記憶に残った。この歌はドラマの別の回と、さらに別の日に放送された大河ドラマ関連番組にも登場した。この時、金栗の自筆のものが映ったが、録画で確認してもスウェーデンはカナでスエテンもしくはスヱテンであり、漢字であろう部分がひらがなになっていたり助詞がカタカナになっていたり、走り書きの様相であるので、金栗の生前、昭和30年代に当時熊本日日新聞の記者だった長谷川孝道氏が夕刊紙上の連載のため取材し、後に編まれた評伝『走れ二十五万キロ』に載っている表記に拠ると以下のものである。

奮闘の声もとどろに吹きならすスウェーデンの野に夏花ぞ咲く

 金栗が自身としても日本人としても初めて参加したオリンピックは1912年(明治45・大正元年)第5回ストックホルム大会である。まだ冬季オリンピックは無かった。場所はわからないが歌の風景は野外であり、ここで言う奮闘の声は練習に励む選手たちのさんざめく声だろうか。高緯度の国の美しく淡い夏の光の下に咲く花々。この風景をこのように描写して、結句は係り結びで手堅く歌を締めている。
 関連番組ではもう1首、歌が紹介された。

道ばたの野バラをつみてわが部屋にいけて眺むるここちよきかな

 こちらも『走れ二十五万キロ』に掲載されている表記でここでは読む。旅行ではなく出場選手として現地にいるからして、出歩きと言えば宿舎と練習場やスタジアムの往復であっただろう。その道すがらどこかで出会った野ばらに目を止め、そっと摘んで帰る姿。花は手折ればすぐしおれる。うまく持ち帰り、その後部屋に生け、眺めている二十歳の若者の姿がそこにいる。どのような表情でそこにいるのだろう。どれほどこの花に癒やされたことだろう。こちらに想像の余地を与える。結句に詠嘆・感動を表す終助詞「かな」を使ったことで格調高くも抑えられた高揚感が漂う。
 特別な体験をして、急に短歌を作った類とは少し違う気がした。歌と自分との距離が近い。日常的に歌が近くにある気配を感じた。このような歌を残した人のことが知りたい。他にも歌があるのだろうかと調査を始めたことがこの文を書くきっかけである。それにしてもドラマ中の金栗に設定された快活で猛進型の性質や背景と、この短歌とは乖離とまではいかないが、感じたギャップも解決したい。その半生を追いつつ歌を紹介し、歌を詠む金栗の背景となったであろうことを見ていきたい。

生い立ち

 金栗四三は冒頭で述べたように、昭和の終わりまで存命であった人物である。亡くなった歳は92歳と長命であったから筆者は晩年の姿を記憶しているのであり、生まれは今現在から見ると130年弱を遡ることとなる。60代の金栗に直接取材し、金栗自身も記憶のみに頼らず写真や手記をもとに語った、ということからより正確な資料として『走れ二十五万キロ』を基にして紹介していく。

 金栗四三は1891年(明治24年)8月20日、熊本県の西北部、熊本県玉名郡春富村(現在の玉名郡和水町)の中林に生まれた。十五、六代続いた村の旧家である金栗家の、8人兄弟の7番目。父である金栗信彦が43歳の年に生まれて名は四三となったという。

名前の読みについて

四三は「しそう」と読む。この読みについて、名誉市民として顕彰し多数の資料を保管している玉名市、生家のある和水町、通った高等小学校のあった南関町の一市二町では近年「かなくりしそう」と統一したという。筆者が郷土の偉人として学校で習った時は、「かなぐりしぞう」「かなぐり先生」だった。この件について、姓については先に「かなくり」が正しいものとされた。名前についてはパスポートなど公的なものにおいても「しぞう」「しそう」と揺れが見られるが、周囲の人からは「しそう」で呼ばれ、本人もこちらが本当である、と発言したということで「しそう」と統一された。2018年のことである。
 私見ではあるがこれについて、昔の人は表記も読みもおおらかであったからではないのかと感じた。読めない字で書いては悪い、わざわざ訂正するのが申し訳ないなどの理由で、金栗と生きた時代が近い筆者の身内や知人には読めれば良いと同音異字やかなで表記し、読みが違っていても似ていればそれでも良いとする人が幾人も居た。場によって読みを変えていた人もいた。金栗も同じように、あまり頓着してこなかったのではないかと推察する。これは金栗の青年期のことであるが、遠い親戚である家に養子として入って後、戸籍上の姓は「池辺」となった。改姓以前にオリンピック出場など活躍していたため家族の理解を得て、金栗の言を借りれば「四股名」として生涯「金栗」を名乗ったという。とにかく、「かなくりしそう」なのである。

 金栗家は代々庄屋をつとめ、造り酒屋を営む裕福な家であったと言うが父が病弱のため酒造りは廃業し、金栗が生まれた頃には年の離れた長兄が役場に働きに出つつ母を中心に、一家で農業に従事していた。かつての繁栄を失ったその環境で、一人違う色を放つのは同居の祖母スマである。この祖母は父信彦の母で、『走れ二十五万キロ』中には「スマは今でいう才女だった。歌もよめば三味線も弾く。百人一首も暗しょうしていて、四三もその解説を聞かされた」という記述がある。金栗はこの祖母に「目の中に入れても痛くないほどに」かわいがられ、妹が生まれてからは祖母と一緒に眠り、寝物語にいろいろの昔話を聞かされるのが楽しみだったともある。スマの人となりについてのエピソードは金栗の記憶に基づいており、幼児期においてごく自然に和歌、五七の韻律に触れていたと言える。こういった特に意識して得たわけではない体験が後年、折りに触れ短歌を詠んだ金栗のベースとなった可能性がある。スマについては金栗の祖母としての記述しかなく、それ以上のことはわからない。金栗は明治24年生まれであり、没年や金栗と兄弟の歳から推測すると父母はともに明治維新以前の生まれであり、その祖母となると更にその上の世代である。その時代に庶民がみな日常的に歌を詠むとは考えにくい。金栗家は旧家であり、裕福な時代に嫁いできた人であるから、同じような家柄の出身であるとすればそれなりの教養を持っていたのかもしれない。金栗が短歌を詠むようになることに関して、教養がキーポイントであると思えてならない。

学童期 韋駄天(駆け足)通学の開始

 生まれてすぐから幼児期にかけての金栗は虚弱体質で、子守をする姉たちも泣き出すほどの激しい夜泣きをする。泣き出したら朝まで泣き通し、家中の人を困らせたという。しかしそれも4、5歳ごろには治まり、1897年(明治30年)小学校へ入学する。金栗が入学した春富村吉地尋常小学校(2014年、和水町立三加和小中学校新設のため廃校)は、家から歩いて10分ほどの場所にあった、4学年で100人ほどの民家同然の寺子屋形式の学校だったという。この時代ではよくある風景である。小学校時代の成績はその時代、順位は無かったが上の部だったという。最高学年になった時、人生の岐路とも言える最初の選択の機会が来る。それは高等小学校への進学である。小学校6年、中学校3年で義務教育という現代の学制に馴染んだ私たちが見落としがちなのが明治期の学制で、金栗が通った時期の義務教育の修業年限は4年、尋常小学校が終了するまでである。ここで終えることも当時としては珍しくもなく、男女ともそこから先は学費も必要となる「進学」であった。金栗の小学校からは毎年数えるほどの人数しか進学しなかったという。

 1901年(明治34年)、他の兄弟全員が尋常小学校の4年間で学校生活を終えているところに金栗のみがその次の、修業年限4年の高等科へ進学する。高等科は家の近所には無く、大原村相谷(現在の玉名郡南関町)にあった玉名北高等小学校(現在の南関町立南関第三小学校)へと入学した。学校までは遠く、石ころだらけの急峻な山道を通って約一里半というから6キロメートルほどだろうか。そこを同じ地区から通う仲間たちと通うのだが、その頃は駆け足で行く習慣であり金栗も入学と同時にこれに加わった。厳しい道程であったと言う。
 筆者は初冬に一部区間を歩いてみた。舗装されている今もそこは山道であり、ひんやりとした山かげは雨の日や真冬にはさぞ辛かっただろうと思える道だった。夏は蛇が這うというそこに取り残される恐ろしさから必死で走る中で、金栗は冒頭にも紹介した「すっすっはっはっ」という呼吸法を編み出した。吸う息と吐く息をそれぞれ2度ずつに分ける呼吸法である。金栗自身はこの呼吸法によって苦しさが消え、通学が楽しみになったという。毎日往復3里12キロメートルを走るこの登下校は仏教においてよく走る神とされる韋駄天をもじって韋駄天通学と呼ばれ、この日々が後年金栗がマラソンに取り組んでいくための体づくりとなった。そしてこの高等小学校への進学がなければその先、さらに進学で東京に出て教養を身につけることもないし、マラソン選手の金栗四三も生まれない。まず最初の大きな分かれ道であると感じられる。

旧制中学へ進学

 金栗はそこでも良い成績を修めた。韋駄天通学をし、下校は遊んで帰ったり子供らしい生活を送りつつも家に帰れば農作業の手伝い。勤労は体作りの一つとして取り組んでいたという。他の兄弟と同じように卒業後は農業に従事することを望む父を、金栗の優秀さに気づいていた長兄が説得し、4年後の1905年(明治38年)、旧制玉名中学(現在の熊本県立玉名高等学校)への進学を果たす。家から通える距離ではないため、寄宿舎に入った。1週間の終わり、土曜の午後には20キロメートルほどの距離を歩いたり走ったりして帰宅し、また日曜の夕方には同じように寄宿舎に戻ったというが、この時点での金栗にとって、高等科の時期同様、走ることはただの手段であって、好んでしていたわけではなかったようである。成績は特待生に選ばれるほどのものであったが、体育や剣道の時間は苦手に感じており、その頃校内で盛んだった野球やテニスの試合などには参加せず、一人2種目出場が決まりの運動会も、友達に頼み込んで走ってもらっていたほどだったという。その代わりではないが、その頃の金栗は読書を好んだようである。時間があれば勉強とは無関係な小説などをよく読み、更に大衆娯楽寄りの、講談の物語をそのままにまとめた講談本などは暗記するほど読み込んでいたという。あくまで娯楽としての読書だったようだが、講談の特徴は講談調といわれる独特のリズムにある。それは詩歌の世界の五七調とは違うが、独特の呼吸法といい、リズミカルなものを好んでいたのかもしれない。

東京高等師範学校へ進学

 中学も学年が進むとまた進路を考えなくてはならない。金栗は進学を希望した。家の金銭面を考慮して、国費や県費で行ける学費免除の学校を受験していくこととなる。一校目、大本命だった海軍兵学校は一次試験の身体測定で不合格となった。時代は日清日露戦争の直後。戦勝に勢いづいていた頃のことである。海軍兵学校は今で言えば防衛大学校が最も近い形態である。学費はかからず、卒業すれば海軍の軍人として大佐までの昇進は約束された、当時のエリート校である。中学生のあこがれの進学先であったという。その時患っていた結膜炎が原因で身体検査で不合格となり、成績は十分だった金栗にとって晩年『一生のうち、一番の落胆だったかもしれない』と振り返るほどの、かなりの挫折となった。次に金栗は上海にあった東亜同文書院を受験先に定める。東亜同文書院は大陸進出・日中提携などを掲げる旧制中学卒業相当の者対象の、初めて海外に設立された高等教育機関であった。国策として優秀な若者たちを中国で学ばせるという、現代の日本には似たものが見当たらない、あの時代ならではの学校と言える。5000人ほどの卒業生は日中関係のみならず、国際的に活躍する人を生み出している。海軍兵学校と同様、当時の中学生あこがれの学校だった。金栗も当時の若者らしくあこがれ、ロマンを感じたものとみられ、学費は県費で負担されることもあり、長兄を説得して受験の許可を得る。しかしこの試験は卒業直前の3月である。金栗はその時までに自信をつけておきたいと考えた結果、その4ヶ月ほど前に熊本市内で出張入試が行われる東京高等師範学校(現在の筑波大学)を予行演習として受験することも長兄の許可を得た。本命ではなく単なる予行練習なので受験するなら格好のよい大都会をと、より熊本から近い地域ではなく東京の学校を選んだという。果たして猛勉強などせず、直前に県央の山間部への泊まり掛けの遠足に参加したりしつつも合格。そして金栗は東亜同文書院は受験しなかった。それはこの合格に対する周囲の大きな祝福と、もしこれを辞退して次落ちたらどうするのか、という長兄の意見を受け入れたもので、金栗は予定を大きく変更することになった。受験を考えた全ての学校が当時の難関校であり、実際に海軍兵学校は不合格。東亜同文書院も不合格となる可能性もあったことを考えると長兄の意見は至極まっとうに感じられる。この時期のものと言われる歌が残されている。

今日なせばなし得ることをなすありと怠りのばす人ぞ甲斐なき
 一九の春を迎え 金栗四三

 数え19歳の日記の裏表紙に書かれていたものとのこと。満年齢ではなく数え年齢であるから、これは満18歳で旧制中学の4年時、次の4月で進級し最高学年となる年であり、受験の数ヶ月前のものということになる。新しく日記を用意してその使い始めに書いたものだろうか。歌というより目標、自戒の言葉である。今日やればやれることを、出来るだろうと怠けて延ばす人はどうしようもない、との意。あまりにも語感も小気味よく整えられているので、当時学生の間で流行った言葉か、それを真似たものかと調べたが似たものも見つからず、係り結びなどが冒頭に紹介した歌と作風が似ており金栗の作とみえる。尋常小学校時代から努力家の片鱗が見えていたと言われているが、この歌からはさらに強い意志が見え、更にこの先の長距離走を志してからの金栗を物語るかのようである。一般の者が読めるかたちになっている歌の中では、現状でこれが最古の歌であり、ほとんどの歌はこれ以降のものである。

 こうして金栗は東京高等師範学校に進学することとなる。東京高等師範学校在学中、オリンピック予選会に優勝し、日本人初めてのオリンピアンの一人になる。これが、金栗が現代までも伝わるマラソンの金栗になる決定的な岐路であったと言える。後編ではこれより後の、東京高等師範学校に進学してからの様子とマラソンとの出会い、そして折々詠まれた短歌を読みつつ多角的に見つめてゆこうと思う。


参考文献
・走れ二十五万キロ「マラソンの父」金栗四三伝 復刻版 長谷川孝道(熊本日日新聞社 2018年)
・「上海東亜同文書院」風雲録 西所正道(2001年 角川書店)
・「日本の成長と教育」文部科学省(昭和37年度) https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpad196201/
資料提供
・玉名市立歴史博物館こころピア



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