渋谷凛ちゃんとぶ

 くじ引きの結果、当たりを引いたのは凛と杏とプロデューサーの三人だった。

「ミュージカルねえ、タダで観れるんならまあいいや」

 杏は特に喜ぶことなく眠そうに言った。事務所の偉い人から有名劇団のミュージカルのチケットが三枚プレゼントされたので、あみだくじで誰がその三枚を手にするかを決めたのだった。

「あんまりミュージカルって興味なかったけど、歌と踊りはライブの参考になるんじゃないかな」

 凛はチケットに描かれたイラストを見ながらつぶやいた。大きなドラゴンと小さな鳥が対峙しているイラストだ。ミュージカルのタイトルは『飛行するものされるもの』というらしい。

「劇の演出や役者さん自身の演技も観ておいて損はないでしょう。楽しむことが第一ですが、いい経験になるのではないでしょうか」

 プロデューサーは落ち着いた声だった。杏は不満そうに言った。

「え、仕事の研究も兼ねて行くの? やだよそんな面倒くさい」

「なにも難しいことではありませんよ。座って劇を観て、興味があるところを見つければいいんです。双葉さんにはそれができるセンスがあります」

 プロデューサーは杏に目を向けて言う。聞いていた凛も話に加わる。

「有名な劇団だから、スタッフの人たちも超一流なんじゃないかな。その仕事ぶりを生で観られるなら悪くないんじゃないの」

「あー凛ちゃんまでそういうこと言うー。わかりました。適当に鑑賞いたします」

 こうして三人は、とりあえずミュージカルを観に行くことになった。


 チケットに記された座席は舞台のすぐ近くだった。劇場に訪れたたくさんの人々の間を通って、凛と杏とプロデューサーは席に座った。いっぱい人いるね、人気なんだね、と話しているうちに幕が上がる。

 ミュージカルのストーリーは、鳥たちが暮らしている小さな島に、強大なドラゴン軍が攻めてきて、鳥たちは生命を賭してドラゴンと戦うというものだった。ドラゴン軍と鳥軍の戦いの様子はそれぞれの勢力に扮した役者がワイヤーで身体を吊って、空中で演技をするという仕組みだった。空中で役者が直接接触するのは危険だから、照明や音で戦闘が演出された。ミュージカルらしく空を飛びながら歌うシーンも当然あった。

 三次元の空間を自由自在に飛ぶ演出は素晴らしく、飛びながら歌って演技をするシーンは観客をドキドキさせるものだった。あの劇団に入って飛べたらおもしろいだろうなと凛は感じた。

 最終的には鳥たちがドラゴン軍を退けてハッピーエンドという結末だった。劇場が拍手で包まれる中、凛たち三人は外へ出た。「少し喉が渇いちゃった」と杏が言うので近くにあった喫茶店に入った。席について注文した飲み物が届くと、プロデューサーの提案でミュージカルの感想を言い合うことになった。

「まー、おもしろかったです。これでいいでしょ、プロデューサー」

 杏が運ばれてきたオレンジジュースを飲みながら言った。プロデューサーは懐から出した手帳に杏の味わい深い感想を書く。

「わかりました、双葉さん。渋谷さんはどうでしたか?」

「空中戦がよかったと思う。私も飛べたら楽しいのかなって思った」

 凛はアイスココアを飲んでいた。プロデューサーは真っ黒なコーヒーを飲みながらメモを取る。

「このミュージカルの最大の売りはそこでしょうね。空を飛ぶものたちの戦いを描く。それが一本の劇として成立しているのは空を飛ぶ、ということに人を惹きつける魅力があるからだと思います」

 オレンジジュースを飲み干した杏がそれに応えた。

「確かに空を自由に飛びたいなっていうのは人間にとってはおもしろく思えることなんだろうね。飛行形態に変形するメカとか多いしさ。マリオもカービィも天使も空を飛ぶし」

 ココアを飲んでいた凛も話をする。

「空を飛ぶことに価値があるってことか。だからあのミュージカルにドキドキしたし、自分も飛んでみたいって思ったのかな」

 プロデューサーは手帳を閉じた。

「双葉さん、渋谷さん、ありがとうございました。会計は私がしますから、外で待っていてください」


 その翌日、一本の動画がインターネット上に投稿された。『空を飛ぶための筋トレ』というタイトルで、脚と肩甲骨の近くの筋肉を適切に鍛えれば、生身のまま空が飛べる、だからその筋肉を付けるトレーニングを紹介します、という内容だった。

 うさん臭いことこの上ないが、動画で筋トレを指導する男性は有名な大学で勤務する教員で、実際に動画の最後で彼は飛行してみせた。動画を見たユーザーの大半はただのネタだろうと思ったが、筋トレを実践した人々も少なからずいた。その結果、そうした人たちは空を飛ぶことに成功した。まさか人間が自力で空を飛べるとは、とたいへんな驚きが広まった。動画の再生回数はどこまでも増えていったし、テレビや新聞でも大々的に報じられた。

 それを受けて、生身で飛行するということが大ブームになった。飛行クラブと呼ばれる団体がそこかしこに登場し、みんなで集まって空を飛ぶことがクールだという印象を与えていった。

 しかし良いことばかりではなかった。筋トレをしても飛行できない、という人も多かった。それに関しては個人個人で素質のようなものを持っている人だけが飛べるという差がある、という説明が動画を投稿した教員から付け加えられた。また、世界中を見てみると筋トレ後に飛べたのは日本人だけだった。この点は「原因は不明」と教員自身もはっきりと理解できていない様子だった。

 飛行中は筋肉を使うから疲れるし、墜落したら怪我につながる。空を飛んでいる間にビルなどの高さのある建物にぶつかる事故も起きた。学校教室や会社で飛行できる素質がある者が飛行できない者を差別する場面も多く見かけられるようになった。継続してトレーニングをしないと筋肉は衰えるため、飛行するためにはまず筋トレをする時間を確保せねばならなかった。生身での飛行に関する法律の整備も必要になった。面倒くさいことはたくさんあった。

 それでも空を飛ぶことは大人気で、道を歩いていて上を見れば、たいてい飛行している人が目に入った。身体を鍛えて飛び上がる行為はロマンあふれるアクションだった。

 凛には飛行する素質がなかった。空中を飛ぶ人々を見るたびに、凛はもやもやした気分を抱いた。メディアは飛行を賛美し、凛と同年代の子たちも次々と飛び立っていった。空からスマホで写真や動画を撮るのが流行った。飛ぶ速さを競うイベントが催されるようにもなった。それを目の当たりにしながら、凛はアイドル活動をこなしていった。幸いファンが減ったりCDの売上が落ちたりはしなかったが、凛はいまひとつ引っかかるものを感じていた。

 仕事の合間、暇な時間ができたときに凛はプロデューサーに話をしに行った。

「ねえプロデューサー、地面を歩くってもう時代遅れっていうか、ナンセンスなものなのかな。やっぱり空を飛べる人のほうが、優れているのかな?」

 プロデューサーは穏やかな表情で凛の言葉を聞いていた。聞きながらなにかを考えているような顔だった。そのあと、凛の目を見ながら言った。

「お百姓さんも、牧場で働く人も、大工さんも、病院に勤める人も、地上で仕事をしています。それらの人にとっては地上でしか自身の力を行使できません。でもそれは素晴らしいことなのだと思います。いまのところは、空中で人間の生活が完結できるような仕組みは誕生していません。人間の生活の基本は地面の上でがんばっていく、ということでしょう。それに」

「それに、なに?」

「空中で寝たら墜落するでしょう。ぐっすり寝るならベッドの上か布団の中に入って寝るべきです」

 凛は察した。

「それ、杏が言ったんじゃないの」

「ご名答です。双葉さんは飛行の素質があるかないかと問われる前に筋トレはかったるいからやらないと言っていました。そういう態度を取ってもなんらおかしいところはありません。空に昇らずとも人は友達と出会えるし、お金も稼げるし、楽しい思い出は地面の上でも作れるはずです。ならばその方向で努力していくのも悪くはないでしょう」

 凛はプロデューサーの話を聞いて元気が回復してきたが、ひとつ気になった。

「プロデューサーは飛ぶ素質があるの?」

「私もあの動画の筋トレはやっていません。空を飛ぶこと自体には魅力を感じます。けれども人間は飛べないからこそ飛ぶことに憧れる。実際に私自身が飛んで、その憧れる心が別な気持ちに変わってしまったら少しさみしいと思うのです」

「飛べない人間だからこそ、飛んでしまったらその人間の持っている心がちょっとずつ変わっていくってことか……そこを私は嫌だって思ってたのかな」

 プロデューサーは深くうなずいた。凛の気持ちはだいぶ整理された。そこでプロデューサーは話題を変えてきた。

「ところで渋谷さん、実は新曲をリリースする企画が進んでいまして……」

「えっ、どんな歌を歌うの?」


 飛行ブームは一年も保たなかった。飛ぶための筋トレは身体に異常な負荷をかけることが判明し、不妊になるとか、飛行を続けていると将来的に身体能力が減衰してしまうとか、寿命が縮むなどの点を指摘する声が多数上がった。筋トレ動画を投稿した教員も筋トレを止めるよう呼びかけるようになった。最近まで飛行していた人の身体が壊れていくという具体的な例がたくさん集まると、飛行に興味を持つ人は消えていった。

 凛と杏は新幹線でライブ会場のある名古屋に向かっていた。凛が窓から空を見ても、人間は飛んでいない。杏は椅子の背もたれに寄りかかっていた。眠そうな杏が言った。

「凛ちゃん、ちょっと寝とけば? ここんとこレッスン漬けだったし、移動時間のうちに休んどこうよ」

「そう言われると眠くなっちゃうな……そうだね。少し休憩するよ」

 凛は力を抜いて目を閉じる。飛べない自分が飛べる空はライブ会場なんじゃないかと思いつつ、眠りに落ちた。

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