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池袋晶葉ちゃんが従うもの

 最近、自然と笑みが浮かぶようになってきた。池袋晶葉にとってアイドル活動が気分を高揚させてくれるエキサイティングでクールなアクションになったからだ。
 晶葉の歌が収録されたCDの売り上げは好調だし、TV番組に出演する機会も増えた。多くのメディアが晶葉を高く評価している。
 あるとき、打ち合わせの席で、プロデューサーが晶葉に言った。
「笑顔が増えたな、晶葉さん」
「これほど人気がついてくると、つい笑ってしまうのだ……あー、もしかして気持ち悪いか?」
「そんなことはない。担当アイドルの笑顔が見られるのはプロデューサーとしては嬉しいことだ」
「うむ。昨今のアイドル業界は強力な者たちがたくさんいるからな。その中で高評価されるのは良い気分だ」
「俺もいい気分になっているよ。プロダクションの偉い人たちもご機嫌だ。晶葉さんに予算をたっぷり回してくれた」
「なんと! デカいハコでライブをさせてもらえるのか?」
「いや、新曲を三ヶ月連続でリリースする企画だ。歌詞は同じだがそれぞれ曲全体のアレンジが違うものを発売する。ロックに寄せたバージョン、クラシック風のバージョン、ジャズ型のバージョンのアレンジを施した曲を三連発で出す」
 そう言うとプロデューサーは晶葉に企画書を手渡した。晶葉は素早く文面に目を通す。
「なかなか興味深い企画だな……おお、歌詞もいい感じではないか。早くレコーディングをして新曲をファンに届けよう」
 プロデューサーはそれを聞いてほんの少しだけ笑った。この男はだいたいいつも無表情なのだが。
「晶葉さんも変わったな。デビューしたばかりのころは歌うことにそれほど積極的じゃなかった。メカが関係してくる仕事のほうが好きだったろう」
 晶葉はニコニコして返事をした。
「機械いじりと同じくらいアイドル活動が好きになってきたんだ。この企画も絶対に成功させようじゃないか」
「そうだな」
 ふたりは打ち合わせを続けた。

 まずロックバージョンの晶葉の曲がリリースされ、その評判が徐々に聞こえてきた。会議室の机の上にプロデューサーが小さなノートパソコンを置いて、画面を晶葉に見せた。ファンが述べた晶葉の曲の感想が映っている。プロデューサーがSNSやニュースサイトの記事を集めてテキストにまとめたものだった。
「うーむ……『池袋博士の曲にしてはイマイチ』『最近はいい感じの曲が多かったのに今回のはちょっと期待外れだ』『晶葉ちゃんパワーダウンしてないか?』『微妙っていうか、なんか格好悪い』か。あまり良い評価ではないな……」
 晶葉は心底しょんぼりした。自分としては楽しくレコーディングができたし、曲調も歌詞も気に入っていた。しかしファンのみんなは喜んでくれなかったようだ。プロデューサーは晶葉を元気づけるように言った。
「まだ次のチャンスがあるさ。三連発のうち一発目なんだからな」
「それはそのとおりだが……」
 結果がこれでは予算を回してくれたプロダクションもいい気分ではないだろうし、晶葉自身が熱意を持って歌ったのに冷めた評価しかもらえなかったのは悲しかった。アイドル活動に楽しみを感じていた分、受けたダメージは大きい。
 もしこの次も失敗したらどうしよう? と思うとだんだん歌うことが怖くなってくる。
「次はがんばるぞ、プロデューサー」
 晶葉はそれしか言えなかった。
「ああ、がんばろう」プロデューサーも一言しか言わなかった。
 その後、次のクラシックバージョンの曲についてプロデューサーと話しをして晶葉はプロダクションを出た。

 家へと帰るあいだ、晶葉はもやもやした気持ちでいっぱいだった。こんなふうに、自分の仕事の結果で心が揺れ動くのは嫌だった。がんばってもダメだと、がんばった意味なんてなかったんじゃないかと思うし、心がかき回されるとアイドル活動をする元気がなくなっていく。
 こんなんじゃ機械的に生きたほうがマシな気分なのでは、と晶葉は思う。いちいち周りの意見に心が乱されるよりも、メカのように感情を持たず、淡々と生きていったほうが心の安定がキープできるだろうに。
 なぜ人間には心というやっかいな仕組みが付いているんだ? と晶葉が考えた瞬間、ポケットに入っていたスマホがヴヴヴと震えた。晶葉はすぐにスマホを手に取る。同僚の水本ゆかりから電話だ。
「もしもし、どうしたゆかり」
『晶葉さんですか? 週末、少し遠い街にショッピングに行きたいと思っているんですけど』
「うむ。それで?」
『一緒に行きませんか? ネットで調べたのですが、古着屋さんとか雑貨屋さんとか、いろんなお店が集まっている街で、その中にはとてもおいしいカレー屋さんもあるそうです。ひとりで行くよりふたりで行ったほうが楽しいと思うので、連絡したのですが』
「ショッピングか……」
 なにか気分を変えてくれるものがほしかったので、晶葉はゆかりの誘いを受けることにした。
「わかった、一緒に行こうじゃないか」
『ありがとうございます。では土曜日の10時に駅で待ち合わせをしましょう――』

 土曜日はすぐに来た。晶葉が待ち合わせ場所の駅に着くと、ゆかりはもうそこにいた。
「こんにちは、晶葉さん」
 晶葉の姿を見たゆかりが笑顔で言う。楽しそうだった。晶葉は未だにもやもやが取れていなかったが、ゆかりの表情を見ていると少しリラックスできた。
「楽しい一日になるといいな、ゆかり」
「お金の余裕はあんまりないんですけどね。買いすぎないようにしないと」
 晶葉とゆかりは電車に乗って件の街へ移動した。目的地にさしかかり電車を降りて駅から出ると、見たことのない風景が広がっていた。
 多様なジャンルの店が入り交じった商店街が視界の中いっぱいにある。看板があちこちに突き出ていて、八百屋、文房具屋、古着屋、その他もろもろ、たくさんの店が所狭しと並んでいた。人通りも多く、街には活気が溢れている。
「お昼ご飯はカレー屋さんに行くとして、まずショッピングです。どのお店に行きましょうか、晶葉さん」
 晶葉は言い出しっぺに任せることにした。
「とりあえず、ゆかりが気になるところへ行ってみよう」
「そうですね……」ゆかりは辺りを見回して、ある店を指さした。「あそこの雑貨屋さんをのぞいてみましょう」
「オーケーだ」
 ふたりは人の波の中をゆっくり進み、そこそこ大きい雑貨屋に入りこんだ。
 入った途端、ゆかりが歓声を挙げる。
「かわいいぬいぐるみがいっぱいですね! ひとつ買っておきたいです!」
 雑貨屋に見えた店の内側には女の子向けのかわいいキャラクターのグッズが並んでいた。ぬいぐるみ、抱き枕、Tシャツ、ミニタオルやキーホルダー。ゆかりはぬいぐるみコーナーで物色し始めた。
 晶葉はそれを見て、楽しそうだなと思う。かわいいものを楽しむ心がゆかりにはある。自分にはあるか? なくはない。犬やパンダをモチーフにしたキュートなぬいぐるみを眺めていると、こいつをぎゅーっと抱きしめたら気持ちいいだろうなと思うし、部屋にかわいいキャラクターのグッズが置いてあったら雰囲気が和むだろう。晶葉が目で周囲をなぞって小さな楽しみを感じていると、ゆかりがぬいぐるみの入った袋を提げて近寄ってきた。
「つい高くて大きなぬいぐるみを買ってしまいました……」
 うれしそうにゆかりが言った。晶葉は視線をゆかりに向ける。
「別の店にも行ってみるか? 昼食はまだちょっと早い」
「はい、今度は晶葉さんの行きたいお店に行きましょう!」
 雑貨屋を出て、晶葉はおもしろそうなものがないか探す。小さな店が目に止まった。
「あそこ……機械の部品とか工作用の道具が置いてあるな。よし、行ってみよう!」
 晶葉はスピードを上げて店に近づく。ゆかりが「待ってください」と遅れて着いてくる。
 店の中は晶葉にとって天国だった。輝くボルトやモーターや工具がずらりと並んでいる。さっそく晶葉は品物を熱心に眺めた。
「こんな小型のモーターを取り扱う店があるとは……こっちのネジやスパナも安いじゃないか! おお、あっちには別なコーナーが……よりどりみどり!」
 晶葉は店内に置かれていたカゴを持って、そこに品物をビシバシ入れていく。それを見て、ゆかりは微笑んでいた。ずいぶん楽しそうだな、と思いながら。
 それからたくさんのお店に立ち寄り、ショッピングが一段落すると、ふたりは例のカレー屋で昼ご飯を食べた。カウンター席に並んで座り、ぴりりと辛いカレーを口に運ぶ。とてもおいしい。
 ゆかりはカレーを食べる→水を飲むというコンボを繰り返し、晶葉はどんどん食べてたまに水を飲むスタイルで食していった。
 やがてゆかりはカレーを食べ終えて、水を一気に飲んでから言った。
「今日は楽しかったですね。少しお金を使いすぎてしまいましたけど」
「楽しかったからそれはそれでよしとしようじゃないか」
 スプーンで皿に残った数粒のライスをすくいながら晶葉は言った。こうしておいしいカレーを食べたり、友達と一緒に遊ぶのは楽しい。それも心の働きのひとつだろう。新曲の評判が悪く落ちこんでいた気分は晴れてきた。
 晶葉はゆかりに言ってみた。
「ゆかり、心というものは不思議だな。まるで安定しない。ハイテンションになったかと思えば憂鬱になったりする。扱いが難しい」
「そうですね……私も昨日、ちょっと嫌なことがあったので、今日は気持ちを切り替えるために遊ぶことにしたんです。心の安定化を試みたというか」
 ショッピングの最中、ゆかりはずっと楽しそうだったが、裏側にはなにか苦しいものを抱えていたらしい。晶葉は水を少し飲んで問いかけた。
「嫌なことって?」
「CDの売上が芳しくないとプロデューサーさんに言われてしまいまして……これじゃいけないなと思ったんですけど、すぐさま解決できる問題でもなくて。心の中で、嫌だなって気持ちが大きくなっていたんです。だから今日一日を楽しめたのはよかったですね」
 ゆかりは寂しそうに笑った。晶葉はゆかりが買ったぬいぐるみが入っている袋を見て、黙った。やがてゆかりが言う。
「ただ、今日はショッピングで心がすっきりしても、明日はまた嫌なことがあるかもしれませんね」
 悲しいけどそれも普通のことだよなと晶葉は考えながら、少しネガティブな想いを乗せて応答した。
「結局のところ、やはり心というのは移ろいやすいものなんだな。機械のように安定していればそうしたことは避けられるのに」
「はい。心をコントロールするのはとても難しいです。うれしくなったり寂しくなったりの繰り返しが止まらない。でも機械のようになにも心に波がないよりかはマシなものだと思います。悪いことばかりではありませんから。良いときと悪いときがぐちゃぐちゃと混じっている、そういうカラクリなんでしょう」
「まるで解けないパズルだな」
 ゆかりは晶葉の言葉が気に入ったらしく、微笑んだ。
「実に飽きないパズルですね。動き続ける心のパズル」
 そのパズルを整理するために私たちは今日ショッピングしたのだなと晶葉はさっきまでカレーが盛り付けられていた皿を見つめた。

 次のクラシックバージョンの曲のレコーディングが近づいてきたころ、晶葉はプロデューサーに言った。
「プロデューサー、私が曲作りにもっと関わることはできないか。歌うだけではなく、曲全体、音楽全体により細かいところまで意見を述べたい」
 それに対しプロデューサーは小さめな声で言った。
「それは簡単なことじゃない。だが晶葉さんの意見をもっと取り入れようという声もプロダクション内にあるんだ。俺はどうしようかと考えていたんだが」
「そうなのか? ならば私は全力で主張すべきことを主張するぞ」
「うーむ、晶葉さんのその表情はとんでもないことをやるときの表情なんだよな。挑戦してみるか」
 心が動き続けるのなら、自分の心を動かしてファンの心を動かしたい。晶葉はそう思った。それが必死にパズルを解いている生き物の仕事ではないか。晶葉は前のめりになって、プロデューサーと話を続ける。

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