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エッセイ#4『僕は人間だから』

本当の自分はどこにいるのだろうか。そんな事をふと考える。どの瞬間が一番自分らしく、気取らず、素でいられるのだろうかと。そもそも自分らしくとはなんだろうか。

小学校高学年から、かれこれ高校生くらいまで尽きなかった悩みがある。「本当の自分はどこにいるのか」という悩み。A君と話す時の自分。B君と話す時の自分。Cちゃんと話す時の自分。そして家族と話す時の自分。どれも自分だけど、どれも違う。

人見知りな事もあって、昔から人と打ち解けるのに時間がかかってしまう。それもあってみんなに対して平等に仲良く出来ていないのではと思ったり、「あの時の自分は自分じゃなかった」と思ってしまう事があった。そう思うと自分を殺しているようにも思えて、日々の過ごし方が分からなくなる。そんな自分が嫌だと分かっていながら、変えるための一歩を踏み出せない自分もまた嫌で、自分を見失っていた。

だけど今はそんな風に思わない。色んな面がある事は当たり前だし、全てが自分自身であると心から言える。どの自分が良い訳でも、悪い訳でもなく、全て自分だから。誰よりも自分を受け入れてあげるようになってから、人と話す事や人と出会う事がとても楽しくなって、悩む事もほぼなくなった。

が、最近文章を書いていると再び自分がわからい瞬間がある。前に『空に残るもの』というエッセイを書いた。当時の自分がありのままを綴った形であり、嘘は決してない。ただ書いているときに「そんな立派な事考えるタイプじゃないでしょ」とツッコむ自分がいた。

度々こんな事が起こる。自分を表現したいと思って、自分を残したいと思って文章を書く。そんな「創作的な自分」と、対極の「スカした態度の自分」がいる。

『空に残るもの』を書いた自分は「日常を少しだけ幸せに暮らしたい」という思いだった。特に変わらない街並みが幸せだし、犬が散歩しているとか、公園で遊ぶ子供たちの笑い声とか、そんな日常が本当に幸せだと思う。でもスカした自分は「センスあると思われた過ぎでしょ」「共感生羞恥だろ」「よく見せようとするな」などと言って来る。

せっかくたくさん書いた文章も、そんな自分が出てきては消してしまう。「スカした自分」からしたら、文章を書いている時は「立派な人」に見られようとする偽りの自分で、自己表現とは言えないから。

なりたい自分がある。あの人の考え方が素敵だなと思ったらなってみる。あの人みたいな生き方をしたいと思ったらなってみる。そんな「なってみる」が変化の瞬間だと感じているし、その瞬間の重なりが自分を形成していくようにも思えるから。

毎秒を楽しみながら生きていきたい「創作的な自分」だけど、それは「スカした自分」からすれば理想を演じているだけに過ぎない。ノンフィクションな人生の中にもう1人、フィクションの自分が迷い込んだような感覚になる。一体どちらの自分に沿って生きていくのが幸せなのだろうか。

そんな風に色々考えた末、結局スカした自分を押し切って投稿する。投稿してしまえば、それまでの悩みが嘘のように気分が晴れて、達成感に見舞わる。色んな思いの中でまた一つ作品を生み出せた事が嬉しいし、だからこれからも自分に負けて表現をやめないように、こんな文章を書いている。

考えては苦しくなったり、悲しくなったり、分からなくなったり、だけど途端に晴れてどうでも良くなったり。そんな日々が「人間」の素晴らしいところなのだと今は思える。色んな「自分」がいて、お互いが葛藤しあって、足を引っ張りあって、時には励まし合って生きていく。そんな事が出来てしまう人間だから。だから僕はそんな人間で生きる幸せを、これからも噛み締めたい。

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