落ち着け、こういう時はランジェリーを見て落ち着くんだ
長いエスカレーターにて、私は左側に立っていた。
エスカレーター会社が、エスカレーターでは立ち止まり歩くのはやめてくんろ、と再三に渡り利用者に呼びかけておるが、右側は歩くために空けておくというのが今や一つの常識となっている。
私の右斜め前に、カップルなのか夫婦なのか男女二人組が、エスカレーター会社が推奨する正しい乗り方で立ち止まっていた。
すると後ろからカツカツと靴音を鳴らし、中年の男が世間的な常識に従い右側を歩いて降りてきた。
おじさんはちょうど私の横で前方を男女に塞がれるという形になり、苛々した様子であった。
苛々した様子で懐からスマートフォンを取り出した。
斯様に行く手を阻まれ苛々した様子の人がスマートフォンを用いてすることとはいったいなになのか、と私の好奇心が刺激された。
急げば約束の時間ちょうどに着くくらいであったが、このことで遅刻が確定した。どうしてくれる。ついては先方に遅れる旨を伝えなくては。あるいは、いまから向かう目的地への道順の最終確認。であろうか、おじさんのスマートフォンの画面をちら見した私は驚愕した。
画面には下着姿の女性の写真が並んでいた。
Google画像検索の結果だろうか、画面にはいわゆるランジェリーと呼ばれる下着姿の女性たちの写真が並んでいた。
そして彼は画面をスクロールし、気になったランジェリー画像をタップしては拡大しては縮小させ一覧に戻り、という手順で何枚か気になった画像を拡大していた。
このおっさんはなにをしているのだろうか、と私は思った。
ちょうどその辺りでエスカレーターは我々を地上に運び、おじさんは前方の男女二人組を追い抜いて小走りで駆けて行った。
あれはいったいなんだったのだろう、と私は思った。
なぜあのタイミングでランジェリーの画像を見たのだろう。それが気になってしょうがなかった。
それで一つ考えたのは、彼にとってランジェリーの画像を見ることは苛々を鎮める大事な儀式なのかもしれない。ということである。
『ジョジョの奇妙な冒険』という漫画にプッチ神父というキャラクターが登場するのだが、彼は窮地に立たされた時に素数を数えて心を落ち着かせるという習慣がある。プッチ神父の台詞を引用する。
「落ちつくんだ・・・『素数』を数えて落ちつくんだ・・・『素数』は1と自分の数でしか割ることのできない孤独な数字……わたしに勇気を与えてくれる」
あのおじさんももしかしたら「落ち着け、こういう時はランジェリーを見て落ち着くんだ」という状況だったのかもしれない。
「あー、前の二人邪魔くせえ、蹴り落としてえ」
彼は、己の中に湧いた暴力的衝動から亡き父の面影をとらえる。
———俺の親父は碌な人間ではなかった。
酒を飲み、気に食わないことはなんだって暴力で解決しようとした。あいつがこの世に残していった唯一のもの、それは俺の中を巡る血……
物心つく前に彼は実母と死別、あるいは彼と彼の父親を置いて出奔。
実母の記憶はほとんどない。ほどなく父が夜の店で知り合った若い女が彼の継母となる。継母は実に奔放な女であり、家庭的な要素は少しもなかった。
いじめるわけはないが、可愛がりもしない。彼に対してまるで興味がない、といった様子であった。
父と母の言い争う声で深夜に目覚めることは一度や二度ではなかった。
日中はいつも不機嫌な継母であったが、ごく稀に機嫌が良い時に小学生である彼を相手にストリップ紛いなことを行なった。
その時、彼女が身につけていたのは真っ赤なランジェリーであった。
彼は今でもその昼下がりの光景を鮮明に思い出すことが出来る。
薄っぺらなカーテンの間から差し込む光。その光が浮かび上がらせる室内に舞う埃。くるくる回るレコード。そこから流れるのは黛ジュンが歌う『ブラック・ルーム』。
音楽に加わるように豆腐屋の喇叭の音が窓の外から聞こえてくる。
彼女の裸体には点々と痣がついている。
親父に殴られた痕なのだろう、と彼は思う。
痣の存在が彼女が生きているという証となり、彼女の肉体に躍動を与えているように彼には思えた。
継母は踊りながら挑発的な目を彼に向けては、気が違ったように笑った。
それは彼が生まれて初めて性を意識した瞬間であり、父親も含め味方である大人が一人もいなかった彼の人生において極めて平和的な光景であった。
はたして公共の場でランジェリー画像を閲覧することと、その光景からこのように想像を膨らませることの、どちらがマトモな行為であるのか。私には分からない。
おそらく彼がランジェリー画像を見ていた一番現実的な理由は「特に意味はない」だろう。習慣としてスマートフォンを操作し、最前に開いていたページをなんら考えなしに閲覧したというのが本当の所なのだろう。
しかしながら、私も物語を作る人間の端くれとして、やはりプッチ神父説を支持したい。物語とはそこから生まれるのだから。
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