仏教余話

その148
実は、最近「三島由紀夫と唯識」で検索し直してみると、先ほどの梅原氏の発言に対して、面白い意見があった。「三島由紀夫研究会メルマガ」というサイトに公開されていたものである。以下に紹介しておこう。
 この梅原氏の書きつけについて、井上隆史氏は、平成24年1月下旬、或る寺院主宰の文化講座の講演会のなかでこうコメントした。
 「梅原さんに訊ねてみたいと思っているのは、その頃三島は黛さんと絶好しているはずなんです。だから、三島が黛さんを通じて梅原さんに聞くということはちょっと不自然だなと思っています。そして、さっき言いましたように(梅原さんは新聞や雑誌などで)つねに三島の唯識理解はおかしいと活字にしておりましたから、あらためて三島が梅原さんに問い合わせたというのは事情を聞いてみないと分からない。そう思っています。」(三島由紀夫と唯識でネット検索、「三島由紀夫研究会メルマガ」というサイトで公開された文章、2013,10/21)
状況証拠的にも、梅原氏の記事はおかしなものだということであろう。更に、三島の年少の友人であった、仏教学者松山俊太郎氏の言を引けば、一層、怪訝の想いは募るのである。松山氏は、雑誌月報をこう締めくくっている。
 唯識説を土台とする『豊饒の海』は、三島さんの永遠への飛躍の助走版であった。(松山俊太郎「三島さんと唯識説」『鑑賞 日本現代文学』月報1、昭和55年11月、p.6)
松山氏のエッセイは、三島の「現実喪失感」と唯識とを結びつける含蓄の深いものである。とにかく、仏教の専門家が、『豊饒の海』に唯識の影をはっきり指摘しているのに、それを否定するということは普通では考えられない。さて、梅原氏は、日本仏教の権威として、隠然たる権威を誇っている。世評も高いのであるが、その仏教理解には、とかく、問題が多い。どの辺りが問題視されているのかを、次に示そう。松本史朗博士は、梅原批判を展開した中で、こう述べている。
 彼等〔梅原氏等〕は一様に「仏教が日本精神に順化(醇化・包容同化)された」と言うが、この「順化」が曲者である。つまりウエイトは常に日本精神の方にあり、仏教などはどうでもよいのだ。かくして、日本精神は絶対化される。(松本史朗「仏教と神祇」『縁起と空 如来蔵思想批判』1989所収,p.116の注(12),〔 〕内私の補足)
巷で持て囃されている権威の言葉でも、絶対に、鵜呑みにしないという姿勢を貫けば、梅原という名前に誤魔化されずに済む。これは、何も梅原氏に限ったことではない。中村元博士だろうが、誰だろうが、もし、自分がおかしいと感じたなら、須らく検証してみる、という態度が必要である。そのために、語学とか知識とかが入用になるのである。

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