福田村事件 レビュー

福田村事件

(1)

 9月20日、京都シネマで見てきた。
 登場人物個々の歩んだ経緯とそこに形成された心理が響き合って、残虐な集団心理が暴走する様子を見事に描いていたと思う。
僕は人の顔を覚えないので、多数の人間の心理を理解しながら追うのは実は苦手である。小説なら(名前が長かったり、ころころ愛称が変わるロシアの小説は名前をひとつに統一しろと思うが)まだ、名前でアイデンティファイするからマシであるが、一人の視点からの方が読みやすいことには違いない。
ひとりかふたり、それ以上でもあと数名の心理なら理解しつつ追えるのでそういう話がわかりやすい。
 だが、この映画では群像ともいうべきほどの人数の心理を理解し、それがどう絡み合ってしまったかを観ていないといけない。
だいたい現実でも映画でも顔を見ても誰が誰かすぐわからなくなる。(そういえば、心肺停止による脳破壊の後遺症を調べる心理テスト、知能テストを3日間受けたとき、人の顔写真の記憶がたぶん最低の成績だった。たぶん、人に興味がないのだ。(-_-;)
しかし、なんでこうなったかを理解するにはひとりひとりの心理を理解して、それの絡み合いを理解するしかないではないか。
 そこで、一緒に見にいった人と後で食事をしながら、振り返り、僕が「お前意味不明や」と思った人物の言動について、「あの人なんなん? なんであんなことしたん?」と聞いて、だいぶ「補充」した。(「ええっとあの場面のあの人と、あの場面のあの人が同じ人? 服変わると顔わからんねん。役者も知らんしな」と言うと、僕の「障碍特性」に改めて「感心?」していた。w) 
よくそれで文学など「できる」?ものである。
特にセックスに関わる部分がわからないのは自分でも意外である。いったいなんであの男はインポテンツになったん? いったいなんであの女はあんなところでセックスしたん? それはそれとして舟でセックスするなら、なんでもっと岸辺を離れない? だから目撃されるねん。 アホか? などなど。w それはたぶん私はセックスはエクスタシーであるからするものであると感じてきたのであり、何らかの心理的穴埋めのためにするものであると感じたことが少ないからではないだろうか?


その補充の上での感想を述べよう。
輻湊しすぎるので、かなりめんどくさいが、できるところまでは書く。

私がこの映画の主人公だと思ったのは、千葉日日新聞の女性記者である。ラストシーンで村長に「記事にします。何があったか話してください」と彼女は言う。村長は「私たちはずっとこの村で暮らしていかなければいけない。話せない。わかってくれ」と言う。ちなみにこの村長は集団心理の暴走を止めようとしていた人のひとりである。だが、死に物狂いでは止めていない。「良心的だが死に物狂いではなかった。事が終わってしまったら村の人間関係を優先し真実は二の次ということを理解してほしい」そのような人物の代表。
一番透徹した見解を大きい声で言ったのは、讃岐からの行商人グループのリーダーだ。
朝鮮人に違いないから殺ってしまえという場面で、「朝鮮人でなく、日本人だったらどうするんだ」と誰かが言った。(私はそれが誰かよく観とてなかった。)
そのとき、行商人グループのリーダーが「朝鮮人やったら殺していいんか!」と叫んで前に出た。(彼ら行商人は讃岐の「えた」である。だから、彼らの中では、「朝鮮人なら何してもいい」と「えたなら何してもいい」が同じに聞こえる心理がある。)
その瞬間に、「夫が関東大震災の東京で死んだのは地震そのもののためではなく、朝鮮人に殺されたのではないか?」と誰かに言われてから気が触れている「赤ちゃんをおぶった女」が斧のようなものを振り下ろして行商人のリーダーの脳天をかち割った。これが虐殺の火蓋を切った。
俳優の有名度から言ってたぶんこの最初に殺された男がこの映画の主人公的な配役になっていると思う。配役上はということにすぎないが。
 (群像劇たるこの映画では全員が主人公である。そして、鑑賞者のひとりである私にとっての主人公は新聞記者の女性だった。それは私が「全部を観て書き留めようとする人」だからだと思う。)
この男が殺されたのを見てパニックになり、ちりぢりに逃げ始めた人を追っていき、自警団はまず逃げ惑う人々9人(妊婦のお腹の子を入れると10人)を殺す。
茶屋に入ることができず、少し離れたところで拘束されていた残りの6人のところに自警団はやってくる。さて、この6人も殺そうとなったとき、覚悟を決めた彼らは「正信偈」を唱えだす。
その前に福田村の葬送の一団と行き違ったとき、彼らは「南無大師遍照金剛」と唱えていたから、福田村は真言宗である。行商人たちは讃岐から来たのであり、四国はお遍路に見られるように真言宗の支配地だが、彼ら被差別部落民は浄土真宗である。だから、死を覚悟したとき、正信偈を唱えだすのだが、そこに「水平社宣言」を唱える声が重なっていく。
この水平社宣言は、行商人の中の少年が讃岐を旅立つとき、ガールフレンドらしき女の子にもらったお守りにも入っていた。男の子はお守りの中をすぐに確認したわけではないが、途中で同じ種類のお守り袋から水平社宣言を取り出した人と出会ったとき、自分も中身を見る。このとき、お守りとして渡されたのは水平社宣言だったのだと知る。
私が二時間以上の映画の中で泣いてしまったのはこのシーンと、女性記者が「私は書きます」ときっぱり言ったシーンだけである。その二つのシーンでだけ泣いてしまうというのが、鑑賞者としての私の個人的な立ち位置をよく表しているのだろう。
 ただ、実は女性記者が「私は書きます」と言ったシーンで泣いてしまったのは、自分の自覚しているアイデンティティと一致するが、正信偈と水平社宣言のシーンで泣いてしまったのは、私の自覚しているアイデンティティと一致しない。


疲れてきた。続きはまた書く。

(2)

 ひとりひとりの人間にフォーカスしていけば、感想はきりなく続きますが、
 韓日併合下の韓国に教師として赴任した福田村の男性については、教職31年のわが身としても、多少の関心をもった。
 彼は福田村に帰郷し、「もう教師はやらない。農業をする」と言ってへっぴり腰で、鍬を土に振り下ろす。
 だめだ、だめだ、腰が入ってないと言って、ずっと福田村にいた、自警団の団長らしい小男が見本を見せる。(この小男は小男としてのコンプレックスが強いがゆえに道を誤ったと思うがその論はまたあとで触れるか、めんどくさくなったら、やめるかも。)
 さて、この元教員は韓国で日本語を強制するという、日本帝国主義の手先としての職務につきながらも、せめてもの「良心」みたいなもので、ここは韓国なのだから、朝鮮語を学ぶべきだと身につける。
 その語学の才能で通訳の任務にもついたわけだが・・・・。独立運動の志士たちが、日帝の官憲に拘束された際にも、通訳を命じられる。
 「私たちは日本人が憎いんではないんです。朝鮮は独立するべきだという運動をしているだけです」という言葉をちゃんと通訳したのは、よい仕事のはずだった。しかし、結局彼ら独立運動の志士たちは、全員教会に入るように命じられ、それも通訳する。彼らが教会に入ると、日本兵の一斉射撃が始まる。
 教師はただそれを見ているしかなかった。打ち続く悲鳴。しかし、まだうめき声は聞こえていて、全員が死んだわけではない。日本兵はその教会に火をつける。断末魔が聞こえ、彼らは全員、焼け死んでしまう。
 それも教師はただ見ているしかなかった。
 体制の中でできるだけ良心的に動こうとするのだが肝心なときには傍観者になる教師。
 それは教員時代に私の出会った殆どすべての先輩教師の姿であり、後輩教師に到っては若ければ若いほど、その良心のありかすら見失っているパープリン世代が教師になっていた。

 一同起立     長澤靖浩
僕に民主主義を教えた
アノ世代の先生たちが
立っている
アノ方を讃える歌のために
立っている
目を開けたまま
瞳の皮膜を閉じて
多くの者を踏みつけて
組織防衛の名のもとに
逆回転のドミノが
パタパタと立ち上がる
その日が
ついに(やはり)訪れたのだ
最後まで個になりえなかった 団塊が
毛沢東でも
金日成でもない
アノ方を讃える歌のために
立っている
どうしようもないアジアの
どうしようもない憂鬱と悲しみが
整然と並んだ
黒い頭の上に
たれこめて

 私が教員時代に見たのは、そんな先輩教師たちの姿である。私は君が代起立を拒否し続けたが、拒否したのはむしろ、教職員組合を離れた個人であって、教職員組合は、私の教員時代の末期、組織防衛のために起立することを是とし、起立しない組合員を守り切れないという立場に立った。
 はっきり言って絶望的なまでに軽蔑している。殆ど誰も友だちなどいなかったと思っている。
 この映画の中では、くだんの教師は、この「見ていることしかできなかった虐殺シーン」「私はその命令執行の手伝いとしての通訳をして加担した」というトラウマのせいであろうか、インポテンツになる。
 しかし、君が代で起立することに転じたそこの教師。君はインポテンツにすらなっていない。この場合は、インポテンツにすらなっていない自分の変わり身を恥じなさい!
 韓国で出会った日本人の妻と故郷福田村に帰ってきた教師であるが、彼に妻は「あなたはいつも見ているだけ」という。それはインテリというもののひとつの姿の象徴なのだ。
 「あなたはいつも見ているだけ」というその女に、では君何ができたのかと問うことも可能である。時代の中で誰もが犠牲者だったといえる。
 だからこそ、それは繰り返してはならない歴史であり、天皇制は完膚なきまでに破壊しておくべき制度だったのだ。またぞろ、それを支える側に回っている現代の教師。そして共産党、れいわ新選組まで。
 日本列島殆どまるごと愚かである。
 とにかく映画の教師は、妻に対してはインポテンツになり、教師はやめて、故郷で土を耕し作物を作ることに人生の活路を見出そうとする。
 「いつも見ているだけ」と言われて余計にインポテンツになる彼なのだが、妻には「あなたはいつも見ているだけ」とますますなじることしかできない。自分を抱かないこの男のもとをもう飛び出そうとした彼女は渡し舟の船頭に遠いところに連れていってもらおうとする。
 本当に遠いところに行き、そこですべてを小説にでも書くなら、それはそれで見上げたことだった。しかし、彼女は衝動的に船頭と性関係を結んでしまう。この船頭、いったい何人の、わけありで男と離れた女を抱いているのか。この映画にはっきり描かれているだけでも二人。川の民とは、そのような性衝動の次元で、時代の歪みを補償しようとする女にとっての「神」としてのマラのような役割があるのだ。ぶっ!
 しかし、もっと岸辺から離れてからそうしないのはバカの極み。男はもうひとりの女に、女はインポテンツの夫に、舟でのセックスを見られてしまう。
 そのあと、結局、女は遠いところに行かず、夫のもとに戻る。遠いところとは、他の男とのセックスだったのか。
 「なんで本当に遠いところに行かなかったの? なんでセックスしたら戻ったの?」と同じ映画を見ていた人に聞くと「ずっとしてなかったから、何かを求めて衝動的に走ったけど、そのことでそこに答がないのがわかってとりあえず還ったのだと思う」と言っていた。
 エクスタシーを求めるというただそれだけの理由でセックスするのではなくて、何らかの心理的な穴埋めでそうする人間がけっこう多いんだなと思ったのは、その意見によってだ。別にふたつ重なってもいいけど、エクスタシーの追求が限りなく主になっていかない限り、どこまでいってもメンヘラの域を脱しない気がする。
 しかし、心理的な穴に関してはここに答がないと知ったのは、彼女にとってはよかったとも思う。いわゆる「そういう問題じゃないんだー」ということだ。それは魂の旅の一里塚だ。

 この悲劇の教師も、福田村での讃岐の民虐殺現場にいた。先に殺された9人。そのあと、残りの6人のところにやってきた自警団。
 正信偈、水平社宣言を唱える6人。妻は教師に「あなたはまた見ているだけなの!?」と言う。教師は飛び出して、身をていして、「やめろ!」と叫ぶ。初めて命かけて行動したインテリさん。
 そこに彼らが朝鮮人ではなく、讃岐の行商人だという鑑札を確認した警官隊が帰着。危うく6人だけは殺害を免れる。

 さあ、このシーンでさっきの自警団団長の小男が「オレはお国のためにと思ってやったのに!」と泣き出す。この男が一番の悪役でもあるが、一番コンプレックスが強い男でもある気がした。背が低いんだ。だから、有用な男であろうとする衝動が、人並み強いんだ。だから、「お国のために」役立つことで自分が有用であることを示そうと自警団の長になるのだ。おそらく、教師のようなインテリも嫌いなのだ。それもコンプレックスの故だろう。かわいそうだが、どこから見ても愚の骨頂だ。あるがままの自分を受容できない己が、どれだけ周囲に迷惑をかける存在になるかの典型だ。

 とりあえず以上。まだ書けていないことがいっぱいある気がして、もう一度見たいとすら思う。

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