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葬式仏教解体へ

産まれてくるには両親が必要で、両親にも両親がいたのだから、祖父祖母の数は2の2乗で4。その4人それぞれに両親がいたのだから曾祖父曾祖母の数は2の3乗で8。

先祖はこのように遡れば2の累乗で増えていくので、10代前で1024人、20代前で104万8576人、27代前で1億人を超え、30代前には10億7374万1824人もの先祖がいたことになります。

そんな中、長男を辿った先祖代々の一本の線というのは、家制度、檀家制度、墓制度の虚構です。

天皇制というものの虚構の要でもあります。(百歩譲って、本当にある時点までは、繋がっていたとしても。)

しかもその先祖たちはあらゆる命を食べて生きてきた。ということは、今生きている私にとって全生命が先祖なのであり、私はその切っ先に今生きて踊っているのです。

親鸞が歎異抄の5条で「 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。 そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり」と述べているのも、その実態を表現しています。

私の考えでは、家制度、檀家制度、墓制度の虚構を破り、直接、全生命に感謝することこそ、故人を通した、真の全生命リスペクトになります。

0葬とは、生きとし生けるものへのリスペクトです。

島田裕巳にはその全生命リスペクトの側面が見えていないのか、葬式仏教をまずは批判することに急で、そこまで思想開陳が及ばなかったのか。

そのような畏敬の念は彼の0葬に対する思想表現から抜けています。

また親鸞は「某、閉眼せば、賀茂河にいれて魚に与うべし。」(私が死んだら、賀茂河に投げ入れて、魚に与えよ)と常日頃から言っていたと「改邪鈔」に曾孫にあたる覚如が書き留めています。

これは土葬と並ぶ究極の0葬としての水葬にあたります。全生態系の中に循環することをもって、葬送としていますから、火葬以上に自然体の0葬なのです。

覚如は同じく「改邪鈔」でその親鸞の言葉の真意を「これをもって思うに、いよいよ葬喪を一大事とすべきにあらず。もっとも停止すべし。」(このことから思うのは、喪われた身体を葬送することをとても大事なことだするべきではないのだ。そういう葬儀は停止するべきだ」と言い切っています。

このような0葬の積極的側面を思想として明らかにしなかったため、島田裕巳の「0葬」という書物は、葬送の自由の究極の姿とは何か?ということが本来孕むはずだった豊かさを阻害してしまいました。結果として、0葬を矮小化しました。

0葬とは遺骨信仰からの解放であるだけでなく、全生命の不二なるプロセスに生死を超えて解き放たれる契機なのです。

このことを胸を張って主張しましょう。


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