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『蝶を放つ』と『一三分間、死んで戻ってきました』はネガポジ

『蝶を放つ』を自分にとって世界最高の小説と言っていた人がいた。彼女は20歳のとき、自分の父親の首吊り自殺の第一発見者となった。精神がおかしくなり、そのときの彼氏を呼び出して、朝までセックスしまくったという。その時から、性と生と死について激しい混乱状態が続いていて生きづらいことこの上なかった。が『蝶を放つ』を読んだとき、自分のその混乱と同じ深さまで見つめてちゃんと描いてあるのが、すーっと入ってきて、約20年ぶりぐらいに混沌を抜け出して済われたという感想をもらった。

その彼女が『一三分間、死んで戻ってきました』について、この話は私にはきつい。辛いというので、どういうことか、ネット通話で聞いてみた。とつとつと言いにくそうに語るのだが、「ひかるさんはとても幸せな人生を歩んでいると思うの」という言葉が引き金になり、「こういうこと?」「こういうこと?」と聞いていくと、「そう、そうなの」と、彼女の感じていることが解きほぐされていった。「私の臨死体験はこうならないと思う。きっと地獄を見る」「反感というのとはちょっと違うけど、ひかるさんだからこうなったと思う。思春期に悩んだところは誰でもそういう時期があるという共感をしたけど、その他は殆ど幸せな人生を歩んでいると思う」「幼少期に愛されて、基本の自己肯定感があるから、すべて自分で考えて、自分で決めて、その道を歩くことができた。私はその正反対だし、今でも自己否定感が強い。とてもこうはいかない。そのことがとても辛くなる。辛くてたまらない」

それはそれでよくわかる話で、そういう人は他にもいた。本に関係なく、自己肯定感の低い人は、僕の自己肯定感の高さに惹かれる一方、あまりの高さに付いていけなくなり、「自分は土砂降りの中を生きていくんだー」と叫んで走って逃げていった女の子もいた。

色々な意味で『蝶を放つ』と『一三分間、死んで戻ってきました』は対になっているということは少しずつ意識されてきていたが、彼女の感想は、闇をかかえ、病んでいる人にとってのそのふたつの作品の位置を鮮やかに対比して説明してくれたと思う。

京都文学フリマで『蝶を放つ』と『一三分間、死んで戻ってきました』ならどちらがおススメ?って聞いてきた人がいた。「人間のえぐさを見つめたいなら『蝶を放つ』。生きて死ぬことの奇跡を踊りたいなら『一三分間、死んで戻ってきました』と応えると、「じゃあ、こっち」と『一三分間、死んで戻ってきました』を買っていった。世の中にはその方が多いと思って僕は『一三分間、死んで戻ってきました』を書いた。でも、じゃあ、『蝶を放つ』はどうなってしまうの?と自分でも思っていた。だから、『蝶を放つ』は全部すっと入ってきたという人の、それと対比しての『一三分間、死んで戻ってきました』のここに紹介した感想は半分とても嬉しかった。『蝶を放つ』が救済されたのだ。

というわけで、作者は、ぜひ両方読んでほしいと厚かましいことを考えています。w


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