横光利一「蝿」など

興味ないよ。きっとあなたはそう思ったことだろう。
もちろん、筆者も同じ身である。
教科書で一応読んだけど……くらい。

横光利一は「新感覚派」と呼ばれる作家の一人。
ただ、「もう一人」に知名度のすべてを持っていかれている。
川端康成である。

川端康成と横光利一は、現役時代は横光利一に分があったりもしたが、今では完全に負けている。

では横光利一の短編は、なぜこんなに今では落ちぶれているのか。

たぶん、その実験性がもはや「実験性」と呼べるものではなくなったことにある(と筆者は思う)。
たとえば、マジック・リアリズムの祖「百年の孤独」。これを読んで、筆者はあまり感心できなかった。
確かに「出版された時点で」すごい作品だったのだろう。
ただ、現代人たる筆者には、それほど鮮やかな作品とは受け取れなかった。それも一つの事実だろう。
「蝿」も、まさに時代の流れのなかで、かつての力を失くした作品なのではないか。

「蝿」は、実に「平べったい」作品だ。語ることがない。

何しろ、「それぞれ事情のある人間たちが馬車に乗りあわせるも、馭者は(食った饅頭のせいか)居眠りする。それで乗客を乗せた馬車は崖から落ちる。」
これだけの作品だ。本当に何にもない。

「蝿」のような作品の手法を「モンタージュ」と呼ぶそうだ。いくつもの視点を重ねて、作品を作る手法。他に芥川竜之介の「藪の中」などか。

一応登場人物をまとめてみる。
その1.危篤の息子のいる母親
その2.訳ありの娘と青年
その3.母親と少年
プラス馭者で、計6名。 

タイトルの「蝿」は、最後馬車が落ちるとき意味が明かされる。

が、眼の大きな蠅は、今や完全に休まったその羽根に力を籠(こ)めて、ただひとり、悠々(ゆうゆう)と青空の中を飛んでいった。

漫画なら、それまで落ちていく馬車のなかの乗客たちの歪んだ顔のアップが、俯瞰視点で蝿にふっと視点が移る、というラストか。

そう、「蝿」は漫画っぽい(脱線:新人文学賞の貶し文句の一つに、「これなら漫画や、映画でもできる」という決まり言葉がある。そう言うあんたらの小説はどうなんだ、と思う)。

川端康成と横光利一の関係は、三島由紀夫と安部公房の関係に似ていると思う。

安部公房にも、「蝿」を思わせる作品がある。一人のボクサーが、様々な回想をしながら闘う小説で、やはり漫画っぽい作品だった(ジャンプの、「あれは二年前の冬のことだった…」みたいな)。
関係ないけど、安部公房の評価も乱高下だ。私は「箱男」など結構好きだが……。しかし、読まれなくなるわけも(横光利一と同じように)分かる。

実験文学というのは、人目を引く。文字を太くしてみたり、色を付けたり。前からも後ろからも読めるようにしてみたり、袋とじをつけてみたり。
だが、読者の皆さん。よく考えてほしい。どうして、「それまでそういう作品が出てこなかったのか?」。
かつての作家たちが古ぼけていたから?
違う。やる必要がなかった。それだけだ。

だから、実験文学というのはしばしば短命である。その「実験性」が、時代の制限を超えた力を持たない限りは。
たとえば、「ヌーヴォー・ロマン」のロブ・グリエ(妻の不倫に気づくも何もできずにいる夫をただただ書き続けた作品があった、「嫉妬」だっけ)とか、ジョン・バース(やたら分厚い小説を書く)とか。

まとめると、「蝿」は時代のなかですでに「淘汰」された作品であるとは思う。
ただ、やはり最後、視点がふっと「蝿」に集まる書き方はかっこいいと思う。惜しいのは、馬車に乗り合わせた人間の書き方があまりにも表面的な描写に留まっていること。
短編「蝿」の持ち味でもあるのだろうが、やはり少し苦しいと思った。


(蛇足)子供のころ、筆者は図鑑が好きだった。動物図鑑に、奇妙なゾウがいた。牙は3本だった。
筆者は動物園に行こうと思った。キバが2本のゾウは知っていたが、3本のゾウもいるのか。なら、5本、6本のキバのゾウもいるかもしれない。私の頭は無数の牙のゾウでいっぱいだった。

後日、そのゾウは絶滅していたと知る。筆者の記憶違い(であってほしい)と思うが、3本目のキバが食事の邪魔だった。それで絶滅したとかいう。

小説も、生き延びたゾウだけいるのではない。3本目のキバ、あるいはチョウの鼻、シャボンの耳の絶滅した、奇妙なゾウがいる。
そうしたゾウ探しもときに楽しい。

(追記)本当は「ナポレオンと田虫」(ナポレオンが疥癬だったという俗説を扱った短編)や「機械」(ネームプレート製作所で働く男の短編)も書くつもりだったが、つけたカッコより多くのことが言えない。

ある文芸批評家が、「三島由紀夫の批評は苦手だ」と言っていた。
「あっちのやってほしい切り口からしか切り込めなくされる」からと。理知的な作家である三島にとっては褒め言葉かもしれないが。

横光利一の短編もそれに似たところがある。
たとえば、「ナポレオンと田虫」は歴史の勉強代わりにもなってなかなか楽しい短編だが、いざ喋ろうとすると、作者である横光利一の考えた(だろう)ことをなかなか越せない。

こうした悪条件のなかで、「春は馬車に乗って」は比較的話しやすい。
肺病を患った妻と、夫。心はすれ違う。

最後の文章が本当に綺麗だし、他にも

「死とは何だ」
ただ見えなくなるだけだ、と彼は思った。

この「死」に接した人間の持つ言葉の(ある意味での)「貧しさ」は、彼の新感覚派風の気取った文章よりずっと良いと筆者は思う。

それから、馬の一人称で書かれた「神馬」という作品を見つけた。こちらでは「牛虻」が出てくる。

奥泉光に、「蝿」と「馬」が、あの日馬車で死んだ6人は、実は恐るべきトリックの計画殺人に巻き込まれた被害者だった……、タイトル「「蝿」殺人事件」で、そんな小説を書いてくれないかなあなんて。
訳ありの男女の事情とは?息子はなぜ危篤だったのか?母と息子だけいて、父親がいないのは(仕事かもしれないけど)なぜ?
そうした謎が解かれる「「蝿」殺人事件」。横光利一は本当は江戸川乱歩も裸足で逃げだす日本史上初の本格ミステリを執筆するつもりだったのだ……

そんな与太話である。

青空文庫から読める。よければ。


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