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『寝る前5分のパスカル「パンセ入門」』について(1)

アントワーヌ・コンパニョン著『寝る前5分のパスカル「パンセ入門」』を通読して、特に私の印象に残った回について振り返りましょう。

今回はその1回目です。


学生時代に読んだ本で印象に残っているひとつがモンテーニュの随想録『エセー』です。面白いと思った記憶があります。

一方、パスカルの『パンセ』も部分的にせよ読んだはずですがあまりおぼえていません。多分よくわからなかったか、ピンと来なかったのでしょう。でも、このままで済ませたくない!


本書はフランスのラジオ番組シリーズの一つで40数回にわたって毎日5分、40回にわたったラジオ番組の書籍化とのことです。

著者が担当したのは、モンテーニュ、ボードレールそしてパスカルの3作です。

著者前書きで、パスカルとモンテーニュの関係について言っています。

パスカルほどモンテーニュに対抗した思想家はいないとしても、『パンセ』は『エセ―』なくしては着想されなかったかもしれない。フランス文学は、引き離しがたい作家同士の組み合わせの数々によって威光を放っているが、パスカルとモンテーニュは、そうした作家たちの一組をなしているのである。

冒頭私が、モンテーニュとパスカルについて触れたのはこの文章を意識してのことです。


1「あの恐るべき天才」ではまだ『パンセ』には入らず、パスカルと『パンセ』について説明します。

……パスカルは、フランス語に最も熟達した偉大な文人の一人であったが、その前に比類なき数学者にして物理学者であり、なおまた並外れた哲学者にして神学者であった。
 『パンセ』はフランス文学の傑作であるが、そもそもは、病気と死によって執筆が中断された論文のための、雑然とした断章の集まりなのである。

2「靴のかかと」から著者は、『パンセ』を引用・解説・解釈していきます。


では、特に私の印象に残った回について振り返りましょう。


11「コペルニクスの学説を深く掘り下げなくてよいと私は思う」

以下「 」内は著者による『パンセ』からの引用です。

 科学史は当時、非常に重要な局面を迎えている。……コペルニクスは太陽を中心に置き、惑星がその周囲を回るとともにそれぞれ自転しているとの仮説を立てた。ケプラーは、惑星の軌道が円形ではなく楕円形を描いていることを証明した。ついには、ガリレイが新しい物理学の最初の数学的法則を公式化し、物体の落下の速度が重量に左右されないことを示した。パスカルは、世界観が一変したまさにその時代を生きたのである。
……イエズス会士らが関与したと思われる一六三三年のガリレイの有罪判決は、教皇による圧政の一例としてパスカルの目には映った。……

宗教と科学のせめぎあいが巻き起こったのですね。古典的な世界観と宗教のくびきからの解放をめざしてやがては産業革命へと連なっていきます。

……実験主義者であるパスカルは、ガリレイの理論が真実であるかどうかを証明する観察、証拠はまだ不足しているとみなす。……しかしながら、一六五〇年代にパスカルが顔を出していたパリの科学界においては、この問題については疑う余地などはほとんどなかった。

パスカルは慎重派だったわけですが……

 パスカルの留保は、科学的厳密さだけによるものではなく、学者たちに科学のうぬぼれを思い起こさせようとする意図によっても説明される。『パンセ』の次の断章はそのように理解することができる。
 「コペルニクスの学説を深く掘り下げなくてよいと私は思う。」

パスカルは科学者でありながら、当時の状況を「科学のうぬぼれ」と認識していたというわけです。謙虚な科学者として、そして哲学者、神学者としてのパスカルの立ち位置から天動説と地動説のどちらを選ぶか留保します。

……宇宙は彼(パスカル)の眼には疑う余地なく無限であり、しかも……二重に無限〔大きな無限と小さな無限〕なのである。この二重の無限という見地に立つと、宇宙の中心が地球か太陽かという論争は、意味をすっかり失ってしまう。宇宙が無限なのであれば、円周はどこにもなく、中心はいたるところに存在するのだ。

パスカルは科学を、決して万能とは考えていなかったようです。『パンセ』には「神」「恩寵」「心」など、あるいは「精神」「理性」などの言葉が頻出し、両者を対比しますが、後者を前者の上位には置きません。


ここで話が飛躍しますが、西洋の自然科学に対する日本の数学者、岡潔のことばを思い出します。パスカルと岡潔とは何も関係がないように見えて、似ている部分があるなと思います。

 人はいろいろなことを知っていると思っていますが、付け焼刃を落としてみるとさっぱり何も残りません。……たとえば西洋の学問、思想はたいてい自然科学の上に成り立っています。その自然科学は、はじめに『時間』と『空間』があると考えている。……ところが、『時間』や『空間』は、はなはだわからないものです。そもそも存在するかどうかもはっきりしない。
 西洋人は時間や空間があるということについては何も疑わなかったらしい。……では、時間、空間というものが本当にあるのか?その本体は何か?そんなことは、決して考えようとしないのです。「『最終講義』懐かしさと喜びの自然学-時間と空間」より


――(2)へ続く――




※NONさんの画像をお借りしました。

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