おばあちゃん

僕には母と呼べる人が3人いる。早逝した実の母と大人になってからも都度連絡や相談相手、金の工面など様々な面で助けられた父方の叔母さん。そして父方の祖母だ。

僕が小学3年生の時に実母が癌でなくなった。亡くなったのは12月だが、11月には一緒に温泉旅行に行き、病気を知ったのは亡くなった後だった。母が亡くなった時ショックではあったが、それよりも印象に残っているのは父が悲しんでいる姿だった。この人を悲しませたくないと思ったのを子供ながら覚えている。
その後、幼い僕と兄と残された父を心配し、祖父母が実家へと引っ越してきた。元々の祖父母の実家は石巻の渡波町というところにある海辺の町の古い住居だから、宮城郡利府町という山あいの住宅地に、さらに洋風建築の二階建てに越してくるということだし、その時80代の高齢だから相当の決心だろう。その後数年して祖父は亡くなったが、祖母は僕が高校を卒業するまで育てきり、その後も認知症を患いながらも元気に生きて、老衰で亡くなった。叔母の介護も良かったのだろう。

祖母は流石に孫には甘く、お駄賃やお菓子、甘い飲み物などで困ったことはなかった。それに元々菓子屋の娘だった祖母は、しばしばお菓子を作ってくれた。みたらし団子やおはぎは絶品だったし、ふくらし粉が入っていないため平べったいがモチモチしたホットケーキは思い出深い。沢山の料理をしてくれた。朝食もごはんに味噌汁、海苔は必ず、固焼きの目玉焼きや様々な惣菜が並んだ。朝寝坊し、朝食が食べられない時も暖かいお茶は必ず飲ませられた。こうやって思い出を振り返ると僕はとても恵まれた生活環境であった。そして、僕は祖母のことが好きだったのだ。
当時SMAPのがんばりましょうが流行っていたのだが、祖母の合言葉はがんばりましょうで、いつもがんばりましょうがんばりましょうと自分に声をかけながら家事をこなしていた。他者に向けての頑張りなさいではなく、自分に対してのがんばりましょうだ。そんな祖母に尊敬の念を抱いていた。
毎朝目覚まし時計をかけていたが、祖母はそれでも起こしに来てくれた。祖母は膝が悪く、歩くのも苦にする姿で、滑りやすい木製の階段を一段一段昇ってくるのだ。無理して昇ってくる祖母に思春期の僕は理不尽に怒り、怒鳴りつけたものだ。
祖母はとても頑固な性格で一度こうと決めたことは譲らず、同じく頑固な父とはよく衝突していた。親子ということで難しいところもあったのだろう。柔和な印象の内科の医者だった祖父に比べると苛烈な気質を持った祖母であった。その気質は父にと受け継がれているように思う。思春期に入る頃になると祖母と怒鳴り合いの喧嘩をした覚えがある。一度こうだと決めたらテコでも動かない祖母だ。だが、僕の進路などで口を出された覚えはほとんどない。美術系ということで、食えないよ、みたいなことは言われたように思うが、それ以外は父に任せていたのだろう。祖母はとにかく育て切るということに初志貫徹したということだ。
祖母が亡くなった時、酷い喪失感で、葬儀場では普通に振る舞っていたが実家に戻ってきてからはとめどなく泣いた。父にもう祖母が悲しむから泣くのをやめなさいと言われるまで止まらなかった。大学に進学してから少し疎遠になっていたのに、高齢であったからこうなることはわかっていたのに、涙は止めどなく流れた。この悲しさがなんなのか、後年思い至ったことがある。
祖母はあくまで父の母であり、僕の母ではないことを痛感したからではないかと思う。祖母の気持ちは父に向いており、息子を心配するあまり買って出たことだったのではないか。思い至った時、三度目の喪失感が生まれた。僕には母がそもそもいない、正確に言うと母のイメージが非常に曖昧なのだ。全てを受け入れてくれる幻想のようなもの、そんな母のイメージ自体が曖昧なものと気づく。失っていない、はなからなかったのだ。なんて孤独。寒々しさに涙した日もある。友人もいる恋人もいる、親も兄弟親族もいるのに、僕を理解しようという存在がないことに強い孤独感を覚えた。
この孤独感は僕の一つの始まりでもあったように思う。あの日僕は生まれ直したのだ。
実母の少ない記憶、僕を育ててくれた祖母、そして僕を今に至ってまで気にかけてくれた叔母。三人の母には感謝しかない。しかし、三人の母は僕の求めているものを一つも叶えてはくれなかった。また、果たして叶うこと自体あるのだろうかという疑問がある。それを自分自身で行う、自分で自分を育て直す。孤独と付き合いながら生きていく。これが今の目標である。
父は体に様々な病気を抱えながらも現役で働いている。父は仕事一徹のような人でありながら、息子たちに甘い一面と相反する面を持った人物だ。仕事のストレスをそのまま僕たち兄弟にぶつけることも多く、その反動かとても甘ったるく接してくる面があった。しかし母が亡くなってからは家庭的なイベントをした覚えはないし、本人からも仕事のことしか頭にないとはっきり言われたこともあるが、父の口癖はお前たちのためだけに仕事をしてきた、だ。父は僕のアンビバレントな性格を形成した一端ではあると思う。
愛情というのはどういうものか、庇護されるとは、孤独とは、広い意味で言えばこれを問うことが僕の人生そのものとも言えそうだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?