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護るということ。

子供が好きだ。とても。
条件付きの愛ではなく、存在そのものを愛している。
(素敵なお写真お借りします🍀赤ちゃんの”ぎゅ”は言葉にならない尊さ…)

どんなに誰かを愛しても、ひとつになることはない。二人の細胞が混ざりえるのは、産まれる”子供”という存在だけ。そんな尊い存在だけれど、綺麗ごとだけで育てていけるほど簡単じゃない。それでも、全てを投げ打っても構わぬほどに大切に想える親としての愛情は、恋愛より遥かに深いものであるような気がする。

始まりは何もかもを気に掛けてあげなければ生きられぬ、か弱さ。
感情の種類が増え、言葉を覚え、あちこち動き回り、やがて元気に駆け出してゆく。親にとって心配なシーンはいくらでもあるけれど、口出しが必要な時期はとても短いものだ。子供が意思をもって行う事は、人として間違いだったり確実な危険ではない限り、尊重すべきだと思う。小学生の内には、もうほぼ立派な思考を持っているものだ。いつまでも全てを親の思い通りにするような強制や制限で縛り付けると、子供の眼が死んでゆく。可能性を摘むつもりじゃなかったとしても、結果そうしているようなものだ。
失敗から学ぶことは大きい。実体験はとても大切な糧なのだ。

いわゆる「毒親育ち」は連鎖して毒親になることが多いなんて言われているけれども、そうなるとは限らない。すべてを反面教師にして育て、成人まで送り出せる親もいる。何がどう悪となるのか解っている分、自分の意志でどっちにも転ぶ諸刃の剣的な。
負を”知っている”からこその強みだって、あるわけで。

子供について語りだすと熱量が大変なことになりそうなので、ひとまず横に置いておいて。←

二人の間に子供が産まれたとして、双方が子供に対して同じように思いを注げたら理想だけれど、残念ながら”親”になれない人もいる。恋愛感情を優先して、子が邪魔だと暴力に走るパターン。

父親でも母親でも、片方が”親”と成りきれなかったとき、子を護れるのはひとりしかいない。核家族なら猶更。少しずつ親になるとしても、子の成長過程で精神的/肉体的に破綻させるような危険を感じるのなら、どんな大恋愛をしていようが、どれほど好きであろうが、離れるしかない。それが一時的でも永久的でも。それほどに、子供の成長(特に精神面)は速いのだ。

出逢って、恋をして、愛に変わって、子供を授かって。
思い描く色々がその通りに行かなかったとしても、それは子供に関係ない。親になるには責任が伴う。その責任を負う覚悟があっても、様々な要因で心が伴わなくなる人だって居る。そんな時に夫婦どちらかで修正し合っていければ一番いいのだけれど、激しいすったもんだを何年も続けてまで「家族」という形だけを保ったところで、本当に守りたかったものは、取り返しがつかぬほど大きく傷ついてしまっていたり。
・・・いろんなパターンがあるから一概には言えないんだけれど。

片親は本当に大変。シンママでもシンパパでも同じ。だから片親となる選択は悩みに悩んだ末の決定だと思うけれど・・・時間面と金銭面、その他諸々で四苦八苦したとしても、安心して笑い合える親子時間に勝る幸せは、ないと思う。

何があろうと護りたい、誰もがそう思って「指ぎゅ。」を見つめるはず。
その気持ちを、忘れないで欲しい。

「護る」から「見守る」までへのシフトは、すぐ。
それよりも、語り合う時間のほうが長い。ちょいちょいアドバイスを出したり、あえて出さずに静かに聞く方向に徹したり。

たった20年。実際にはもっと短いうちに大人になるのだ。
そのあっという間の、二度と巻き戻りはしない大切な時間。

見返りも何も要らない。
ありがとうと言われるたびに、少し変な気持ちになる。
ただ「護りたかったものを護った」だけだから。

「あなたはあなたの人生を謳歌して」と笑いながら、
自身の残りの人生をどう過ごすか改めて考えるのも、また楽しいものです。



無いとは思いますが、万が一サポートしていただけた場合には大好物の甘いものに変わる可能性が高いです( •̀∀•́ )✧深紅がサイズアップすること間違いなしです笑