虐待親の特徴① 学習態度について

 底辺家庭は再生産されるというのが世の定説である。もちろん、そこに例外はいくつもあるが、ここでは割愛する。(この例外の発生条件を知りたいところではある)
 また、あくまで自分の親(とりわけ養母)を見てのことなので、どれだけ当てはまるかは確信が持てないが、皆様で答え合わせをしてくださればと思う。

第一段階:勉学を見下す
 底辺親の特徴は「学校の勉強なんか役に立たねえ」と言うところである。「学校の勉強をしたって実生活で役に立たない、その証拠に自分は学校の勉強なんかしなくても生きていっている」などと平気で言う。確かにあなたの見える範囲はそうかもしれない。

第二段階:自分の目に見えない世界が想像できない
 しかし、法学を勉強した人、経済学を勉強した人、工学を勉強した人、様々な学問を修めた人達によって世の中は支えられている。残念ながら底辺の生活も、統計的に示されたデータによる再分配のおかげなのである。
(たとえば、これだけの警官を雇ってこのように配置すれば突発的な犯罪には対応できる、生活保護のためにはこれだけの税金の徴収が必要で、一人あたりこれだけ支払えば丁度対応できる、と計算することなど)
 逆に言えば、学問を活かして社会を動かしてくれる人がいるからこそ、彼女は何も学習しないで生きていけるようになっているのだが、世の中の仕組みは彼らにとってはブラックボックスどころかダークマターなので観測すら出来ない。「高度に発展した科学は魔法と区別がつかない」だなんて、よく言ったものだ。

第三段階:自身の経験を絶対化する
 そうした結果、他者から知を教わる機構が衰えきってしまっているので、頼りになるのは自身の経験しかない。他者に教わって新たな価値観を導入するということはせず、自分の感情に基づいた価値判断しか出来ない。
 
 例を出そう。母は独立した妹や姉に会いに年に何度か新幹線に乗っていた。父もこれには参っていて、貧乏家庭なのにそんなに何度も交通費出せねえよと嘆いていた。
 そこで僕は「ぷらっとこだま」というチケットを提案することにした。これなら新幹線でも「のぞみ」に乗るより遥かに安い。少し時間がかかるにしても、そこまで極端ではない。ドリンクチケットだって付いてくるし、旅行としては悪くない選択であるはずだ。そしたら、母親はなんと言ったか。

「私もこだまは若い頃乗ったことあるんだよ。お前、バカにしてんのか。時間はかかるし、ケツは痛いし。何時間かかると思ってんだよ」

 僕は説いた。今の「こだま」はほとんど700系だと。「ひかり」にも使われる車両だから座席は快適だし、時間だって年々「のぞみ」が速くなってるのと同じで、昔よりもずっと速く着く。最速の列車と比して遅くなるのは事実だが、費用を減らして、少しゆっくりしたって良いじゃないか、と。すると、母はこう答えた。

「だから私も乗ったことあるんだって言ってんだろ!何時間もかけて硬い椅子に座らされてさ!もう二度と乗りたくないね!!」

 もう聞く耳を持たない。こうして彼女は自分で稼いでもいない金を今も湯水の如く使っている。

第四段階:自身の知を更新しない代わりに、流行に乗る
 自分の経験を絶対化して、現状維持バイアスに流されてしまった反動なのか、流行のものを追いかけることで「学習」の代替としている。しかしそれはあくまで娯楽の範囲に留まっているわけだから、飽きて捨てて次のものを追いかける、というだけだ。つまり、内面化を伴わない点で学習と大きく異る。実のところは流行を追いかけるのではなく、流行に振り回されているだけなのだが……。


第五段階:将来のことなんて考えない
 想像できない将来のことを考えた行動が取れなくなってしまう。自分の今持っている経験や感情が何よりも大切で、現状から脱出するという発想すら出てこない。将来のことを考える余裕なんてない。しかし、コンビニやレストランでメニュー選びに延々と時間を割くような行為は「時間の無駄」と言って切り捨てる。浮いた時間で行うのは、テレビの視聴である。


 こうして、底辺親を見て育った子供は、「勉学を疎かにする」「想像力を無くす」「流行をただ追いかける消費サイクル」という生活を学習してしまう。これが再生産だ。吸収力のある幼少期から思春期にかけて、「学習しない」という学習を行ってしまうのだ。
 なお、さらに年をとって認知機能が衰えると現状維持バイアスは一層強固となってしまう。また、友人づきあいでも似たような者同士でのみ集まると更生の機会は著しく失われていく。
 対策は一つ。「常に価値観を更新していく」しかない。
 流行りを追いかけても良いが、「何故それが流行ったのか」「それが流行ると誰が得をするのか」「似て非なるものとの違いはなにか」「代替物は無かったのか」など、思考を続けることしかない。それこそが「学」である。学校の勉強は、そのための思考ベースや判断基準を作るためのものである。それが出来れば、「俺はいつもこうしてきたからこうする」という選択から離れられる。自分を少しでも将来マシにするための選択を取れるようになる……と思うのだが。
 ただし、「貧すれば鈍する」という言葉もある通りだから一概に当人の責任とするのも酷な話ではある。

 自身も年齢を重ねるにつれ、こうなってしまう可能性があるため他山の石としたいものだ。

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