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何かいい物語があって、それを語る相手がいる。それだけで人生捨てたもんじゃない。

34も齢を重ね、いよいよ35へと向かう途上にあって、またつまらぬ歳を取ってしまった風情だけれども、昔は誕生日ケーキを前に可愛らしい願い事や分不相応な抱負を吹いていたのが、今は一年間を家族友人と共々無事に生きてこれたこと自体にただただ喜びと感謝を覚えるばかりである。

生きているだけで幸せが保証される世の中でなくとも、生きていること自体が奇跡であることに変わりなく、その奇跡を元素レベルまでとことん還元すれば、それは日常であり、平凡であり、更に言えば、それらの中から美しいもの、善きもの、幸あるものを見い出す心であるように思う。江戸の歌人・橘曙覧の名歌「楽しみは 朝起きいでて きのほまで なかりし花の 咲けるとき」は、まさにそうした心のありようを詠み込んだ一首ではないかと、歌下手な僕は僭越ながらに拝察する。

自分の人生を一篇の作品だとすれば、この作品には特別なことは何も起こらない。人の人生の多くがそうであるように、多少の起承転結を含みながらも、境目などなく流れるように進んでいくだろう。他人にとってはさして心惹かれない日常描写が大半を占める自分の人生という作品は、書店で平積みされるほどのベストセラーになるべくもない。

でも、まあ、それでいいかな。

瑣末な日常、その行間の機微を筆に含ませつつ文字に落としてゆく営み自体に充足が宿るからだ。そうして生から死へと向かう僕自身と共に書き上げられた作品は、事も無げでもあり、いくらかの余韻を残すものになれればいいって思ってる。ブックオフの100円コーナーの隅っこにそっと差し込まれ、偶然手にとった物好きの誰かがポンと買ってくれたらそれでいいし、買われずに廃棄されても、それもまたよき。人、生きれば肉、死すれば灰、時が経てば歴史となる。思い出されるのが歴史であるならば、忘却されるのも、また歴史であろう。

とは言え、いまは生きている。生きていれば、物語が生まれる。何かいい物語があって、それを語る相手がいる。それだけで人生捨てたもんじゃない。

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