「今どきの若者」のリアル
この本をワンフレーズで説明すると
「Z世代は温かみに飢え、それを自覚していないハリネズミのようで扱いづらい」と思い込んでいる筆者がZ世代を描出しようとした
概要
Z世代と言われる人たちの社会環境の状況を業界の異なるオトナが多面的に記述しようとした
Z世代はオトナたちが生まれ育ってきた環境よりも「足らない」環境で育ってきたせいで付き合いづらいと主張している
きっかけ
一緒に働く仲間に年下が増えてき、私とコンテクストが異なることはわかるのだが、なぜ?何が?違っているのか、少しでも理解したい
読後記
そもそも、筆者も読者も動機が不純で不真面目である。楽して誰かのことを理解しようとする姿勢が軽蔑の対象にもなり得る。かくいう自分もその一人だと自責したい。ある番組で「Z世代と括ること自体がナンセンスで私たちのことをわかっていない」という語り口を聞いた覚えもある。申し訳ない。
そうだと思う。そもそも読者自身が努力の方法を誤っている。動画コミュニケーションユーザーを活字の記述で理解できる、という思い込みがボタンの掛け違いの始まりで、どこまで読み進めてもバイアスが残ったままになる。
本書に進もう。「認められたいけど、目立ちたくない」「高いキャリア安全性」を同時に求めるそうで、私(41歳男)のあたりまえにはなかった。なぜなら、手を挙げないと引き上げてもらえない環境で育ってきたから。
本書を読まない人は心配しなくてもいいと思う。指先だけで動画編集も発信活動もできる十分なスキルを持っているのだろうから。どちらかというとキャリアへの不安を生み出しているのは、旧態依然のインタフェースに合わせる強要する環境、つまり、私を含む環境設計する側に問題がある。控えめな彼らはこちらを指さないだけなのだろう。指せば目立ってしまうから。
それに気づかずにオトナたちが「彼らはキャリア育成してもらえなくてかわいそうなので指導してあげよう」と意気込みで接するばかりに、彼らは弱い立場の振りをしてくれ、ご丁寧にも「弱者の脅迫」を展開してくださったりする。その末路が「無敵の人:京王線死傷事件」ともいえ、ホアキン・フェニックスが演じる「ジョーカー」がパロディーの元になったりする。生きづらさを生み、機会を奪ったお前たちが悪いと。仰る通り。心にもないことをわざわざ言わせて申し訳ない。
スキルもあるし、見ている世界も違う。それを理解したうえで、「『平等に』扱ってください。そうすれば、安心します」と。平等の定義も異なるのだがここでは説明を割愛する。詳しくは「先生、どうか皆の前でほめないで下さい: いい子症候群の若者たち」を参照したい。
共存していくためには、パートナーとして一緒に協力し合って活動することがポイントだそう。私たちは学ぶべきことがある。つまらなさそうなTikTokの動画の面白がり方、なだれ込んでくる動画の捌き方、一刻を争う友人との情報のシェアの方法、などなど、私たちが時間を割くに足らないと思えど、やってみないことには歩み寄りは始まらない。
おわり
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