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生きるということの狂気

IQ5

最近、人間関係でしんどい思いをすることが多い。ほとんどが僕の撒いた種である以上仕方のない話ではある。

人は誰しも、例えば経済状況だとか、家庭事情だとか、外的な環境を問わず、固有の悩みを抱えて生きている。貧困者には貧困者の、石油王には石油王の悩みがある。そこに優劣の差はない。その痛みは本人にとっては切実なものだからだ。一方で、貧困者にとって石油王の悩みなどお遊戯にしか見えないと言うのも理解できる。何故なら、僕は僕以外の何者でもないからだ。僕は僕のことしか分からない。加えて僕は、想像力が貧困だ。故に「みんな苦しんでいるのだから、僕も(苦しいけど)生きていこう」という考えには与したくない。他人の痛みなど知ったものか。

ここ一週間二週間、人間関係と言うものをずっと考えていた。人間関係ほどポピュラーな悩みはない。家族、友人、恋人、クラスメイト、先輩、部下。一般的な人間であれば、少しでも悩みを解消したいと考えるものだが、人間関係に対してもそのはずである。しかし、如何にして解決され得るのか。

生きている限り、人と関わらなければならない。人との繋がりを完全に断ち切ることは出来ないことぐらい、まだ社会に出てない僕ですら分かる。

異邦人のムルソーのように割り切り、振り切れればいいのか。そんなことが成しうる人間は、彼以外にいるのだろうか。少なくとも僕には不可能だ。僕は生まれつき、人の視線や、どう思われているかにヒステリックな人種なのだ。

人として生を得た以上、今ここにある生と、人間関係は不可分な関係だ。

即ち人間社会から自分自身を解放するためには、生を諦めるしかない。ムルソーもまた、生を諦めた人間のように思われる。彼は何も期待しない。社会的地位や立場に固執しない。愛情や友情と言った抽象的なものの存在を一切認めない。僕はムルソーのようにはなれない。

そうなると、僕にとっての生を諦めるとは、物理的な死を意味する。それが唯一の、この悩みを解消するための手立てだ。

けれども、ほとんどの人は死を選ばない。でなければ、地球は今75億を越える人間を抱えていないはずだ。

僕が不思議に思うのはここだ。何故彼らは、人間関係と言う悩みを完全に解消しようとしないのか。嫌だ嫌だと辟易しながら、人間と関わり続けるのか。

きっと僕の考えは極論暴論、飛躍の類なんだろう。環境問題を解決したいなら、人間を皆殺しにすれば良いと主張するのとさして変わらない。

また人は、人間関係から不快と同じくらいの快や幸福を得ているのだ。快を得るために、不快を必要悪として同時に得ているのだ。生を諦めるとは、(人間関係から得られる様々な)快を捨てる代わりに、不快を限りなく低減させることを意図したものだ。

快を増大させるために、不快も引き受ける。不快を消滅させるために、快を諦める。70億以上の人間は前者を選ぶ。

またこうとも考えられる。単純に死ぬのが怖いのだ。つまり、生きることよりも、死ぬことの方が不快の量は段違いに大きい。けれどもどうだろう。今を生きる75億もの人間は死を経験したことがない。にもかかわらず、死の不快量を云々するのは馬鹿げた話に思わないか。それにいつか必ず死ぬではないか。

恐らく70億以上の人間に死を恐怖させ、生に駆り立てているものは根源的な何かなのだろう。死にたいと思っても、ぎりぎりの所で体が生きることを欲する。体がかわす。僕らを生に駆り立てるのものは、何なのか。そこに僕は一種の狂気を感じる。生と言う方向へ、皆一列にまっすぐ進んでいく、生の全体主義。

よく分からない。でも生きなければならない。生きていきたい。僕はそこにこそ飛躍を覚える。生きとし生けるものは、皆狂人だ。地球は、75億の狂人に埋め尽くされている。

僕はあらゆる不快を消滅させたい。けれども、やはり僕もまた狂人のようだ。ぎりぎりの所で、何故か生きたいと欲してしまう、地球で最も典型的な精神異常者なのだ。生きるや、死ぬと言うことに対して飛躍した考えしか僕は持ちあわせていない。そして75億の人間が同じくそうなのだ。我々は皆、飛躍した論理の下、生きている。

故に、僕が先程提示した、人間社会から自分自身を解き放つ方法、即ち生を諦めることを飛躍と断じ、一辺倒に生を肯定することこそ、筋の通らぬ暴論に思えてならない。

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