見出し画像

ミューズ

ミューズ ギリシャ神話で、文芸・学術・音楽・舞踏などをつかさどる女神ムーサの英語名。

 ミューズとは私の地元にある喫茶店の店名である。私はその日知人に誘われ、体操教室の帰り道に初めてミューズに寄った。ミューズは面白い店で、カレーの専門店でありながらマスターが芸術に精通していることからギャラリーの役割も果たしており、地元の芸術家と芸術を愛する人々が集うサロンとなっていた。私は美味しいカレーを頂きながら、壁一面に飾られた油絵をみる。絵を見ることは好きなので、その中からお気に入りの一枚を探す。そんな私に連れの女性がマスターを紹介してくれた。マスターはのんびりとしたしゃべり方が特徴の、背の高い優しそうな男性だった。きくとこの方はガラス絵をやるのだという。ガラス絵。あまり馴染みはないが、この人がつくるのだからきっと素敵な作品たちに違いないと感じた。

 さらに面白いことにマスターは気功をされるのだという。カレーに芸術に気功。次々と変化球のように繰り出されるワードに目を白黒させていたら、早速空いたスペースにイスを置きその上に座らせられる。「ただでいいから」というマスターの言葉に後押しされ、私は膝の上に手を置き目をつむった。背後にたって私に手をかざしマスターはこういった。「この子は本当にいい子だ。魂が大きい」と。マスターのこの発言に私は最初意外性を感じ、無暗におだてられているのではないかと感じたがすぐに納得した。私は何といっても「あの人」の子孫なのだ。

  私はマスターに問うた。「私は心も体もボロボロで、良い生き方もできていません。これで本当にいい人間だといえるのでしょうか」と。マスターはその問いに、「魂の大きさは生まれ持ったものであるから、現在の状況とは関係がありません。君が今ひどい状態にあるというのなら、何かとても傷つくことを経験したのではないですか」と応えた。私は詳しい事情は話さなかったものの心の中ではこう思った。「はい。生まれてからほとんどの期間を私は土の中で過ごしてきたようなものです」と。それにしてもこのマスターの発言がどれだけ私の魂を慰めてくれたことか。私は成長する中で忘れていってしまったが、もともとはとびきり心ばえの良い女の子だったのだ。自尊感情が損なわれていく中でも私は優しさだけは失わなかったのだから。そしてこの店に集う人々をみて思った。皆さんなんて楽しそうに生き生きとしているのだろう、と。そこには私の育った家庭にはなかった空気をまとう人たちが大勢いた。生まれてきたこと自体が段々と罰のように感じられていった私とはまるで正反対のカッコいい大人たち。ここでいうカッコいいとは自分を愛し、また周囲の人たちにも幸せを分けてあげられるような人のことを指す。私はそういう人になりたかったのだ。そして何も間違えなければそうなれたはずなのだが、私は成長する過程で自分をどんどん見失っていってしまった。本来ならばすべての子どもたちが、親からの無条件の愛情を受けて育つ必要があるのだろう。愛された記憶のある子供はどこにいっても何が起きても生きる道をみつけられるはずである。

 また私はこの店の奥さんが好きだった。控えめで優しくて夫をたてていて。奥さんの献身的な支えがあって初めて、この店はなりたっているのだと感じられるぐらいであった。ここの夫婦は端からみても本当に仲が良いのだ。私は世の中にはこんな夫婦もいるのだと感心する思いで彼らを眺めていた。と同時になるべく多くの子どもたちが仲の良い夫婦の下で、その存在を祝福されながら成長できるようにと願わずにはいられなかったのである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?