秦野ててて

アロマンティックアセクシャルでフィクトセクシャルの人間のメモ用紙です。

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AロマンティックAセクシャルとしての自己紹介/AロマAセクに批判的な層の分類

自己紹介の記事をほかに2件ほど書いてきましたが、AロマンティックAセクシャル(他者に恋愛感情や性的関係欲を一切持たない)としての部分はほとんど話せていなかったので改めて書きたいと思います。 基本的なプロフィールとしては、 シスジェンダー女性、フィクトセクシャルです。 一般的なキャラオタクで、なおかつAロマAセクだから、結果的にフィクトセクシャルと呼べる状態にある、というイメージです。つまり、大半のキャラオタクは現実性愛者かつフィクトセクシャルだ、というふうに考えています。

    • セクシャリティなどに関する個人的なスタンス

      私自身、セクマイ当事者で、LGBTQ+のアライでもありますが、同じ立場の人と考えが合わないシーンがもちろんあります。 同じ当事者だからこそ、同じアライだからこそ余計にスタンスの相違がないか不安になるという方も多いかと思います。 ここでは、私個人の基本的なスタンスを書きますので、ご参考にしていただければと思います。 基本情報 ・シス女性 性違和はないが、女性であることにこだわりがないので、消極的なノンバイナリーと言えるかもしれない。 ・アロマンティックアセクシャル 現

      • セクを細分化する意味/倫理的オタクのバグ

        二本仕立てで、散文的にセクシャリティのことを書いてみようと思います。 ■セクシャリティを細分化するのはなぜか? あるセクシャルマイノリティの当事者の方とお話ししていた時、「どうしてセクシャリティを細かく分類するのかな? 自分は自分でいいじゃない。」と話されていたことがありました。 既存の概念や言葉と隣接しているものの、微妙に違う新語を若い人たちが作ることに対しての言及だったかと思います。 私はそれに対して、 ・この世界にまだない概念を誰かに伝えたり自分の中で整理するた

        • キャラクターは実在しないし、人権もないし、自由意志もない

          フィクトセクシャルを自称する私ですが、キャラクターの実在性についてどう考えているか話したいと思います。 フィクトセクシャルと言っても、キャラクターの夢女子(ドリーマー)でもガチ恋勢でもないので、単なる一般的なキャラオタクです。 他の記事から引用しますと、次のような認識を持っています。 まず結論を書きますと、キャラクターの実在性について以下の3点の考え方を持っています。 1.キャラクターはおのおのの世界の中で生きているが、我々の世界には生きていない。故に実際の人権は存在

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        AロマンティックAセクシャルとしての自己紹介/AロマAセクに批判的な層の分類

          ふたなりがすきなのだが語ってもいいだろうか/非典型的フィクトセクシャルの一事例

          ふざけたタイトルではじめてしまった午前2時。文末は、過剰に「である。なのだ。」を用いておりますが、ずんだもんナレーションのギャグ文体を意識しております。大事なところは太字にしてあるので、それ以外読み飛ばしてもらって構いません。性癖のことしか話してないので… 気になって加筆しているうち、約5000字にもなってしまいました。物書きでもないのに、何かしかの敗亡者なのではなかろうか。 前回の記事見てもらった方もいるかもですが、まずプロフィール書いておきます。 ・シスジェンダー女

          ふたなりがすきなのだが語ってもいいだろうか/非典型的フィクトセクシャルの一事例

          実在者とキャラクターとの連結性について/非典型Aセクシャル・フィクトセクシャルの一事例

          私は非対人性愛者です。現実の人物には惹き付けられず、キャラクターに対して惹き付けられます。しかしながら、ある種の要素が非典型的であるために、Aセクシャルとしても、フィクトセクシャルとしても、少し特殊な構成をしています。 私はAセクシャルでありながら、実在者を性的に見ることがあります。また、フィクトセクシャルでありながら、いわゆるガチ恋でもなく夢女子(夢男子)でもありません。 非典型的な一事例として、実在者とキャラクターがどの程度・どの範囲で、連結しうるかをまとめようと思い

          実在者とキャラクターとの連結性について/非典型Aセクシャル・フィクトセクシャルの一事例